第三章 那古野(3)
仏壇を横に見るかたちで、吉法師は大橋源左衛門と対座した。
それを見守るように、蔵と清兵衛が下座に並ぶ。
源左衛門は清兵衛と似て整った顔立ちだが、よく日に焼けて体つきは逞しい。
健康に恵まれた兄を清兵衛はどのように見ているのかと、ふと吉法師は興味をそそられる。
大橋の本家は清兵衛が継いだが、病がちでは思うに任せないことが多いであろう。
「大橋源左衛門にござる」
白い歯を見せ、よく通る声で挨拶する源左衛門に、吉法師は一礼した。
「織田備後守が一子、吉法師と申しまする。禅休入道殿には我が姉、蔵が目をかけていただき、それがしも直接お会いする機会は多くありませなんだが、姉からそのお人柄を聞かされて入道殿を親しき伯父御のように思うておりました。誠に惜しむべき方が亡くなられて、こたびはお悔やみ申し上げまする」
「これはご丁寧に痛み入る。されどご縁のある皆様方にお弔いいただき、中陰も過ぎて故人も往生できたことでござろう」
「……でございますな」
吉法師は無意識に丸まってきた背筋を伸ばす。
あらたまった席は苦手なのである。
それに源左衛門と会いたかったのは、こうした型通りの挨拶をするためではない。
「では、これよりは幼き者の戯れと思うて、しばしつき合うていただきたい」
吉法師が告げると、源左衛門は笑顔のままうなずいた。
「よろしゅうござる。さて、何が飛び出しますやら」
「美濃とはいかなる国であるか。地勢ではなく政事についての話じゃ」
吉法師はたずねた。
「美濃にも尾張にも守護がいて守護代がおる。その下には小守護代なり奉行なりもおろう。されど力なき者は、ただ神輿として担がれるばかり。しかもどの神輿に渡御を願うかは担ぎ手が選ぶ。まことの御神前の祭礼と異なり、政事における神輿は軽ければ軽いほどよい」
「これは何とも危うげな戯れにござるな」
源左衛門は笑うが、吉法師は真顔のまま、
「尾張で申せば神輿は武衛様じゃ。武衛とは兵衛府の唐名にして、斯波家の当主が代々、左兵衛督に任じられたことによる。されど、いまや官職など神輿の瓔珞がごとき飾りもの。斯波家自体も武衛という勇ましき名と釣り合わぬ、公家がごときものと化しておる。血筋は貴しといえど武威は備えぬ、担ぎやすき神輿よ」
「さて、この場限りの話と思わねば、申せぬことではござれども」
源左衛門は微笑みながら、
「美濃もまた御同様にござる。応仁の大乱に始まり、どれだけ新たな神輿が庫から担ぎ出され、担ぎ手もまた交替したことか」
「そう、聞きたいのは、その担ぎ手についてじゃ。いまの美濃では誰が神輿を担いでおるか。いったいどれほどの器量の者じゃ」
吉法師がたずねると、源左衛門は思わせぶりに、くっくっと苦笑した。
「さて実のところ、その担ぎ手が代わったばかりでござってな」
「ほう。新しき担ぎ手は、どのような者か」
「もとは長井新九郎殿と申されたが、斎藤家の御同名となられて斎藤新九郎殿、また山城守殿と申す御仁にござる」
「婿にでも入ったか」
「斎藤家一門の長老、妙全殿から名跡の譲り状を授かったと申されてござるが、当の妙全殿は神輿の担ぎ手争いに破れてしばらく前から虜囚の身。しかも新九郎殿が御同名となられるに先立ち亡くなられてござる」
「譲り状さえ書かせれば用済みとなったか」
「あるいは譲り状など無かろうとて、それをあらためさせよと新九郎殿に求める者も、いまの美濃にはござらぬ」
「それで押し通せる程度に器量のある仁か。とはいえ長井と申すも斎藤家の庶流で美濃の小守護代を務める家柄。まるで無縁の者でもあるまい」
「ところがその御仁、父の新左衛門尉殿の代に長井の苗字を拝領した家来筋にござってな」
「うむ……?」
