第三章 那古野(4)
尾張国の北端では、木曾川は東から西へと流れて美濃との国境となっている。
織田与次郎が拠る犬山城は、この川を北に見下ろすかたちで築かれていた。
もとの名を乾山といったが、これを丸ごと要害とした山城である。
城の南麓には武家屋敷や町家、社寺が集まっている。
美濃との最前線に位置して、いつ敵が攻め寄せるともわからない城だが、それだけ人や物の出入りも多い。
与次郎の家臣と、備後守から派遣された与力の侍たち。
兵糧米や武具と、それを運び込む百姓人足。
また城の北東には川湊があり、戦時でなければ木曾川を上り下りする川舟や、対岸の美濃への渡しが行き来する。
湊に出入りする人や物も犬山の城下を通過することになり、この地には賑わいが生まれ、商いが行われる。
こうして津島や熱田には及ばずとも、町場が形成されているのである。
その町の、南東の外れに、犬山城とは別の城跡があった。
木之下城という。いや城址というべきか。
本丸があった小高い丘の北と東に、空堀が残っている。
南には曲輪が土盛りをして設けられてあり、これもそのままとなっている。
しかし屋形や櫓、塀は全て取り払われて跡形もない。
だが、あらためて旧本丸の丘と南の曲輪の周囲には柵が巡らされ、槍を手にした侍たちが随所に見張りに立っていた。
そして旧本丸には、そのまま寺の本堂となりそうな大きな屋形と、それに寄り添う庫裏のような建物が。
また南の曲輪には、これも寺の小堂という体の小屋が、それぞれ建てられていた。
大きな屋形は織田弾正忠信定の棺を安置した龕前堂であり、庫裏のようであるのは導師の控所だ。
小屋のほうは、信定の火葬の場となる下火屋であった。
龕前堂の堂内では葬儀の準備が進められている。
祭壇の中央に故人の念持仏であろう千手観音像が配されている。
左右にはいくつも香炉が置かれ、盛んに香が焚かれている。
天文七年、十一月。
すでに寒さは厳しいが、祭壇の前に安置された棺から漂う死臭は隠しきれない。
若い僧侶や小坊主たちが、堂内にずらりと並んだ経机に経典を積み上げて回る。
犬山城から派遣された近習、小姓らが、喪主と親族の席とするため藁で編んだ円座を敷き並べている。
そこに、がやがやと声高に話しながら、三人の男が入って来た。
「こりゃあ仮普請とするには立派すぎるわ。このまま本堂にすりゃあええだろうが」
「織田弾正忠家の威光を示すには、菩提寺の落慶法要はあらためて真新しい本堂で執り行いたいということでしょう」
「まことに菩提寺がこの地でええんかのう、親父殿は、そこまでここを気に入っておられたのかのう」
いずれも備後守の弟で、兄によく似た面影がある。
三人のうちで年長の孫三郎は二十三歳。
兄より豊かな口髭を蓄え、がっしりと逞しい体つきの美丈夫だ。諱を信光という。
次いで四郎次郎は二十歳過ぎ。
兄弟のうちでは珍しく、よく日に焼けた浅黒い肌をしているが、兄たちに劣らぬ端正な面立ち。細く整えた口髭も似合っている。諱は信実。
末弟の孫十郎は二十歳前で、いつも困っているように眉を「ハ」の字にして猫背である。
口髭を蓄えたいのであろうが兄たちのようには生え揃わず、まばらなそれを、しきりに撫でて気にしている。
元来は美形であるのに、何事にも自信なさげで頼りない様子なのが残念な男だ。諱は信次といった。
「おめえは何も知らんな、孫十郎」
孫三郎が呆れた顔で末の弟に言った。
「与次郎兄者が親父に幾度も、犬山城内に新しき御殿を建てたゆえ木之下の城は引き払うてくだされと願うたのに、親父は老いぼれに毎日の山登りなど耐えがてえと申され、床に伏せるまでこの城を隠居所となされていたんだわ」
