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信長廃嫡  作者: 白紙撤回
終章  聖徳寺
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終章  聖徳寺(結)

 

 

 

 三郎と帰蝶の三献の儀のあとは、再び歓談となった。

 新郎新婦の席の斜め前には、何やら文字が記された太いたすきを肩から腰へ斜めに掛けて、滝川久助と恒川久蔵が立つ。

 久助の襷には『総合司会』と、久蔵の襷には『宴会部長』と記されていた。

 久蔵は給仕として裏方に徹すると言っていたのを、久助が表舞台に引っぱり出したのである。

 

「それではここで、新郎新婦に届いております、お祝いのお手紙をご紹介させていただきます」

 

 一通の書状を手に、にこやかに語る久助の隣で、久蔵は居心地が悪そうに引きつった愛想笑いをしている。

 もともと笑顔に愛嬌のある久助は、祝いの席の司会はハマり役であった。

 

「初めに新郎の姉で、津島十五党の大橋家当主、大橋清兵衛様に嫁いでおられるくら様からのお手紙です」

 

 久助は書状を読み上げ始めた。

 

「三郎殿、ご結婚おめでとう。いつも岩室十蔵殿の懐にすっぽりと収まり、馬の背に揺られて津島を訪ねて来た小さな吉法師殿が、もうそうした年頃なのですね」

 

 それを聞いて三郎は眉をひそめ、帰蝶に告げる。

 

「儂の幼き頃を知る者には、頭が上がらぬ」

 

 帰蝶は笑って、

 

「懐にすっぽり収まるって、可愛いじゃないですか」

「可愛いか否かは知らぬ」

 

 ぷいっと、そっぽを向いた三郎が耳を赤くしているのに気づいて、帰蝶は可笑おかしくてたまらない。

 

「いや絶対、可愛いですって。いまの三郎殿もですけど」

「……知らぬ」

 

 三郎は、そっぽを向いたままで言う。

 久助が書状を読み進めた。

 

「幼い頃から聡明で、でも、あまりに大人びていた吉法師殿は、まだ小さな肩に背負いきれないものまで自ら担ごうとなさるのではないか、それが重荷になって心が押し潰されてしまわないかと、心配になることもありました。元服をなされても、いつまでも童形どうぎょう幼名ようみょうを名乗られ続けていると最初に聞いたときは、不安が現実になったかと思いました。ですが、その後の吉法師殿がなされることを見聞きして、吉法師殿は、ずっと変わらず吉法師殿なのだと理解しました。大人たちの誰よりも沈着冷静であった吉法師殿は、決して自分を見失うことなく吉法師殿であり続けたのです」

 

 三郎は顔を伏せて首を振り、

 

「……滝川久助の声で、かように褒められ続けると、耳がむずがゆくなって参る」

「じゃあ、あとで手紙を借りて来て、アタシが読んであげましょうか?」

 

 くすくすと笑って帰蝶が言うと、三郎は、うらみがましく上目遣いに睨んで来た。

 

「左様な真似をいたしたら、決してそなたを赦さぬぞ」

「そんな、しょぼくれたお顔で睨まれても、怖くないです」

「……いったい何奴なにやつじゃ。婚礼の席で、誰ぞから届いた手紙を読み上げようなどと奇態な趣向を考えた者は」

 

 三郎は、またそっぽを向いて首を振る。

 帰蝶は笑い、

 

「きっとこれが流行して、そのうち婚礼では当たり前になるでしょうね」

「……知らぬ」

 

 三郎はねたように言う。

 久助は書状の最後の部分を読み上げた。

 

「でも、ご結婚なされるからには、もう吉法師殿とは呼べませんね。これからは三郎殿とお呼びいたします。三郎殿ご自身も、いずれ一家の長となる身として、まずは奥方様の頼れる旦那様、三郎殿としてお振る舞いください。そして奥方となられる帰蝶様に申し上げます。ときには子供みたいなこともなさる三郎殿ですが、とても聡明で、そして優しいお方であることには、すぐに気づかれると思います。どうぞお二人で幸せな、次代の織田家を作り上げてください。大橋清兵衛内室、蔵より」

 

 これを聞いた春日丹後が、ときおり手の甲で目元を拭いながら、何度も何度も手を打った。

 

「いや姉上様からの、心暖まるお手紙ではござらぬか。それがし、もともと年のせいで涙(もろ)くなっておるが、これはもう泣けずにはおられぬぞ」

 

 平手が、うんうんと大きくうなずき、

 

「いかにも、蔵様は年の離れた姉君であらせられたゆえ、幼き日の我が殿、吉法師様を教え導く師となる存在でござったのじゃ」

 