「新左衛門尉殿にしても京の妙心寺を出奔した元学僧にて、初めは生家の苗字とも在所にちなんだともいう松波を称してござった。これが長井家の当主、藤左衛門尉殿に気に入られ、長井の家老で絶家していた西村の家名を授かったのち、さらに御同名に引き立てられた次第」
「そして子の新九郎殿の代になると、主人を飛び越え斎藤家の御同名か。藤左衛門尉殿には面白くなかろう」
「その藤左衛門尉殿でござるが、新九郎殿が斎藤家の御同名となられる前に、越前国の朝倉家に内通し謀叛を企てた廉で上意討ちとなり申した。上意を得て藤左衛門尉殿を討ち果たしたのは新九郎殿にござる」
「……なんと」
吉法師は眉をひそめた。
「よほど神輿に気に入られておるか。いや担ぎ手がよほど達者なのであろう。藤左衛門尉殿の謀叛は新九郎殿が言い立てたのではないのか。神輿の担ぎ手をとって代わるために」
「朝倉との通謀が讒言であったにしろ、それをまことと美濃守様が疑うだけの事情がござってな」
源左衛門は、下座に向かって呼びかけた。
「蔵どの、何か一対になるものはござらぬか。黒と白の碁石でも、色違いの茶碗でもよいが」
「何でもよろしいですか」
蔵は立ち上がって次の間へ行き、何やら抱えて戻って来た。
紙雛であった。
白い紙を折って作った二つの人形に笑う目と口を描き、それぞれ青または赤に染めた紙で仕立てた服を着せて、男女一対にしてある。
「わたくしが嫁いで参りまして最初の上巳の節句に、入道殿が作ってくださいました。いにしえの公家の習いに従い、川に流すとよいと言われましたが、あまりに可愛らしくて手元に残しておりました」
蔵はそう言ってから、笑って、
「中陰も過ぎましたのに、入道殿はおかしいですね。これからは御法名でお呼びしなければ」
「まだ入道殿でもよかろう。よほど姉上を可愛がってくだされたのじゃな」
吉法師は引き結んでいた唇を緩ませる。
源左衛門は紙雛を受けとると、床に並べて置いた。
「この可愛らしき雛人形を政事の神輿にたとえるのは心苦しゅうござるが、赤きほうを当代の守護、美濃守様、青きほうをその兄の次郎殿といたそう」
青い人形を左手に持ち、
「さて御二方は美濃守護を代々務めし土岐家に生まれ、初めは兄が嫡男として元服。土岐次郎殿、諱を頼武殿と改められて、越前朝倉家の姫を御正室に迎えてござった。次郎とは土岐家代々の世子の仮名にござる」
次いで赤い人形を右手に持つ。
「ところが御父君である前の美濃守、政房公が、あるときから下の息子に肩入れし始めた。小次郎頼芸様の名で元服させて、これを世継ぎに替えるべく神輿の担ぎ手、つまり家来たちに働きかけたのでござる」
「……であるか」
うなずく吉法師に、源左衛門は、にやりと白い歯を見せた。
「でござるよ。これで担ぎ手が二つに割れた。守護代の斎藤妙全殿が長幼の序に従うべしと政房公をお諌めして次郎殿を立てると、小守護代の長井藤左衛門尉殿は美濃守様の仰せごもっともとばかりに小次郎様を支持した。つまりは斎藤と長井の争いとなった。まことの神輿の政房公は小次郎様を推してござるが、次郎殿には縁戚である越前朝倉が後ろ盾。神輿までもが二つとなり、やがて国を割っての戦となったのでござる」
源左衛門は赤い人形を床に置き、青い人形だけを左手に持ち続けた。
「戦は一進一退、一度は勝ちを収めた次郎殿も政房公と小次郎様を取り逃がし、次いで小次郎様が巻き返すと次郎殿は越前へ逃れる。そうした最中に政房公が病没されると、朝倉の援軍を得た次郎殿が越前から戻り、小次郎様を担ぐ者たちを屈服させて新しき美濃の太守となられてござる」
「藤左衛門尉殿も妙全殿に屈したか」
「いかにも。その後、妙全殿は隠居なされ、帯刀左衛門尉殿が代わって守護代となられた。ところが新しき守護代殿は、いささか力不足でござったようで」
再び赤い人形を右手に持ち、今度は青い人形を床に置く。
