終章 聖徳寺(11)
髭面の太夫──服部小平太──が、そこで地謡を止めた。
すると別の声で、朗々とした謡いが聞こえてきた。
人間五十年
下天の内をうちを比ぶれば
夢幻の如くなり──
麗しい公達が、講堂に登場した。
梨子打烏帽子に白鉢巻、厚手の織物である厚板を纏った上に、長絹を重ねて腰帯を巻き、大口袴を着けて、太刀を佩く。
広げた扇を手に、ゆるやかに歩を進めるその公達が、自ら謡っているのであった。
その謡いは幸若舞の『敦盛』であるが、公達が身に着けているのは同じ題材を扱う能の『敦盛』の後シテの装束だ。
しかしその不整合を指摘する無粋な者は、この場にいない。
先に登場していた四人の舞い手が道を開け、公達は講堂内を、まっすぐ進んで行く。
新婦の席に座した、帰蝶に向かって。
その凛とした目に射すくめられて、帰蝶は、金縛りに遭ったように感じた。
(なにコイツ、ヤバい……)
本能的に、感じた。
その者に触れてしまえば、自分が自分ではなくなる。
心までも支配されてしまう。
それを悟っても、もはや抗えない。
逃れることは、できない。
(……って、単に超絶美形ってだけだけど)
結局は、そこである。
帰蝶はその者に一目惚れする、一歩手前であった。
一度生を享け
滅せぬものの
あるべきか──
列席者は皆、息を呑んでいる。
美濃方の者は、その舞い手が誰であるかを、まだ知らない。
ただ、源平合戦の渦中に花と散った若公達、平敦盛は、まさしくこのような者であったろうと感心するばかりである。
一方、尾張方の者もまた、ひたすらに感じ入った。
その美貌は皆、知っている。
だが婆娑羅な振る舞いも、知っていた。
その若殿──自らは吉法師と名乗り続けてきた三郎が、これほど圧巻の謡いと舞いを、自らの祝言の場で披露しようとは。
三郎以外の舞い手であった四人──勝千代、万千代、犬千代、小十蔵と、地謡の服部小平太、鼓の服部小藤太は、いつの間にか講堂から退出している。
三郎のみが、この場に残り、朗々と謡っているのであった。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは
口惜しかりき次第ぞと
思ひ定め
急ぎ都に上りつゝ
三郎は帰蝶の前まで進み、間近から、その目を帰蝶に向けて来た。
磨き上げられた鏡のように曇りのない目に、帰蝶自身の姿が映っている。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい……コイツ、ヤバい!)
どうしてそんなに、じっと見つめて来るのか。
しかも、結構いい声で謡いながら。
まるでその謡いが、自分一人だけに捧げられているみたいではないか。
題材は恋の歌ではなく『敦盛』だけど。
謡う当人が、平敦盛もかくやという美少年だから許すけど。
敦盛の御首を見れば
もの憂さに
獄門よりも盗み取り
我が宿に帰り
御僧を供養し
無常の煙となし申──
そこまで謡うと、三郎は帰蝶の前に、すとんと座した。
まっすぐに目を向けて来たまま、告げた。
「織田三郎である」
やっぱり、そうなのか。
そうでなかったなら、どうしようかと思ったけど。
帰蝶は視線を外すことができず、相手を見つめ返したまま答えた。
「……斎藤山城入道が娘、帰蝶です」
これに三郎は、深くうなずいた。
「……であるか」
「…………」
「…………」
二人は無言で見つめ合っていたけど、やがて、帰蝶はたずねた。
「……なぜ『敦盛』なんですか」
「この世は無常よ」
三郎は答えた。
「如何に生きようと、人は皆、いずれ滅するのじゃ。されど、天は宵闇に覆われたとて、次の朝には日に輝く。雨に烟うとて、いつかはそれも止む。天は姿を変じるかに見えて、根本のところは不変であろう。ゆえに我は天意に従い、己の為せるところを為すばかり」
小難しいことを言うものだ。
でも要するに、思うがままに生きようというのが彼の信条であるわけだ。たぶん。
帰蝶は、重ねてたずねた。
「ほかに御存知の謡いや舞いは?」
「……知らぬ」
三郎は眉をひそめた。
「なにゆえ、それをたずねる」
「なんとなく、そうだろうなと思って」
帰蝶は、くすくすと笑って、三郎が眉間の皺を深くした。
そうだろうなというのは、ほかの謡いや舞いは知らないだろうということだ。
織田三郎が風雅の道に親しんでいるという評判は、これまで聞いたことがない。
それにしては見事な謡いと舞いであっだのだ。
ということは三郎は、ただ『敦盛』一つきりの謡いと舞いを磨き上げたのではないか。
それは単なる想像であったけど、どうやら図星であったらしい。
この婚礼のために『敦盛』の稽古に励んだのかどうかは、わからないけど。
一つくらい風雅な特技を持っておこうと思ったのかもしれないし。
それにしても。
自分が自分ではなくなるなんて思ったのは、杞憂であった。
