終章 聖徳寺(10)
ぽつん、というか。
ぼっち、とでもいうのか。
聖徳寺の講堂に居並ぶ列席者が談笑する中、新婦の席の帰蝶だけ、一人きりで澄ました顔でいなければならない。
隣に座るはずの三郎は、まだ現れない。
だから婚礼の儀も始まらないけど、平手中務の計らいで酒と肴は運ばれて飲み食いは始まっている。
帰蝶は何も手をつけられないけど。
新郎より先に新婦が飲み食いしちゃうのも、どうかと思うし。紅も落ちちゃうし。
三郎が婚礼直前に着替え直すという話は、帰蝶が関わっていたことは伏せられて、警固について当方に手落ちがあったためという曖昧なかたちで、平太郎から美濃側の参列者に事前に伝えられた。
手落ちとは何かとたずねる重臣らに、平太郎は手落ちは手落ちだと言って押し通したらしい。
どうせまたキレ気味に言ったのだろうなと、帰蝶には想像がつく。
そのような前提であったので、両家の列席者が講堂に集まっても、最初は微妙な空気が流れていた。
ところが、酒が入る前からいつでも赤ら顔の春日丹後が、おどけた調子で、
「一方の主役はおわさぬが、まずは此方の主役を御覧あれ。我が美濃のみならず日の本一の、いや三国一の花嫁にござる」
などと言って帰蝶を指し示すと、平手も調子を合わせて、
「いかにも天女がごとき姫君にござる。かような麗しき御台所を迎える我が殿は、三国一の果報者にござろう」
そうして二人で場を和ませたのは、年の功というべきか。
平太郎には、とても真似できないだろう。
そのあとは酒と肴を味わいながらの歓談が始まり、列席者一同は、すぐに打ち解けた雰囲気になった。
平太郎も珍しく、ときおり笑顔を見せながら、柴田権六なる尾張者の相手をしている。
権六は三郎ではなく備後守の家来で、末森城から兵を率いて来た将領の一人である。
配下の兵が引き上げたあとも自分だけ居残ったのは、三郎の婚儀を見届けて備後守へ報告するためらしい。
権六は講堂に皆が集まる前に、平太郎と春日丹後に詫びを入れに来たという。
そのときに平太郎が、どういう意図で備後守が帰蝶を無理やり末森城へ向かわせようとしたのか、たずねたところ──実際はキツく問い詰めたのだろうけど──、
「このところ殿はお加減が優れず、ご判断にも思い迷われるところがございましてな……」
などと、心身の不調のせいにしたようだ。
そんなことで織田家はこの先、大丈夫なのだろうか。
しかし帰蝶を正室に迎えることで、三郎の嫡子としての立場は盤石になる。
いずれ備後守は隠居して、当主の座を三郎に譲ることになるのではないかと、平太郎は言っていた。
そうなれば帰蝶は当主の奥方様だ。
そうなる前に結婚生活が破綻しなければ、だけど。
列席者の中には松平竹千代であろう、十歳にならないくらいの少年の姿もあり、同じような年格好としか見えない堀田道空と、にこやかに語らっている。
竹千代は笑顔に愛嬌があり、また賢そうでもあった。
三郎も竹千代に目をかけており、いずれ妹の誰かを嫁がせるつもりであるようだと、これは堀田道空が帰蝶の父の山城入道に伝えて来た噂である。
三郎は最初、妹の一人でタツという娘を、竹千代の身の回りの世話のために遣わしたらしい。
タツは妹といっても生母の身分が低いため侍女の扱いであったけど、竹千代はタツを気に入っていたようだ。
ところが、備後守の指図でタツは、山城入道に側室として差し出された。
帰蝶と交換で人質にするためだけど、実のところタツは帰蝶よりも年下であった。
そこで帰蝶の母で正室である小見の方が、まずは我が手元で行儀見習いをさせると言い、帰蝶の輿入れに先立って美濃に到着したタツの身柄を預かった。
そして、山城入道を厳しく問い詰めた。
「殿は呉王夫差が如く、女子の色香に迷うて国を危うくなさりたいか。己が娘よりなお若き者を側女として遣わした尾張方に、底意がないとお考えなら御目出度いことじゃ」
