第二章 熱田(7)
座敷に面した庭の外、土塀の向こうに海が見えた。
加藤図書助の屋敷である。
当主の図書助は、まだ備後守に臣従していない。
だから吉法師と図書助のどちらも上座とせず、座敷飾りを横に見るかたちで対面した。
吉法師の後ろに久助が、図書助の傍らには嫡男である又八郎が控えており、ほかに同席する者はない。
又八郎は二十代半ばで父親に似て顔も体つきも丸いが、ときおり鋭い目の光を見せて、一筋縄ではいかない者らしい。
茶と砂糖菓子が出された。
どちらも美味であったが、吉法師には、この場がどうにも落ち着かなかった。
年に似合わず沈着と周囲から評される吉法師だが、あらたまった席は苦手である。
「若君は、やまと歌は習い始めておいでですか」
図書助の問いに、吉法師は答えた。
「那古野に参るまでは津島天王の別当寺に通い、社僧たちから漢籍を学んでおった。その折に漢詩に触れる機会もあったが、やまと歌は手習いの手本といたしたのみ。歌の味わいを知るには、まだ儂は幼すぎるようじゃ」
「やまと歌は、天地ひらけ初まりける時より出できにけりと申しまして、いにしえから詠まれて参りました。歌には言霊が宿り、それゆえ人の心を震わすのだとも伝えられております。若君にもどうぞ、やまと歌を学ばれまして、人々の心を動かす歌をお詠みくださいませ」
「……であるか」
元来の福々しい顔を満面の笑みにして言う図書助に、吉法師は鷹揚にうなずく。
だが当たり障りのない会話を続けては窮屈なばかりである。
思いもかけず熱田の社家の重鎮、加藤図書助と縁ができたのだから、思い切ってたずねることにした。
「儂からも聞かせてもらいたいことがある。幼き者の戯れと思い、この場限りで聞き流してくれれば幸いじゃ」
「さて、なんでございましょう」
「津島十五党は、かつて我が祖父、霜台に抗ったものの、敵わぬと見て降参いたした。熱田の衆はいかがであろうか。我が父、備後守が兵を差し向けて来たとすれば」
「…………」
又八郎が、ぴくりと身じろぎした。何か言いたげであったが、こらえたようだ。
図書助のほうは笑みを崩さず、答えて言った。
「津島と熱田は異なります。津島十五党は南朝の遺臣を称し、独立独歩を是として参られた方々。霜台様に御敵いたしましても後詰めの味方はなく、やがて膝を屈するほかなかったものと存じます。ですが、この熱田では大宮司の千秋家が幕府奉公衆でもございます。これに兵を向けるは幕府に弓を引くのと同じこと」
「だが父は、同じく奉公衆の今川竹王丸から那古野の城を奪った。その上で幕府に献上の品とともに使者を送り、竹王丸の無道をあることも無きことも数え上げて那古野を我がものとすることをお認めいただいた。同じことが熱田で起こらぬと言えようか」
「熱田は海に面しておりますれば味方を引き入れるのも容易。たとえば駿河の今川家と結び、あくまで備後守様に抗するやもしれませぬぞ」
「それでは、熱田衆の主君が我が父備後守ではなく今川家に替わるだけのこと」
「む……なるほど、理非で申せば若君の仰せの通り。されど我らも社家である前に武家として父祖から家名を受け継ぐ者。されば意地というものがございまして」
「意地で熱田衆が算盤を弾き間違うとも思えぬ。熱田と津島の交わりにより、新たな商いの種が芽を出すやもしれぬのじゃ。それがなせるのも強き領主を戴けばこそ。熱田と津島を一つに束ね、いずれ尾張一国をも従えられる大将は、我が父備後守のみぞ」
「……これは」
図書助は目をみはり、くっくっくっと笑い声を上げた。
「いやなんとも末頼もしき若君でございますことか。そして御父上を深く尊崇なされておいでなのですな。されば大宮司の紀伊守様、またわたくしとともに大宮司様をお支えいたします舎弟、隼人佐ほか社家一同よく話し合い、この熱田にとって間違いのない道を選びましょう」
「……うむ」
吉法師は深く、うなずいた。
図書助の家臣が廊下を歩いて来た。
戸口で一礼してから座敷に入って来て、図書助に何やら耳打ちする。
図書助はうなずき返すと、吉法師と久助の顔を交互に見ながら告げた。
「先ほどの狼藉者が身罷りましたそうでございます。いやなに、荒んだ暮らしであったようですから、どこやら病んででもおりましたのでしょう」
「……そうでしたか。拙者もまだ修業が足りなかったようで」
久助はいくらか神妙な口調になり、答えて言った。