 その言葉に、三郎は仏頂面をした。

 

「平手め、儂が幼き頃には姉上を訪ねることを快く思わず、それよりは書物を読み学問いたせなどと申しておったものを」

 

 帰蝶は笑って言う。

 

「年寄りに昔のことを語らせると、都合の悪いことはすっぽり忘れて、なんでも自慢話になっちゃうものでしょ」

「うむ……違いない」

 

 三郎は渋い顔のまま、うなずく。

 久助が、もう一通の書状を手に、また語り始めた。

 

「続きまして、蔵様のご友人で新郎とも幼い頃から交流がございました、服部ナツ様からのお手紙をご紹介いたします。ナツ様は津島十五党の恒川家のご出身で、先ごろ、津島天王社の社家である服部乙若大夫様に嫁がれました。このお手紙はナツ様の弟で、こちらにおります恒川久蔵が、ナツ様の声色を真似て読み上げさせていただきます」

 

 これには列席者一同が、どっと笑い、久蔵本人は「ちょっ……ちょっと滝川様!」と大慌てした。

 春日丹後が手を打って、

 

「今度はモノマネとは、手を替え品を替え、見る者を飽きさせぬ趣向よ。ナツ殿とやらの、まことの声は存ぜぬが、うまく女子おなごに聞こえる声を、そちらの久蔵殿が出せるか楽しみじゃわい」

「いや、無理です! 無理ですってば!」

 

 拍手をする列席者に、ぶるぶると激しく首を振ってから、久蔵は久助を問い詰めた。

 

「どうしてくれるんですか、この盛り上がり! わたくし、女子おなごの声真似なんてできませんよ!」

「いやいや、みんなだいぶお酒が入って、なんでも盛り上がってくれますから。ちょっと裏声で読み上げてみてくださいよ」

 

 にこやかな笑みで無茶振りをする久助に、また久蔵は激しく首を振る。

 

「とんでもない! そんな役目は、わたくし以外の者にお申しつけください!」

 

 久助と久蔵が言い合っていて、しばらく手紙の披露は始まりそうもない。

 その隙に帰蝶は、気になっていたことを三郎にたずねてみた。

 

「あの……最初から『敦盛』で登場するつもりだったんですか?」

「む……?」

 

 眉をひそめて、きき返す三郎に、帰蝶は、にっこりとして、

 

「侍女たちと賭けをしたんですよ。婆娑羅で有名な織田三郎様が、婚儀にはどんな格好で登場するかって。アタシは女装だと思ったけど、ほかの者は腰に瓢箪を下げて来るとか、会場がお寺だから坊さんの格好とか予想して」

「なんとも此方こなたの痛いところを突く者よ。さながら向こうずねを蹴りつけられた心持ちじゃ」

 

 三郎は、ため息をついてから、答えた。

 

「『敦盛』は稽古を始めたばかりにて、人前で披露いたそうとは思うてなかった。初めは、違う趣向を考えておったのじゃ。されどそれをいたさば、この先ずっと新婦の怨みを買うことになろうと止める者があったのよ。婚礼は花嫁の晴れ舞台であるがゆえ」

「違う趣向って、やっぱり女装? まさか婚礼衣装で登場しようと?」

 

 首をかしげて問う帰蝶に、三郎は首を振り、

 

「婚礼衣装は手に入らなんだが」

「ああ、やっぱり女装か。ふーん……」

 

 うなずきながら帰蝶は、しげしげと三郎の顔を眺めた。

 三郎は眉をしかめて、

 

「……何じゃ?」

「いや、三郎様なら女装もホント、似合ってたでしょ。うん、それ結構、アリだったと思う」

 

 にかっと笑う帰蝶に、三郎は眉間の皺を深くする。

 

「儂が悪目立ちするかたちになっても、そなたは腹を立てぬのか」

「いやべつに。むしろ面白そうだと思うけど?」

 

 帰蝶は答えて言ってから、「……ああ」と笑い、

 

「花嫁が結婚に夢を抱いてるような子なら怒ったかもしれないけどね、新郎が自分よりも綺麗な姿で現れたら。でも、アタシは二度目の式だし、幻想なんてとっくに捨ててたし」

「……であるか」

「でも確かに結婚に夢を抱いてる花嫁を相手に、婚礼をブチ壊すような真似をしていたら、一生の怨みを買ったでしょうね。それを止めてくれた、ありがたい人って誰なの?」

「平手五郎右衛門じゃ。平手中務の隣に座っておろう、その長子よ」

 

