第二章 熱田(6)
那古野から熱田の宮まで連なる台地は、南へ向かうに従って東西の幅が狭くなる。
地図の上では縦長の逆三角形のような形状で、その頂点は海に突き出して岬となっている。
そこに、熱田湊があった。
岬の突端に位置していては波が荒いように思えるが、実のところ熱田湊は伊勢の海の内懐に抱かれている。
荒天の日は別として、普段は比較的、波は穏やかである。
「つまり殿が熱田の湊とすれば、そのお体を懐に抱えております拙者の左腕が知多郡、右腕が志摩国は志摩郡ということになります」
「……で、あるか」
久助のわかったようなわからないような説明に、吉法師は曖昧にうなずいておく。
その熱田の湊に吉法師と久助はいた。
騎乗のままだが馬を立ち止まらせて、しばし風景を眺めるかたちだ。
岬の突端に鳥居が立ち、この湊が熱田の宮の玄関口でもあることを示している。
その傍らには石燈籠が並び、
「早朝や夕刻、また霧が濃くなりましたときは火を灯して、沖から来る船への目印にいたします」
とは、先ほど久助から聞いた話だ。
岬の左右の浜は簡素な船着場で、波打ち際には板石が敷かれ、桑名からの渡し船であろうか十数人乗りの小型の帆掛け船が数艘、乗り上げてある。
岬から少し離れると敷石はなく、砂の上に漁師の小舟がいくつも引き上げられて並んでいる。
東国や西国まで往来する、より大型の帆船は沖に投錨し、艀に荷を積み替える。
艀が着岸するときは、敷石の浜から海へ向かい丸太を何本も横並びに置いたところに乗り上げる。
そのほうが浜への引き上げも、また荷降ろしのあと新たな荷を積んだ艀を海へ押し出すときも容易であるからだ。
岬のつけ根側、浜から奥まった辺りには問屋らしい建物が軒を連ね、樽やら箱やら米俵やらが運び込まれ、また運び出されている。
船着場からそこまでは道とも広場ともつかない空間で、人や荷車、ときどき荷馬や侍を乗せた騎馬が縦横に行き交う。
広場の隅には小屋掛けがされ、魚の市が立っていたらしい。いまは日も傾き始めて売り手も買い手もほとんど引き上げているが、漁師の女房らしい女が数人居残り、干物や乾物を竿に吊るした下で声高におしゃべりしている。
鳥居の側から見て広場の右手奥には大きな道が二本、北と東へ伸びていた。
北へ向かえば熱田の宮、東へ進めば東海道で鳴海へ至るのだろうと吉法師は見当をつける。
それぞれの道に沿って板塀があり、その向こうに屋敷や寺の屋根が見える。
東の道を進んだ先には橋が掛かって、その先の海側にも木々の生い茂る庭を土塀で囲った大きな屋敷があった。
久助が言った。
「ところで殿は、猫を抱かれたことはありますか」
「猫など身近にはおらぬ。奴野の城では土蔵の番をさせるために飼っておるが、人の顔を見るとすぐ逃げて行く。あやつどもが人の手に抱かれるということがあるのか」
吉法師は眉をしかめて言う。
自分で飼うなら犬のほうがいい。番犬になるし狩りでも働くし、何より主人に忠実だ。
久助の声音が笑いを含み、
「拙者の家には老僕が甲賀にいた時分に拾って来た雌猫がおりましたが、これが尾張へ来て仔を何匹か生みました。それを一匹だけ残して人に分けましたが、残った一匹が妙に人懐っこいのです。冬などいつまででも抱かせてくれて、まあ暖かくてありがたい」
「……であるか」
吉法師は、うなずく。
「その猫の話は、あそこに吊るされた干物を見て思い出したのか」
「いや、ここでこうしております間に思い出しました」
悪びれた様子もなく言う久助に、吉法師は呆れるほかはない。
「まさか、そのほうの懐におる儂を猫に見立てたか。儂は、にゃあとは鳴かぬぞ」
「え……いやすいません、もういっぺんお願いできますか」
「儂は、にゃあとは鳴かぬ」
「……尊い。若君のなんとも尊く、ありがたい鳴き声いやお言葉。にゃむ釈迦牟尼仏、にゃむ釈迦牟尼仏……」
久助は手綱から両手を離して、それを拝むように合わせた。
眼前で合掌されたかたちの吉法師は眉を吊り上げ、久助の手を払い除ける。
「やめよ」
「はい、これは申し訳ございません。それより何やら浜のほうが騒がしく」
「……む」
久助に言われて、吉法師は岬の東側の浜を見やる。
周りにいた人足や商人、近隣の百姓や漁師といった人々も足を止め、同じほうに目を向けて、ざわつき始める。
ちょうど到着したばかりらしい渡し船の間近で、侍同士が言い争っていた。
