終章 聖徳寺(9)
聖徳寺の草庵に急ぎ戻った帰蝶は、侍女たちの手で化粧を施され、婚礼衣装を着せ付けられた。
先間菱の紋様を織り出した白い表着の上に白打掛を羽織るのだけど、これが重くて窮屈だ。
顔は白く厚塗りされて、なんだか息苦しい。
唇には鮮やかな紅を差されて、
「できるだけ飲んだり食べたりは控えてくださいね。せっかくの紅が落ちてしまいますから」
松に釘を刺されたのには、帰蝶は憮然とした。
「わかってるわよ、初めての結婚じゃないんだし」
とはいえ一度目の婚礼は、まだ若かったし緊張しまくりで無我夢中のまま終わったけど。
その席で初めて顔を合わせた土岐次郎が萎びた糸瓜みたいな頼りないヤツで、なのに態度ばかりは偉そうで、結婚生活の前途にいきなり不安を感じたことだけは、よく覚えている。
松、竹、梅の侍女三人は帰蝶から離れて後ろに下がり、あらためて女主人の姿を、しげしげと眺めた。
「……何よ?」
眉をしかめる帰蝶に、ぴしゃりと竹が、
「姫様、お顔は澄ましたままで。お化粧が崩れてしまいます」
「…………」
帰蝶は仕方なく無表情を装う。
梅が帰蝶の前に進み出て、手鏡を差し出し、惚れ惚れした様子で言い添えた。
「姫様って本当に、そのように大人しくしていらっしゃると、美人ですよねえ」
「それ褒めてるフリして莫迦にしてるし」
帰蝶は腹が立ったけど、手鏡を覗くと確かに、我ながら悪くないんじゃないかと思う。
婚礼が終わればすぐにボロが出て、結局やっぱり結婚生活はうまくいかないだろうけど。
松と竹もそばに来ると、帰蝶を、くるりと戸口のほうに向かせて背中を押した。
「さあ、お時間がございません」
「参りましょう姫様、外で福富様もお待ちです」
福富平太郎が待っているから何だというのか。
変に意識させるようなことを言わないでほしい。
それとも、こっちが意識しすぎなのか。
押し出されるかたちで草庵を出ると、平太郎がいた。
帰蝶の姿を、丸く見開いた目で、まじまじと見つめた。
「……ようお似合いにござる」
「ばか」
なんでそんな返事をしたのか自分でもわからない。
白塗りの化粧をされていなければ顔は真っ赤になっていたかもしれない。
そこで話が済めば綺麗に終わっていたのに、平太郎が言った。
「申し訳ございません。一つお伝えしなければならないことがございます」
「……え、何?」
歩き出そうとしたところですぐ足を止めて、帰蝶は聞き返す。
侍女の三人も草庵を出たところで「?」と小首をかしげる。
三人は婚礼に参列せず、裏方として肴の仕度や配膳を手伝うから、普段着の小袖姿のままである。
平太郎は深々と頭を下げて、告げた。
「実は我らが絹屋の二階から、三郎様がお通りになる御様子を窺っておりましたことが、尾張方に知られていたようです」
「はあっ?」
帰蝶は思わず顔をしかめて、梅に横から指摘された。
「姫様、お顔」
「…………」
仕方なく帰蝶は、また澄まし顔を取り繕ったけど、不機嫌寄りの無表情にしかならなかったろう。
「いったいどうしてバレたわけ? 尾張方は、覗いてたのがアタシだと知ってるの?」
たずねる帰蝶に、平太郎は頭を下げたまま、
「平手殿は、覗き見ていた者が誰かはわからぬと申しておられましたが、絹屋に出入りしたのが女子であることは承知しておりましょうから、少なくとも姫様に関わりがあることは気づいておるものと」
「帰蝶様……」
「姫様……」
侍女たちは心配げに帰蝶を見る。
平太郎は苦渋に満ちたとでも表現するのか、重々しい口調で言った。
「誠に申し訳ございません。これは、それがしの手落ちでございました」
「まあ、失敗は誰にでもあることよ」
帰蝶は言って、にっこりとした。
「アタシのせいだと知っていても、それを指摘して来ないってコトは、向こうも大事にするつもりはないんでしょう」
「いえ、ことはそれで収まりませぬ」
顔を上げた平太郎は、おっかない顔をしている。
失敗は誰にでもあるなんて、帰蝶が励ましたのが逆効果だったか。