 三郎に言われて、帰蝶は、そちらを見た。

 平手というのは先ほどから春日丹後と狂言のような掛け合いを見せている織田家の老臣で、その隣に色黒で、がっしりとした体つきの侍がいた。

 そのまた隣には、色白で細身で綺麗に月代さかやきを剃った侍がいて、その者と五郎右衛門は何やら話し込んでいる。

 三郎が言い添えた。

 

「五郎右衛門のまた隣におるのが平手の次子の甚左衛門じゃ。銭や米の勘定に巧みな者であるが、戦場いくさばに出ることはほとんどないゆえ、兜の蒸れに備えて月代を剃っておく必要もないのだが、最近になって剃り始めた」

「元から、おでこも広そうな人ですね。もしかすると、おでこがますます広くなったのを誤魔化すためなんじゃ?」

「む……であろうか」

 

 三郎は首をかしげる。

 ようやく久助と久蔵の話がついて、久蔵は普通の声でナツからの手紙を読み上げることになった。

 その内容は蔵からのものと同様、幼い吉法師が勝幡城から津島に通っていた頃の思い出話から始まったけど、途中から自分も結婚したことの報告と、服部乙若大夫との新婚生活の惚気のろけ話になっていった。

 手紙の読み上げが終わると、春日丹後がまた、何度も手を打って、

 

「こりゃあ大層な、お惚気じゃ。聞かされておるこちらが照れてしまうぞ」

 

 平手も笑い、

 

「男女が夫婦めおととなることが、いかに素晴らしきことであるかと夫婦の先輩として教えてくれておるのでござろう」

 

 そのあとは、再び歓談となった。

 それを待ちかねていたように、竹千代が徳利を手に席を立って三郎の前に来た。

 

「よもや吉法師そなたが、普通に『敦盛』を舞いながら現れるとは思わなんだぞ。いや新郎が自ら幸若舞を披露いたすのが普通ではないと申せば、それまでであるが」

「では竹千代そなたは、儂がどのような趣向で婚礼の場に現れると思うたのか」

 

 問い返す三郎に、竹千代は、にんまりと笑って、

 

「それはもう婆娑羅の真似をするほか、あるまいと思うた。いつぞやのごとく白拍子の姿か、あるいは婚礼装束で新婦とともに並んでみせるか」

「ふむ……世の者の考え及ばぬところをしたのであれば、『敦盛』を舞ってよかったのであろう」

 

 三郎は満足げに口元を綻ばせながら、盃を手にとり、竹千代のほうへ突き出す。

 竹千代が、それに酒を注いだ。

 

「……うむ」

 

 三郎は盃に口をつけた。

 少しずつ舐めるようなかたちであったが、すぐに頬が赤く染まった。

 酒には弱いのだが、竹千代に注がれたものだから、最後まで呑み干そうと考えているようだ。

 竹千代は帰蝶にも徳利を向けて来た。

 三郎に見せるのとは違う、にっこりと可愛らしい笑顔を見せて、

 

「御方様も、おひとつ」

「いただきます」

 

 帰蝶が差し出した盃に、竹千代が酒を注いだ。

 紅が落ちないように気をつけながら、ほんの少し盃に口をつけて、帰蝶は盃を置き、竹千代に告げた。

 

「タツ殿は、わたくしの母が預かってます。いずれ折を見て、家中の誰か見所みどころのある者に嫁がせるつもりのようです」

「お母上のご厚情に感謝いたします。どうぞ、よろしくお伝えください」

 

 竹千代は微笑みを返してから、三郎に向かって言った。

 

「吉法師よ、帰蝶殿は、そなたには勿体もったいない奥方じゃぞ」

「む……?」

 

 眉をひそめる三郎に、竹千代は今度は帰蝶に向けたのとは違う、にんまりと悪戯っぽい笑みで、

 

「衆に秀でた美貌であるのだが、そればかりではない。愛嬌というか茶目っ気があって、可愛らしい。いや、儂よりは年上の者に、こうした言い方は失礼であるのやもしれぬが」

「……であるか」

 

 三郎は、うなずく。

 竹千代は帰蝶に向き直り、たずねた。

 

「ところで帰蝶殿には、姉妹はおられぬか。できれば生母を同じくする者で」

「アタシ……いえ、わたくしと母の同じ兄弟姉妹は、ほかにおりません」

「それは残念……いや、いまのは戯言ざれごとでございますゆえ、お気になさらず。それでは、ほかにも吉法師殿に挨拶したい者はおりましょうから、ひとまずこれにて」 

 

 竹千代は一礼して、元の席へ戻って行った。

 その様子を見やりながら、三郎は眉をしかめる。

 