いや、声を荒らげているのは一方の、みすぼらしい身なりの侍だけだ。
色褪せた黒か、もとから鼠色か、粗末な小袖姿で袴は着けず、髪は乱れて髭面である。どうやら牢人者らしい。
もう一方は五人連れで、どこかの家中の重臣とその近習と見えた。折烏帽子に直垂姿で身なりは立派である。
しかし一行の主人らしい、先を尖らせた口髭を生やした陰険そうな顔つきの男が、相手を嘲弄するように何やら言って、家来どもが笑っている。
船の上で酒でも飲んで気が大きくなっているのだろうか、牢人とはいえ武士を相手に挑発的な危険な態度だ。
逆上した牢人者が捨て身で斬りかかってきたら、自分たちも無傷では済まないかもしれないのである。
迷惑しているのは渡し船のほかの乗客で、先に下船した侍たちが揉め始めたものだから、船を降りられずにいるようだ。
水夫ともども困り顔で船の上から様子を見ている。
「あれは藤左衛門殿じゃ」
吉法師は眉をひそめて言った。口髭の侍のことである。
「かようなところで何をなされておいでか」
「まあ桑名からの帰りでしょうなあ。織田藤左衛門殿は殿の御身内でございましたな」
声の調子をいくらか抑えてたずねる久助に、吉法師は眉間の皺を深めてうなずく。
「同じ織田でも藤左衛門家と我が弾正忠家とは古くに分かれておるが、当代の藤左衛門殿は我が祖母、含笑院殿の弟じゃ」
「でしたらこのまま見て見ぬ振りもできませんな。熱田大神の御前での刃傷沙汰も、もってのほかでございますし」
久助は辺りを見回した。
「殿、ちょっとすみません。鞍にしっかりつかまっていてください」
「む……?」
吉法師を残して久助は、ひょいっと馬から飛び下りた。
そして手綱を引いて馬を歩ませ、浜の騒ぎを眺めている野次馬の一人に声をかける。
「申し訳ありませんが、そちらの御家来のどなたかで馬をお預かりいただけませんか」
「うむ……?」
久助が声をかけたのは熱田の宮の神職であろうか、狩衣姿で立鳥帽子をかぶった福々しい丸顔の男だ。白衣ではないから神事ではなく私用で通りかかったらしい。
萎烏帽子を着けた従者を数人従えている。
「さて、どなたかは存じ上げませぬが凛々しき若君がお乗りでございますな。では、わたくし自ら責任をもって手綱をお預りいたしましょう」
「よろしいのですか? では、よろしくお願いします」
久助は男に手綱を預けて一礼すると、浜に向かって駆け出した。
ついに牢人者が剣を抜き、野次馬からどよめきが上がった。
藤左衛門と家来たちは、情けなくも途端に及び腰になり、後ずさる。
周りの船や艀で荷の積み下ろしをしていた人足や水夫たちは、足をすくませ、ただ見ているだけだ。
藤左衛門の家来の一人が刀を抜いたが、牢人者が剣を振り上げると、「ひゃあ!」と悲鳴を上げて尻餅をついた。
それを見た藤左衛門は、浜から陸へ向かって逃げ出した。家来のうち二人もあとを追う。
もう一人の家来は尻餅をついた仲間を引っぱり起こそうとするが、牢人者に怯えて腰が引けていたせいか、つるりと手が滑って自分までも転げてしまった。
剣を振りかざした牢人者は、転んでいる二人と、逃げて行く藤左衛門たちを見比べてから、
「……うぬ!」
と、藤左衛門のほうを追いかける。
吉法師は立烏帽子の男にたずねた。
「湊に番卒はおらぬのであろうか」
「おりますが、お武家同士の争いに割って入るのは難しきものと」
男は穏やかな口調で答える。
なるほど、六尺棒を携えた番卒がどこからか五、六人ばかり現れて、逃げて来る藤左衛門の行く手を遮らないよう野次馬たちを下がらせるが、自ら浜へ下りて牢人者を取り押さえることはしないようだ。
代わって浜へ下りた久助が、牢人者の前に立ちはだかるように進み出た。
「ぬ……何じゃ小童! いや小童の面をした若造めが! とにかくそこをのけい!」
怒鳴る牢人者に、久助は穏やかに声をかける。
「あなた、酒に酔っていらっしゃいますね」
「それがどうした! 酔うていようがどうであろうが、あの青侍どもの無礼を見過ごすわけに参らぬ!」
「青侍とは聞き捨てならぬ! 我らは尾張守護代、大和守様の御家中ぞ!」
野次馬たちの間に逃げ込んだ藤左衛門が言い返す。
いざとなれば野次馬を楯にするつもりだろう、卑怯未練というほかない態度で、性懲りもなく牢人者を罵倒する。
「おのれこそ物乞い同然の身なりで分もわきまえぬ大言壮語! 笑わずにおれるわけなかろうが!」