山城入道は反論もできず、タツを小見の方のもとに留め置くことを承知するほかなかった。
こののち帰蝶と三郎の仲が円満となり、美濃と尾張の和睦が長く続けば、タツを人質として扱う意味も薄れる。
そうなれば山城入道から側室を下げ渡したという建前で、家臣の誰かにタツを嫁がせてやろうと小見の方は考えているようだ。
小見の方は土岐一門の明智家の出であり、斎藤家の名跡を継いだ山城入道が、言ってしまえば自身の箔付けのために正室に迎えた者であった。
血筋に箔はあっても実態は東美濃の一領主でしかない明智家にとっても、美濃随一の実力者である山城入道と繋がりを持つのは悪い話ではなかった。
だが小見の方は、父や夫の思惑通りに収まる者ではなかった。
聡明な上に、極めて勝気であって、輿入れ当日に山城入道に向かって言い放ったそうだ。
「お前様が美濃守護代じゃと申されるなら、妾はその御台所じゃ。それに相応しき扱いが望めぬなら、妾はいつでも出家して尼寺に入ろうぞ。そうなれば恥を掻くのはお前様じゃ。念のため申すが実家の父を脅しても無駄じゃぞ。我が明智は土岐一門に連なる誇り高き家、名もしれぬ地侍とは違うのじゃ。力づくで言うことを聞かそうと思うなら、窮鼠猫を噛むが如くに牙を剥き出そうぞ」
これには山城入道も辟易して、以後、小見の方の機嫌を損ねる真似は慎むようになった。
下剋上の体現者である山城入道も、妻にばかりは頭が上がらないわけである。
そんな小見の方だけど、帰蝶にとっては、よき理解者であった。
「そなたを女子として生んだ母を赦してたもれ。男子として生まれておれば、そなたのように我意の強き者こそ功名を遂ぐることも叶うたであろうに」
そう言って帰蝶の好き放題な振る舞いは、たいてい大目に見てくれた。
甘い、ともいえた。
だから、尾張の織田三郎への嫁入りを山城入道から命じられた帰蝶は、小見の方に相談した。
いや相談というよりも、尾張になど嫁に行かずに済むよう、父上を説得してほしいと懇願した。
小見の方は眉をひそめて首を振り、帰蝶に告げた。
「それはできぬ。尾張との和睦は、この美濃に住まう多くの者の願うところじゃ。それは尾張方にとっても同じであろう。そなたばかりが不幸せになる婚儀なら、母も殿を説き伏せ、そなたが嫁になど行かずに済むよう計らおう。されど、こたびはそう悪い話ではないと母は考えておる。噂話に聞くばかりのことであるが、織田三郎殿と申される若君は、どうやら帰蝶とよう似た心根の者のようじゃ。嫁いでみてやはり、どうにも苦しいことばかりであるなら、母に知らせて寄越すがよい。そなたが美濃へ戻れるよう、母が如何ようにも手を尽くそうぞ。いまは、この母の申すことを信じて、三郎殿に嫁いでみるがよいぞ」
そう言われてしまっては、帰蝶にも返す言葉はなかった。
織田三郎の心根がどうあれ、問題はココロではなくカラダの相性の問題なのだけど、そこまでは相手が母親でも──いや母親だからこそ、言い出せなかった。
帰蝶を女子として生んだことに負い目を感じているような母に、余計に心の重荷を背負わせたくはない。
それにしても。
いったい、いつまで待たせるつもりなのか、織田三郎は。
女の婚礼衣装がどれほど窮屈か、わかっていないのか。
さっさと婚礼など終わらせて普段着に着替えてしまいたいのに。
それともやはり、女装癖のある三郎のことである。
自分もまた白打掛に身を包み、花嫁姿で現れるつもりか──
などと、すっかり退屈した帰蝶が、ぼんやりと考えていると。
廊下のほうから、軽い調子の声が聞こえた。
「「……はい、どうもーっ!」」
そう言って自ら手を叩きながら講堂に入って来たのは、二人揃って鼻の下と顎と頬とに黒々と髭を生やした男たちだ。
一人は立鳥帽子を着けて扇子を手にし、いま一人は大黒頭巾を被って鼓を抱える。
髭の生やし方が同じだけど顔もよく似ており、兄弟だろう。