「ほどなく藤左衛門尉殿が再び小次郎様を担いで兵を挙げ、次郎殿は、またも越前へ逃亡。帯刀左衛門尉殿もともに逃れたが、妙全殿は捕らえられて幽閉された。このとき藤左衛門尉殿の片腕として大いに働いたのが新左衛門尉殿でござった。そののち小次郎様は朝廷より美濃守に任ぜられ、また幕府の許しを得て正式に美濃守護となられたのでござる」
「そうして土岐次郎殿と守護代の斎藤家を排除し、小次郎様あらため美濃守様という新しき神輿を庫から担ぎ出した美濃で、今度は藤左衛門尉殿と新九郎殿の担ぎ手争いが起こり、新九郎殿が勝利いたしたのか」
吉法師が言うと、源左衛門は赤い人形を床に戻し、笑顔で大きくうなずいた。
「いかにも左様にござる」
「さて美濃の国衆は、そうした争いをどう見ておる。父祖代々、美濃に根を張る地侍、また源左衛門殿のように自力で我が城を得た者は、神輿が誰であれ、おのれの領地を守らねばならぬであろう」
「されば新九郎殿の器量は皆、認めてござる。土岐次郎殿が太守でござった間、新九郎殿は沙汰人として、民と民あるいは武家と社寺の間の戦によらぬ争いに裁きを下しておられたが、理非をよく明らかになされると評判でこざった。国衆とて、おのれの領民と隣の領地の百姓との水争いを、いちいち弓矢の沙汰ともしておれぬゆえ、公正なお裁きが下るならそれが一番でござろう」
「神輿の担ぎ手となられた新九郎殿が、これまで通りの公正な裁きを下されるとは限らぬぞ」
吉法師は言った。
「沙汰人でいた間は裁きを下す相手は、おのれと関わりなき他人が大半であったろう。他人同士の争いと思えばこそ公平な目で見られたのじゃ。なれど一国の神輿の担ぎ手となれば裁く相手は皆、おのれの臣下も同然。とあればどちらがより可愛いか、その者を贔屓いたすのが人の常であろう」
「それもまた実のところ美濃の者が皆、案じるところでござってな」
源左衛門は苦笑する。
「すでに次郎殿へ味方いたした者へのお裁きで、罪の重き軽きが新九郎殿の胸三寸で決まってござる。最後まで同じように小次郎様へ抗った者が、ある者は次郎殿への忠義は見事と罪を免れ、別の者は憎き奴めと妻子とともに斬られ申した」
「かような裁きを下したのが、贔屓によるとばかりは限らぬぞ。ほかに考えられる理由は二つ、一つは見せしめじゃ。我に逆らえば苛烈な裁きが下るぞと美濃中に示し、だが皆を断罪すれば一度降った者も明日は我が身と再び背くやもしれぬゆえ、相手を限り罰するのじゃ」
「運の悪い者が見せしめとされるのでござるな。して若君には、いま一つの理由は何とお考えか」
「新九郎殿が我が物といたしたい、あるいは可愛き家臣に呉れてやりたい土地を奪うためじゃ。罰せられた者どもが召し上げられた領地と、罪を免れた者たちのそれとを貫高や地味の豊かさで比べてみればわかるのではないか。新九郎殿が儂の思うような御仁であれば理不尽な裁きの理由は贔屓ばかりではなく、見せしめと領地目当て、そのどちらもあろう」
「……でござるか」
源左衛門は、にっこりとした。
「これは行く末楽しみな若君にござるな。会うたこともない新九郎殿の人物を、そのように読み解かれるか。いや、おおむねその通りにござろうよ。されば、いま尾張にても美濃の斎藤新九郎殿と同様、神輿の担ぎ手に成り上がった御仁がおられるが、いかがでござろう」
「我が父、備後守がことを申しておるか」
吉法師は眉をしかめ、
「いかにも父は、尾張守護代たる織田大和守様の同族とは申せ分家の裔じゃ。されど、成り上がるのも実力あればこそ。強き領主を戴いてこそ国は豊かになる。いずれ力なき神輿に代わり、尾張一国を束ねてくれようぞ」
「なるほど。尾張が豊かになるのは望むべきこと。我が父祖の地、津島も富みまするゆえ。が……、備後守様が尾張を併呑なされたのち、次に兵馬を向けるは美濃にござろうな。それがし自らは備後守様と刃を交えずに済むことを願うばかりにござるよ」
源左衛門はそう言って、笑った。