その失敗は、三郎が来るところを覗きたいなんて帰蝶が言ったおかげで生じたのだから。
平太郎は言った。
「御新郎、三郎様は、美濃方が富田の商家に人を潜ませていたことを咎めるつもりはないが、ほかに曲者が町や寺に入り込んでおらぬか心配があると申されて、用心のために衣服を改めてから婚礼の儀に臨むとの仰せにござる」
「え? 着替えちゃうの?」
帰蝶は呆れるほかはない。
それではますます、三郎が通るところを覗いた意味がないではないか。
いや実際は覗いてないけど。覗こうとしただけで。
そんな理屈は尾張方には通じないだろうけど。
平太郎は苦いものでも噛んだような顔をして、
「されど衣服を改めたばかりで用心になるはずもなく、我がほうの落ち度を突いて、今後の駆け引きにおいて優位に立とうという魂胆にござろう」
「性格悪っ」
帰蝶は、ますます呆れてしまった。
「まあでも仕方ないわ、失敗したのはこっちだし。三郎クンが着替えて来るのを大人しく待つしかないわね」
侍女たちを振り返り、
「三郎クンがどんな格好で現れるか賭けない? 当てた人に、ほかのみんなから何か贈り物するの。アタシは女装に一票」
松が目を丸くして、
「え? それでは……腰に瓢箪?」
竹と梅も首をかしげながら答えて言った。
「お寺に来るんだし、坊さん?」
「あ、それ言おうと思ったのに。女装は姫様に言われたし……思い切りド派手な婆沙羅者の格好はどうでしょう?」
帰蝶は、にまっと笑って平太郎にもたずねた。
「アンタは、三郎クンがどんな格好で現れると思う?」
「婚礼の場ゆえ正装にござろう。色や柄だけ替えて来られるのではござらぬか」
平太郎の常識的な答えに、帰蝶は呆れて、やれやれと首を振る。
「相手は婆娑羅が過ぎて廃嫡されかけたほどのヤツなのに、わざわざ着替えてまた、そんな普通の格好しないでしょ」
「もしも、まことに三郎様が婚礼の場に婆娑羅な風体で現れる者であったとすれば……」
眉をひそめる平太郎に、帰蝶は首をかしげて、
「あったとすれば……何?」
「存外、姫様とお似合いではないかと思うてござる」
「……ばか」
ぷいっとそっぽを向いて、帰蝶は平太郎を振り切るように早足で歩き出した。
松と竹が、平太郎に何やら言いたげな顔をしながらも会釈だけをして、帰蝶のあとを追う。
残った梅が、平太郎に告げた。
「わたしなどが申し上げることではないと、わかってはおりますけど」
「……何でござろうか」
きき返す平太郎の顔を、梅は、じっと上目遣いに見て、
「姫様はご不安なんですよ。最初のご結婚が、あまりお幸せではなかったですから」
「それは……存じておるが」
「ですから今度の三郎様とも、うまくいかないのではないかと姫様は案じておられるのだと思います」
「それゆえに、存外お似合いではないかと申し上げたのであるが。その……気休めにならぬやもしれぬが」
「……はあっ」
梅は声に出し、ため息をついて首を振った。
「わかってないですねえ」
「わかってないであろうか」
「ええ、わかってないです。いいですか?」
梅は、あらためて平太郎を見て、言った。
「福富様は、姫様の逃げ場でいてあげてください。もしかすると存外、姫様は三郎様とうまくいって、福富様の出る幕はないかもしれませんけど。そうなったときは、何事もなくてよかったと喜んであげればいいと思いますけど。でも、そうじゃなかったときに姫様の一番の味方になってあげられるのは、福富様なんですからね」
「…………」
平太郎は眉をひそめ、しばらく考え込んでいたが、やがてうなずいた。
「……そういうことでござるのか」
「そういうことですよ。どうせ、いままでわかってなかったんでしょうけど」
「…………」
平太郎は腕組みをして、また考え込むが、やがて梅に向かってたずねた。
「……それがしに、務まろうか」
「務まりますとも。澄ました顔をしていれば福富様も、三国一とまではいかなくても、存外イイ男ですからね」
梅は答えて言った。