確かに帰蝶は、この者にすっかり心惹かれていた。
我を失うほどの焦燥ではない。
つまり赤々と天を焦がす篝火のように、その恋慕の情は、燃え盛るものではなかった。
しかし囲炉裏に炭で熾した火のような、小さくても容易に燃え尽きないものであった。
そう、じんわりと暖かいものが、帰蝶の胸中を占めていた。
超絶美形であること以外に、どこに惹かれたのかといえば自分でも、よくわからないけど。
でも『敦盛』のほかに謡いや舞いを知らないことを言い当てられたときの表情が、なんだか可愛らしいと思った。
悪戯を見つかってしまった子供のように。
それでも懲りもせず、この者は再び悪戯を繰り返すのだろうなということも、よくわかった。
この織田三郎とは、そうして自らの思うままに振る舞う者なのだ。
だから帰蝶も、三郎の前では、ありのままの自分で何も飾らずにいていいのだと理解した。
「……えっと、どうぞこちらへ」
帰蝶は自分の隣の席を指し示した。
三郎は「うむ」とうなずくと、あらためて新郎の席に着座した。
それを見届けた平手中務が、おどけたように声を上げた。
「これにて花嫁花婿が揃い、まことの祝言の始まりにござる」
春日丹後が応じて、
「いかにも、いよいよ濃尾両国の固めの誓いと相成り申す。されば花婿花嫁に新しき酒を御用意あれ。此方の徳利は、空にござるゆえ」
徳利を逆さにして振ってみせる丹後に、平手は、ぴしゃりと我が額を打つ。
「あいや、当方も空っぽにござるぞ。これは祝言の前から過ごしてしもうたわい」
「なんの、酒などまた運ばせればよい。この程度の酒量で根を上げる御貴殿でもあるまいに」
「おう、あればあるだけ、たんまりと飲んで進ぜようが、まずは新婦新郎と、この場の皆の酒が、あらためて必要じゃ」
老練の二人の掛け合いは、さながら狂言のようで、周囲の者をくすくすと笑わせている。
平手が手を打って、呼ばわった。
「されば三献の儀と、その御相伴に預かる皆のため、あらためて酒の用意を願おう」
「「「はーい……!」」」
すでに用意ができていたのか、恒川久蔵と、侍女の松、ほかに数名の男女が徳利をいくつも盆に載せて運んで来た。
侍女の竹は、大きさの異なる三つの盃を重ねて載せた三宝を捧げ持ち、新郎新婦の前に進む。
朱塗りの銚子を手にした梅が、それに続いた。
帰蝶は三郎に小声でたずねた。
「お作法は御存知ですか」
婆娑羅と評判の三郎が、どこまで礼儀作法をわきまえているかと思ったのである。
三郎は「む……」と眉をしかめて、莫迦にするなと言いたげに、
「出陣の儀と変わらぬであろう。じゃじゃ馬と名高い、そなたこそどうなのじゃ」
「これでも二度目ですから」
帰蝶が澄ました顔で答えると、三郎は今度は目を丸く見開き、うなずいた。
「……であるか」
「……であるんですよ」
帰蝶は、うなずき返す。
これが二度目の結婚であるのは仕方のないことだ。
一度目の結婚は不幸せだったけど、それをなかったことにはできないし、する必要もない。
もしも今回が初めての婚礼であったなら、こうして落ち着いた気持ちでは、いられなかったであろう。
織田三郎が超絶美形である以外に、可愛らしい一面も兼ね備えていることには、気づけなかったに違いない。
でも、いまちょっと気になることを言われたんですけど?
帰蝶はたずねた。
「アタシがじゃじゃ馬って、そんなに評判になってますか?」
「うむ。儂が、うつけとして世に知られておるのと同じくらいには」
「うつけなんですか? ご自分でお認めになるくらいに?」
尾張の織田三郎が、うつけ者であるとは、よく聞く噂だけど、それを本人が認めてしまうのか。
しかし三郎は、落ち着き払った様子で帰蝶を見つめて、答えた。
「そう呼ぶ者もおるが、左様なことはないと申す者もおる。己では、わからぬものゆえ、そなたの目で見極めるがよい」
「ええ、そうさせてもらいます」
帰蝶は、うなずいた。
そう答えたということは、当面は結婚生活を続けることを帰蝶が受け入れたという意味になる。
でも、それでまた、カラダの相性でうまくいかなかったら?
しかし、そのときは、そのときなのである。
けれども、この織田三郎という者が相手なら、そうはならない予感があった。
根拠などない。
ただ、そう思ったというだけだ。
だけど三郎なら、他人を傷つける物言いなどしないのではないかと、これは期待を込めて考えた。
そこに、梅が小声で呼びかけてきた。
「姫様……いえ、御方様。殿様とお話が合いそうでよかったですけど、続きはあとになさってくださいませんか。皆が三献の儀を待ってますよ?」
「…………」
帰蝶は、列席者が皆、三郎と自分のほうを見ていることに気づくと。
三郎に向かって、にっこりと笑った。
「……であるそうです」
「……であるか」
三郎も口元を綻ばせた。