終章 聖徳寺(6)
絹屋の二階は広々として、しかし埃っぽい場所だった。
むしろ屋根裏と呼ぶべきか。
張り渡されている梁は低いけど、女の帰蝶たちなら腰をかがめなくても、なんとか通れる。
表の通りに面した側に、細い格子を嵌め込んだ窓があり、そこから差し込む外の光に、宙を舞う埃が煌めいて見えた。
そして隅のほうに、古箪笥や葛籠などがいくつか置かれ、その中に、いかにも古びた厨子が一つ、箪笥の上に置かれてある。
ためらいもなくその厨子に近づいて行く帰蝶に、あとから階段を上がって来た松が、慌てて呼びかけた。
「ちょっと……帰蝶様!」
「なあに?」
にっこりとして振り向く帰蝶に、続いて階段を上がって来た竹が、呆れたように首を振る。
「やっぱり姫様、何の迷いもなく厨子に近づこうとしてる……」
「だって、あれだけ言われたら、普通は厨子を開けてみるでしょう?」
小首をかしげてみせる帰蝶に、きっぱりと梅が言った。
「開けません、普通は。織田家の者さえ逃げ出したような障りがあるんですよ、それをどうして開けようとするんですか」
「織田の家来は急いで階段を下りて来ただけでしょう? ほかの家の二階も確かめなくちゃいけなかったろうし、忙しかったんじゃないの?」
にっこりとしてみせる帰蝶に、松が怯えを隠さない様子で言った。
「帰蝶様は恐ろしくないんですか? 三百年も前から曰くつきの厨子なんですよ?」
竹と梅も、うんうんとうなずいて、
「開けたら何が出て来るか、わかったものじゃないです」
「たとえ中にいらっしゃるのが仏様だとしても、三百年も放ったらかしにされてましたから、きっとご立腹ですよ」
帰蝶は腕組みをして、やれやれと首を振った。
「本当に何か障りがあるなら、まずこの絹屋が祟られて店が潰れるはずでしょ? なのに、こんなに繁盛してるじゃない? あなたたちが怖いって言うなら、アタシひとりで厨子を開けてみるから、一階で待っていていいわよ」
そう言われて松と竹は、怯えた顔を見合わせる。
「え……でも、そんなわけには参りませんし……」
「ええ、この場には、おりますけど……」
梅が腰に手を当て、眉をひそめて言った。
「姫様、わたしたちが、ここに来た目的を忘れてしまってないですか?」
「目的? ……ああ」
帰蝶は、ぽんっと手を打って、にっこりとした。
「忘れかけてたわ。じゃあ、梅アンタ、窓から外の様子を見て、織田三郎が来そうなら、すぐに教えて」
「忘れかけてた、じゃなくて、綺麗さっぱり忘れてたんでしょう? 外を見張るのはいいですけど、姫様はどうなさるんですか?」
「もちろん厨子を開けるわよ」
当然のように答える帰蝶に、松と竹が泣きそうな顔になる。
「それでしたら、わたくしたちも窓の外を見ておりますから……」
「ええ、厨子を開けるのは姫様、お一人でどうぞ……」
帰蝶は、またやれやれと首を振った。
「みんなビビりねえ。いいわ、アタシ一人で開けるから。さあ、みんなは外を見てて」
「…………」
「…………」
松と竹は困ったように顔を見合わせたけど、結局、怖さには勝てず言われた通りにした。
梅は窓辺に立って格子越しに外を見下ろしながら、
「織田の兵が、町の人たちに道を空けるよう指示し始めました。そろそろ織田三郎様がお越しになりそうです」
「うん、姿が見えたら、すぐ呼んで」
帰蝶は言いながら、厨子の扉に手をかける。
しかし、首をかしげて、
「……なんか建てつけが悪いってのか、開かないんだけど?」
「開かないなら、あきらめましょうよ……」
恐る恐る振り向いた松が泣きそうな顔で言い、同じく振り向いた竹も、うんうんとうなずいたけど、帰蝶が、
「……あ、開いた」
「…………っ!」
「…………!」
松と竹は、また慌ててそっぽを向いた。
帰蝶は、「あはっ」と愉快そうに笑った。
「なあんだ、何かと思えば」
「……え? 帰蝶様……?」
「いったい何があったのですか……?」
帰蝶が怖がるどころか面白がっているので、松と竹も好奇心が勝ってしまう。