「うぬっ! 無礼千万許すまじ!」
牢人者は剣を振りかざして喚いた。
「いまは流浪の身と申せ、我が祖は源三位入道頼政公が家人にして遠州は浜名郡の住人……!」
「ああ、こんな状況で、どこの家の人とか名乗らないほうがいいですよ」
久助が、やんわりと遮る。
「あなたに父母兄弟や妻子がいたら累が及ぶことになりますから。熱田の宮の御神前での刃傷など大罪です」
「咎はあの青侍どもにある! 武士の面目を汚す以上の罪などあろうか!」
聞く耳を持たない牢人者に、久助は、やれやれと首を振った。
久助はしかし口調こそ穏やかだが、牢人者を宥めるつもりがあると吉法師には思えない。
選ぶ言葉の一つ一つが、相手の怒りを煽っているように聞こえる。
(……相手を逆上させて、その隙を突くつもりであろうか)
どうやら吉法師が考えた通りのようだ。
牢人者は意味のわからない叫びを上げて、久助に斬りかかった。
久助は素早く相手に向かって踏み込むと、腰の刀を抜き放って一閃させた。
鈍い音がした。
「……ぐべ……!」
牢人者は口を震わせ喘ぐ。その顔が見る間に青黒く変じる。
久助の刀の峰が、牢人者の脾腹に打ち込まれていた。
「…………」
憐れむような目を相手に向けながら、久助は横手に下がって刀を納める。
牢人者は剣を取り落とし、浜に両膝をついた。
「……ぐぇ……げぇ……!」
苦しげに呻きながら両手で脾腹を押さえ、その場に転がって、喘ぎ続ける。
藤左衛門が、自身は何もしていないのに勝ち誇ったように叫んだ。
「思い知ったか乞食牢人め! 清須の守護所へ引き立て、仕置いたしてくれようぞ!」
「ああ、それはどうですかね」
久助は遠巻きに様子を見ていた番卒たちを振り返り、呼びかけた。
「御神前での狼藉者ですが、ちょっと手加減が足りなかったようです。ここからであれば加藤図書助様のお屋敷が近く、罪人を入れる牢もありますでしょう。ひとまず運んでいただくのがよろしいかと思います」
「お……襲われたのは我らじゃ! 詮議なら守護所にていたす!」
なおも叫ぶ藤左衛門に、にっこりと久助は笑いかけた。
「さて桑名からの船中で、貴方様と、この牢人者との間に何があったかは存じません。ですが尾張守護代、織田大和守様の御家中を名乗られながら、狼藉者に背を向けて逃げるばかりの姿は、この場の皆が目にしております」
「ぐぅっ……!」
藤左衛門は呻き、
「き……貴様は何処の家中じゃ!」
「織田備後守が家中にて、拙者は滝川久助と申します」
「備後が家来じゃと!」
「貴方様もどうやら少しばかりお酒を過ごされている御様子。いかがでしょう、ここは一つ、何事もなかったということで収められては。ただ酒に酔った牢人者が一人で暴れたということで」
にこやかに告げる久助に、藤左衛門も、ひきつった笑みで応じた。
「……な、なるほど。儂も少し酔うておったのかもしれぬ。いまこの場では、何もなかったのじゃな」
「はい、御神前での狼藉者があったとして、そのお裁きは熱田大神が下されましょう」
「うむ、いかにも左様、しからば我らは先を急ぐゆえ御免!」
藤左衛門は家来たちを従えて、そそくさと立ち去った。
一方、番卒たちは浜へ下りると、青い顔で息も絶え絶えな牢人者を引き起こし、左右から抱きかかえるようにして連れて行く。
久助は吉法師のもとに戻って来て、馬の手綱を持つ立烏帽子の男に頭を下げた。
「大変失礼いたしました。熱田大神に奉仕なされる神職の方とは存じましたが、危急の折でごさいましたので」
「いや見事なお手並みでございました。御神前での狼藉を鎮めてくださり、感謝いたします」
立鳥帽子の男もまた礼を返し、
「織田備後守様が御家中、滝川殿と申されましたな。では、こちらの若君は」
「はい、備後守様の御嫡男、吉法師君にございます。いまは那古野の御城主を務めておられます」
「おお、左様でございましたか」
立烏帽子の男は手綱を久助に返し、一歩下がって、吉法師に頭を下げた。
「それがし、この熱田の宮の社家にて加藤図書助と申します。若君には、いまの騒ぎに大層驚かれましたことでございましょう。よろしければ我が屋敷にて、しばしご休息遊ばされましてはいかがでしょう」
「これも御縁です。いかがでしょうか殿」
にこやかに久助も勧めて、吉法師はうなずいた。
「……うむ。そういたすとしよう」