「先刻、儂は竹千代に同じことを申したのじゃ。帰蝶に姉妹があれば、竹千代がそれをしつに迎えれば儂と義兄弟になると」

「そうだったのですか?」

 

 帰蝶が目を丸くすると、三郎は首を振り、

 

「竹千代はそれには異存があるような口ぶりであったが、この場に来て心変わりをいたしたのは、帰蝶の姿を目の当たりにしてのことであろう」

「アタシの?」

「うむ。竹千代は、まだ幼きように見えて、女子おなごのことに関しては何やら大人びた物言いをする。帰蝶のことも、よほど気に入ったのであろう」

「なかなか、あなどれない者ですね」

 

 帰蝶は苦笑するほかない。

 自分の何が竹千代に気に入られたのか、帰蝶にはわからない。

 しかし、竹千代の可愛らしい笑顔が表向きのものであることは、三郎とのやりとりを見ていてわかった。

 とはいえ、そのやりとりこそが、三郎と竹千代が互いに気持ちが通じ合っていることの証でもあるのだ。

 続いて柴田権六が席を立ち、これも徳利を手に、三郎の前に来た。

 

「若殿、どうぞ一献いっこん

 

 にやりと不敵な笑みを見せる権六に、三郎は口元を綻ばせ、

 

「このごろの父上の有り様を見て、儂は出来得る限り、酒を身辺に近づけぬことにいたしておるのじゃ。そのほうに注いでやろうゆえ、盃を持って参れ」

「は……、では」

 

 権六は一礼して席へ戻り、すぐに盃を手に引き返して来て、三郎の前に座した。

 三郎に酒を注がれた盃を、押しいただくようにしてから、一息に干した。

 鷹揚に三郎はうなずいて、

 

「さすがは豪傑と知られた柴田権六じゃ。よい飲みっぷりである」

「お褒めの言葉、恐縮にござる」

 

 そして権六が「では」と引き下がろうとするので、三郎は呼び止めた。

 

「待て、権六。一つ、正直なところを申せ」

「は……」

 

 権六は居住まいを正し、頭を下げる。

 

「おたずねの儀は、何にござろうか」

「儂が服部半三めに宛てたという書状のことじゃ。そのほう、まことにあの間の抜けたふみを儂の手によるものと思うたか」

「確かに若殿の筆であると、殿はお認めでございました。それがしは、若殿自らの手になる書状を目にしたことがございませぬゆえ、わかりかねますが」

「筆跡など、どうでもよい。祐筆が記したことにいたして判形はんぎょうのみ儂のものに似せても成り立ったであろう謀事はかりごとじゃ。初めから誰ぞが儂をおとしいれる腹づもりであったならのう」

「左様な謀事があったなれば憂うるべきところにござりまする。松平あるいは今川の策謀にございましょうか」

 

 目を伏せたまま答える権六に、三郎は、冷ややかに告げた。

 

「儂をあなどるでないぞ、権六。儂は誰にも考え及ばぬことをいたす者なのじゃ。儂が本気で謀事を企むなら、誰にも見抜けるものではないわ。それに、儂は一度、侮蔑ぶべつを受けたら、そのことを決して忘れぬ。父上も相当に意地が悪いが、儂は執念深いぞ。心いたしておけ」

「は……お言葉、肝に銘じておきまする」

 

 権六は引き下がった。

 帰蝶は、じっと三郎の顔を見て、言った。

 

「そんなにネチっこいんですか?」

「儂を阿呆と見くびる者に対してのみじゃ」

 

 三郎は答え、気まずげな顔で咳払いする。

 なるほど、怒らせたら面倒くさい性格なのだろうと、帰蝶は肝に銘じた。

 次に、福富平太郎が徳利を手にして、三郎の前に進み出た。

 

「殿、お一つ、いかがにござりましょうか」

「うむ」

 

 三郎は、この酒は受けた。

 少し盃に口をつけてから、平太郎に言った。

 

「儂は酒には弱きゆえ、豪傑がごとき飲み方はできぬ。これよりのち、そなたにも我が家来として務めてもらうゆえ、まずこのことは心得てもらいたい」

「畏れながら……」

 

 と、平太郎は頭を深く下げ、

 

「それがしは帰蝶様……御台所様の家来でござる。まずは御台所様のお指図に従う者であると、お考えくだされ」

「帰蝶の家来であるなら、儂の家来でもあろう」

「されば又者またものとお考えいただければ」

 

 又者とは陪臣ばいしんのことである。

 つまり三郎には直属せず、あくまで直接の主人は帰蝶であるということだ。

 

「ふむ……まあよい」

 

 三郎は、うなずいて、

 