二人で揃って窓から離れ、帰蝶のそばへ行って、厨子を覗いた。
だが、そこに収まっていたのは、これまで見たこともないような異形の像だった。
「……ひっ!」
「…………っ!」
松と竹は息を呑み、恐る恐る、帰蝶にたずねた。
「……帰蝶様、これは……?」
「いったい、何なのでしょうか……?」
「え? 知らないの?」
帰蝶は目を丸くして小首をかしげ、
「角大師でしょうよ。慈恵大師とか元三大師とも呼ばれる天台宗の偉い坊さんでしょ」
「いえ、角大師なら存じてますけど、これは……」
松が眉をひそめて言い、竹も両手で我が身を抱くようにして、ぶるぶるっと震えてみせ、
「こんなに恐ろしい姿の角大師なんて、見たことないです……」
慈恵大師には夜叉に化身して疫病神を退散させたという伝説がある。
その夜叉の姿を鬼大師や角大師と呼んで、厄除けの御札に描いたり、彫塑像として祀ることが天台宗の寺で行われている。
しかし帰蝶が扉を開けた厨子に収められていた木像は、あまりに生々しく恐ろしげな魔性の姿であった。
高さは一尺ほどの坐像である。
頭に二本の角が生えているのが、角大師という呼び名の由来である。
体と手足は亡者のごとく骨と皮ばかりに痩せているが、そこまでは、よくある角大師の姿であった。
だが、その痩せた体には蜥蜴のような鱗が、あまりに精緻に刻まれている。
玉眼と呼ばれる水晶を嵌め込む技法が用いられた目も、生きた蜥蜴か蛇さながらに見える。
カッと開いた口の中には、象牙を加工したのだろうか、鋭い白い牙が細かく並んでいた。
果たして、この像を製作した仏師は、本当に角大師を彫るつもりであったのか。
その名前だけを借りて、この世に魔物を降誕させようと目論んだのではないだろうか──
帰蝶は言った。
「聖徳寺の元になった荒れ寺は真言宗で、どうしてそこに天台宗にゆかりの角大師の像があったのかは、わからないわ。大昔には天台宗だった時代があるのかもしれないけど。
でも、よその寺に古い仏像を引き取ってもらうとき、お願いしたのは同じ真言宗の寺だろうから、角大師の像だけ引き受けてもらえなかったとすれば辻褄は合う。この店の先祖は、像が厄除けの御利益がある角大師だとわかって、打ち捨てるには忍びなくて持ち帰ったのでしょうね」
「それがどうして、障りがあるなんて話になったのでしょう……?」
まだ怖がっている様子で、恐る恐るたずねる松に、くすくすと帰蝶は笑う。
「この町の住人は何世代にも渡って一向宗の門徒でしょう? だから角大師を知らない人がいてもおかしくはないわ。いま厨子があるこの二階にも、もともと置かれていたという土蔵にも、店の使用人は機会があれば出入りしたでしょうから、そのうちの誰かが厨子の中の角大師を見つけたけど正体がわからず、何か障りがありそうな、おぞましいものがあると周りに言い触らしたのかもね」
それを聞いて、竹が苦笑いした。
「そういうことだとわかってみれば、怖がるほどの話ではなかったのかもしれませんね。でもやっぱり不気味な像ですけど」
「さて、謎が一つ解けたので満足したわ」
帰蝶は言って、にっこりとした。
「次なる謎は、織田三郎の正体ね。いったいどんなヤツなのか、ありのままの姿を覗いてやろうじゃないの」
帰蝶は木像に向かって手を合わせてから、厨子の扉を閉めた。
すると、厨子の中で何やら、ごとりと重い音がした。
「え?」
帰蝶は扉を閉めたばかりの厨子を、まじまじと見つめる。
松と竹も怯えた顔で、厨子を見る。
「……帰蝶様、いまの音、何でしょうか……?」
松がたずねたけと、帰蝶は、ぶるぶるぶるぶると首を振り、
「いや、この謎は絶対、確かめちゃダメなヤツ! 謎は謎のままにしておきましょう!」
「でも、お厨子の中で像が倒れたような……」
松が言って、竹もうなずき、
「姫様が扉を閉めた途端に音がしましたから、何が起きたにしろ確かめないと……」
「アタシのせいじゃないわよ! 乱暴に扉を閉めたつもりもないし!」