もちろんこれは帰蝶とは面識がないが、服部小平太、小藤太兄弟である。
「えーっ、太夫にござる」
「才蔵にござい」
「二人揃って」
「尾張萬歳」
「「一番槍ぶっ刺し隊でーっす!!」」
おどけた調子で言う二人に、列席者は最初、呆気にとられていたけど、
「いよっ、待ってましたっ!」
春日丹後が囃し立てると、周りの者も拍手をして盛り上げた。
髭面の二人は、照れたように笑い、
「いやどうも、こんな御目出度い席に呼んでもらいまして」
「普段はボクら、もっと小さな舞台で萬歳させてもろうてますからね」
「そらもう二人で並んで立てないくらいの小さな舞台で」
「そうそう、いつも太夫の兄サンがボクを、おんぶしてくれて」
「才蔵クンがボクを、肩車してくれてなあ……って、そんなワケあるかい」
ビシッと、立鳥帽子を着けた太夫は、大黒頭巾の才蔵の胸元を手の甲で打った。
ツッコミである。
「おんぶや肩車したまま、どないして萬歳すんねん」
「いやネタやがな」
「なんやネタかいな」
「そらそうや。おんぶや肩車したまま萬歳なんて、ようしまへん」
「そらそうや……って、そんなワケあるかい」
ビシッと、また太夫は才蔵にツッコミを入れた。
「おんぶや肩車したままやと萬歳ができへんて誰が決めた、おう、誰が決めたんや」
「いや兄サン自分で、おんぶや肩車したまま、どないして萬歳すんねんて言うたがな」
「いやネタやがな」
「なんやネタか」
「そらそうや。おんぶや肩車したままでも、人間、頑張れば萬歳はできます。為せば成るんです」
「為せば成るか、ええ言葉や」
「そらそうや、ここは祝言の席や。たとえ萬歳であっても、若い二人の門出に餞となるネタを披露せなあきまへん」
「それで新郎新婦に贈る言葉が、為せば成るか」
「いや贈る言葉は別に、ちゃーんと用意してますがな」
「ほう、どんなええ言葉や」
才蔵が促すと、太夫は落ち着いた声音で、あらたまった態度で語り出した。
「……新郎クン、新婦チャン、ご結婚おめでとう」
これに才蔵が感心したように、
「なんや本格的に結婚式の祝辞みたいやな」
「ほんの少し人生の先輩であるボクからキミたちに、この言葉を贈ります」
「おう、ええ話、来るか? ええ話、来るんか?」
「夫婦になるということは、譬えてみれば人生という舞台の上に、二人で一緒に立つようなものです」
「ほう?」
「たとえそこが、どれだけ小さな舞台でも。二人で並べないような小ささでも。おんぶや肩車をすれば、萬歳はできます」
「そこでまた、おんぶや肩車かーい!」
ビシッと、才蔵が太夫にツッコミを入れると、
「「どうも、ありがとうございましたー!」」
二人揃って、頭を下げた。
そしてすぐまた揃って顔を上げると、おどけるように両手を左右に広げ、ひょいっと片足を上げて、どやっと言いたげな笑顔を見せる。
春日丹後が手を打って囃した。
「おおっ、こりゃあ三国一の前座芸人じゃ! 見事、見事!」
そして悪気はないのかどうなのか、真っ赤な顔で、にかっと笑い、
「いやそのほうたち、前座じゃろ? このあと真打ちが出るんじゃろ?」
「あ……、はい……」
「それはもちろん、そうした趣向で……」
太夫と才蔵──いや、服部小平太と小藤太の兄弟は苦笑いしながら、講堂の壁際に下がり、揃って座する。
まだ彼らの出番も終わっていないようだ。
小平太は閉じた扇子を握った手を膝に置き、小藤太は鼓を構えた。
小平太が重々しく、渋みのある声で、謡い出した。
思へば
此世は常の住処にあらず
草葉に置く白露
水に宿る月より猶あやし──
その謡いに合わせるように、勝千代、万千代、犬千代、小十蔵が、烏帽子に直垂姿で扇を手にして、講堂に入って来た。
二人ずつ二手に分かれ、両手を左右に広げて、舞うように悠々と歩を進める。
金谷に花を詠じ
栄花は先立て
無常の風に誘はるゝ
南楼の月をもてあそぶ輩も
月に先立つて
有為の雲に隠れり──