「さては、どこぞに妾でも囲い、日々通われておいででしたかな」
四郎次郎が笑う。
「隠居の身で新たに側女を迎えることを憚られたか、あるいは人に申せぬ忍ぶ恋でもございましたのか」
「乾山の砦に手を入れて新たな居城といたした時点で、本来ここは用済みであったのじゃ」
孫三郎は腕組みをして、
「出城と申すには近すぎる上、犬山のほうがよほど堅固であるからの。敵に奪われ、向城にでもされたら面白くねえ」
「だから父上が倒れて早々、与次郎兄者もこの城を取り払ったわけですな。親父殿には申し訳のないことと申されておいででしたが」
四郎次郎が言い、孫三郎はうなずく。
「いずれにしろ親父と縁のできた土地じゃ。城跡をこのままにするより菩提寺でも建てておきゃあ、親父の霊が犬山を守ってくださるだろう」
「なれどその犬山というのが、儂にはどうも、しっくり来んのじゃがのう」
「おのれの得心など知ったことか、孫十郎。これは親父の菩提の話じゃ」
納得いかない様子の末弟に、孫三郎は、ぴしゃりと言う。
そこに備後守と、そのすぐ下の弟、与次郎が連れ立って現れた。
機嫌のよさそうな備後守に対し、与次郎は苦り切った顔をしている。
一番年の近い兄弟だが、与次郎は備後守とはあまり似ていない。
色こそ白いが大きな鷲鼻が目立つ厳めしい顔つきだ。
備後守が孫三郎たちに、にこやかに言った。
「おう、よう来たのう孫三郎、四郎次郎、それに孫十郎」
「来ぬわけがねえ、親父の葬式じゃ」
孫三郎が眉をしかめて言って、四郎次郎が笑い、
「三郎兄者が喪主をお務めでございますからな。それらしいことを言ってみたかったのではないですか」
「四郎次郎めこやつ、我が心の声を盗み聞いたか」
備後守は笑う。
孫十郎が与次郎にたずねた。
「与次郎兄者は、そのような怖いお顔で、いかがなされたのかのう」
「兄者が、ここに菩提寺は建てぬと申される」
与次郎が苦い顔のまま答え、四郎次郎が目を丸くした。
「なんと。では三郎兄者は父上の菩提寺をどうされようと」
「那古野に建てる」
備後守は答え、にやりとした。
「彼の地が我ら織田弾正忠一門の掌中にあることを国中に示すのよ。なに、しばらく前から考えていたことだが、親父殿が長うはないと聞いて、いま話すことではないと控えておった。それが意外に踏ん張られたからのう」
「一時は持ち直してくれるかと思うたが、最期はいつまでも苦しまぬよう御仏の思し召しもあったのじゃろう」
与次郎は神妙な顔になる。
孫三郎が渋い顔をして、
「那古野なんぞ親父には何の縁もねえぞ」
「ええ、それであれば父上が長く在城なされた勝幡、あるいはそこから近い津島に建てられるのがよろしいでしょう」
四郎次郎も苦笑する。
孫十郎は眉をひそめて何やらぶつぶつ言っているが、はっきりしないのはいつものことで、兄たちは相手にしない。
「……いや……うん、それはどうなんじゃろうのう……」
「皆こう申しておるぞ、兄者。儂もこの犬山にはこだわらぬ。されど那古野というのは、いかがなものか」
与次郎は言ったが、備後守は首を振り、
「儂が当主として、我が家の菩提寺を那古野に建立すると決めたのじゃ。いずれ諸方の寺にある先祖代々の位牌も移そうぞ」
「……それならいっそ、清須がええと思うのじゃがのう」
孫十郎が、ぽつりと言った。
「武衛様の守護所もござって、この尾張の中心じゃし、何より母上の菩提寺の含笑院がござるからのう。清須に父上の菩提寺を建てたら、母上の墓所も同じ寺に移すのはいかがかのう」
「墓を移すなら清須でなくてもええだろうが。たわけたことばかり申すでねえぞ、孫十郎」
孫三郎がまた、ぴしゃりと撥ねつけた。