声を上ずらせる帰蝶に、梅が告げた。
「あのー、姫様? そろそろ三郎様が通られるみたいです。先頭の槍衆が、なんかスゴいです」
「スゴいって何よ!? いやいいわ、三郎本人が来たら教えなさい!」
帰蝶は梅に言い返してから、松と竹に、きっぱりと言った。
「厨子の中で何が起きたか確かめる前に、はっきりさせておきましょう。アタシは、厨子の扉を普通に閉めただけ。乱暴に閉めてなんていない、いいわね?」
しかし松と竹は納得していない顔で、
「それにしては大きな音がしましたけど……」
「そもそも、開けるなと言われた厨子ですし……」
「そこまで言うなら、わかったわ」
帰蝶は覚悟を決めて言った。
いや、そのようなフリをしているだけだった。
「アタシが扉を開けて確かめるから、二人は、あっち向いてなさい。だって障りがあったら怖いでしょう?」
それはつまり実際に何が起きたのかを松と竹には見せないという意味である。
だが、障りを恐れる二人は帰蝶の意図に気づかぬように、
「はい……」
「姫様が、そうおっしゃいますなら……」
そう言って素直に、厨子に背を向けた。
帰蝶は厨子の扉を開けて、
「……あ」
小さく声を上げると、ぱたりと扉を閉めた。
松と竹が振り向いた。
「帰蝶様、いまのお声は……?」
「いったい、何がございましたか……?」
「ううん何でもない何も起きてない何でもなかったから何でもない」
ふるふるふると首を振る帰蝶に、松と竹は眉をひそめた。
「本当に何もなかったのですか」
「像が倒れていただけなら、元通りに直せば障りも起きずに済むかもしれませんよ」
「いや倒れてない倒れてはいない倒れてなんてないってば」
ふるふるふるふると、帰蝶は激しく首を振る。
松と竹は顔を見合わせ、うなずき合った。
二人で、ずいっと帰蝶に迫った。
「帰蝶様、お厨子の扉をお開けくださいませ」
「何事もないと申されますなら、開けられるはずです」
「……えーっと?」
帰蝶は笑顔を引きつらせ、
「一日に何度も扉を開けたら角大師様もお疲れになるかも? そしたら、やっぱり障りがあるかも? みたいな?」
だが、いまさらそのような逃げ口上を、松も竹も赦しはしない。
「何が起きたにしろ、それをそのままにするほうが、よほど障りがございましょう」
「ええ、何がございましたか、わたくしたちにもお見せくださいませ」
ずいずいと迫って来る松と竹に、がっくりと帰蝶は、うなだれた。
あきらめたように、言った。
「……わかったわよ。そこまで言うなら、二人で厨子を開けなさい」
これにはしかし松が、ぎょっとした顔で、
「え? わたくしたちに開けろと仰せですか?」
「だって、アタシが何もないって言ってるのに信じないのは、松と竹じゃないの」
帰蝶が口をとがらせると、竹が松の肩を、とんとんと叩く。
「いいわ、わたくしたちで開けてみましょうよ」
「ええっ? 竹までそんなこと言って」
松は怯えたけど、竹は落ち着き払った様子で、
「だって、厨子を開けただけで障りがあるなら、まず最初に姫様が祟られるはずだけど、何でもないようなご様子だし」
「それは確かに……」
松も納得する。
二人の侍女はうなずき合うと、帰蝶に向かって、告げた。
「では、よろしいですね。お厨子を開けますよ?」
「本当に何でもないのか、確かめさせていただきますからね」
「いいわ、早く開けなさいよ」
帰蝶はそっぽを向いたまま答える。
松と竹は、厨子の左右の扉にそれぞれ手をかけ、開いた。
ごろりと、角大師像の首が──首だけが、厨子から転がり出た。
松と竹は思わず、
「「……ひっ……!!」」
と、悲鳴を上げかけ、口を押さえる。
二階に潜んでいることを織田方の者に知られてはならぬと、ぎりぎりのところで思い出したのだ。
角大師の首は、ごろごろと箪笥の上を転がって、床に落ちそうになったけど、
「……おっと」
帰蝶が素早く受け止めた。
そして、角大師像の胴体の上に首を載せると、厨子の扉を閉めた。