「まずは、帰蝶と儂のようを、そのほうの目でよく見極めるがよい。その上で、いずれ儂を主君としてあおごうと思うのであれば、そのほうの才覚次第で一手の大将にも、一城のあるじにも取り立てようぞ」

「は……」

 

 平太郎は引き下がっていった。

 帰蝶が三郎に言った。

 

「ああいう武骨で融通の利かないヤツだけど、機会があったら引き立ててやってください」

「うむ……そのつもりじゃ」

 

 三郎はうなずく。

 今度は平手が席を立って、三郎の前まで来た。

 徳利を手にしていたが、それを床に置き、三郎の前で平伏した。

 

「御成婚、おめでとうございまする」

「うむ。山城入道殿……しゅうと殿との談判のあらましは、堀田道空から聞いたぞ」

 

 三郎は答えて言う。

 

今日きょうの婚礼を迎えられたのは、じいの働きがあってのことじゃ。大儀であった」

「は……勿体ないお言葉」

 

 平伏したままの平手に、三郎は、口調だけは機嫌がよさそうに、釘を刺すように告げた。

 

「しかし、まことのところは、山城入道殿が勘十郎めに帰蝶をめあわせることを承知いたしておれば、そのまま話を進めるつもりであったのだろう。いや、答えずともよいわ。最後には平手そなたは、儂を選んで賭けに勝ったということじゃ」

「……畏れながら」

 

 平手は顔を伏せたままで言った。

 

「山城入道様が勘十郎様を選ぶはずは、ございますまいと初めから思うておりました。大殿、備後守様の思惑通りに事が運ぶのは面白くないと、山城入道様はお考えになろうと。この平手中務、他国との談判は、いささか場数を踏んでおりますゆえ」

「ふむ。そうしたことにしておこう」

 

 三郎は口元を綻ばせた。

 

「いずれにしろ此度こたびは、平手そのほうと、そのほうの子息の五郎右衛門の手柄よ」

「五郎右衛門が何か……?」

 

 顔を上げ、怪訝な表情をしてみせる平手に、三郎は口元に笑みをたたえたまま、

 

「儂が大事な祝言であやまちを犯すところを止めてくれたのじゃ。何やら似たような失敗の経験があるものとは、五郎右衛門のことゆえ思えぬが」

「はあ……」

 

 首をかしげている平手に向かい、三郎は手を差し伸ばした。

 

「どれ、徳利を寄越せ。儂が爺に注いでやろう。先ほど権六にも申したが、このごろの父上の有り様を見て、儂は出来得る限り、酒を身辺に近づけぬことにいたしたのじゃ。儂の分の酒も、爺が飲んでくれるとありがたい」

「は……そうした仰せなれば、よろこんで」

 

 平手は言って、三郎に徳利を差し出す。

 三郎はそれを受けとり、代わりに手元にあった盃を平手に渡した。

 平手が捧げ持った盃に、三郎は酒を注いだ。

 酒が満たされた盃を、平手は一度、押し戴いてから、軽く一息に呑み干した。

 

「……頂戴いたしました」

「うむ、よい呑みっぷりであった」

 

 鷹揚にうなずく三郎に、平手は盃を床に置いて、あらためて平伏した。

 そして立ち上がると、少しばかり足元をふらつかせながら、席へ戻った。

 帰蝶が三郎に言った。

 

「平手殿、足元が少し怪しい感じですけど、大丈夫でしょうか」

「いつもは、いくら酒をろうても顔に出さぬ者であるが、こたびは緊張の糸も切れたのであろうかのう」

 

 三郎は帰蝶に向けて、徳利を差し出した。

 

「どれ、そなたはいかがじゃ」

「頂戴いたします。でも、できる限り酒を近づけないということは、殿への御返杯もお許しいただけないのですか? それはちょっとガッカリだなあ。三献の儀は別として、あらためて夫婦で盃を交わしたいと思ったのに」

 

 そう言って、にまっと笑う帰蝶に、三郎は眉をひそめて、やれやれと首を振った。

 

「では一杯だけ注いでもらおうぞ。しかし一杯きりじゃぞ。もともと儂は、酒には強いほうではないのじゃ」

「はいはい、そうした思わぬ弱みがあるところも可愛らしいです」

「可愛らしいとか、そうしたことを申すな」

 

 また、ぷいっとそっぽを向いた三郎は、耳を赤くしている。

 女装しようと思うくらいだから、もともと三郎は自らの美貌には自信があるはずだ。

 しかし、可愛いという褒め言葉には、どうしたわけか弱いようである。

 

「やっぱり可愛いですよ、殿は」

 

 帰蝶は言って、くすくすと笑った。

 

 

 

【信長廃嫡 完】

 

 

 


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