言葉を失っている松と竹に、にまっと笑って帰蝶は告げた。
「最後に扉を開けた人の、責任っと」
「…………」
「…………」
松と竹は、放心から我に返ると慌てて言った。
「いやいやいや、そういうものじゃないですから!」
「胴体の上に首を載せて、扉を閉めたらハイおしまいって、そんなのダメですから!」
「えーっ?」
帰蝶は嫌そうな顔をして、
「ここはみんなで共犯ってことでいいじゃないの。大丈夫、黙っていれば、いつ角大師の首がアレしちゃったかなんて誰にもわかんないし。だって開かずの厨子でしょう?」
これには松と竹が激しく首を振って、悲痛に叫ぶ。
「いや絶対ダメですってば! 厄除けの像の首が落ちたのを放ったらかしなんて、ホントに障りが来ちゃいますよう!」
「ここは正直に、お店の人に謝りましょうよ!」
「……あのー、姫様? 三郎様が参られましたけど……」
梅が遠慮がちに言ったのを、帰蝶は一蹴した。
「待たせときなさい! いま大事な話!」
「待たせろって……」
梅が首をひねるのは構わず、帰蝶は松と竹を説得にかかった。
「いい? アタシは何も、店の主人に謝りたくないわけじゃないの。だって、日比野長者にとって我が斎藤家は大事な取引先でしょ? 謝れば確実に赦してもらえるのは、わかってるんだから」
それを聞いて松が、
「でしたら、素直に謝ってしまえば……」
「だけど、この話が平太郎の耳に入ったらどうなる?」
帰蝶が言うと、松と竹も表情をこわばらせた。
「…………、それは……」
「福富様に知られてしまうと、お叱りを受けることになりますね……」
「そうでしょう?」
帰蝶は腕組みをして、力を込めてうなずいた。
「平太郎のヤツ、主君の姫君であるアタシにも結構、容赦ないからさ。説教始まったら長いわよ?」
「ええ、それはいままでの経験上、存じてます……」
松が言って、竹もうなずき、
「姫様が、それだけいつも福富様を怒らせているわけですけど……」
「その話は、とりあえず脇に置いといて」
帰蝶は軽く流して、
「だいたい三百年も前から厨子を放ったらかしにして来たのは、この店の代々の主人でしょう? だから悪いのは、この店の人たちよ。あと直近で怪しいのは、アタシたちより前に来て慌てて階段を下りてったという織田の家来」
これに松と竹も、うんうんとうなずき始めた。
「そう……そうですよね? だって三百年も前からそのままだった像ですもの」
「荒れ寺に置かれていた時点で、すでに何十年もたっていたかもしれないし。きっと最初から傷んでいたんですよ」
二人が納得したので、帰蝶も、にまっと笑った。
「そうでしょう? そういうことなのよ。だから、ここでは何事もなかったの」
「ええ、そうですとも」
「わたしたちは、織田三郎様のお姿を見に来ただけです」
松と竹も、うんうんとうなずいている。
帰蝶が、梅に向かってたずねた。
「それで三郎は、もうそろそろ来るんじゃないの?」
「いえ、もう通り過ぎちゃいましたけど」
梅の答えに、帰蝶は「はあっ?」と眉を吊り上げた。
「梅アンタ、三郎が来たら教えろって言ったじゃないの。いったいアタシたちが何のためにここまで来たと思ってるの?」
「だから教えましたけど、姫様は三郎様を待たせとけとか無茶なお返事をされたじゃないですか」
「そんな莫迦なコト、アタシが……!」
帰蝶は腕組みをして声を荒らげかけたけど、すぐに首をかしげた。
「……いや? 言ったかも? みたいな?」
「……やれやれ」
梅は声に出して、首を振った。
「姫様って、そうやってよく、途中でほかのことに夢中になって最初の目的を忘れますよね?」
「……てへっ?」
帰蝶は、ぺろりと舌を出してみせた。
「それで、三郎はどんなヤツだった? こうなったら梅の目撃証言だけが頼りだわ」
「それはもう、なんというか……カッコイイです」
答えて言った梅は、目撃したばかりの三郎の姿を思い出したのか、両手を胸に当て、目を輝かせる。
帰蝶のほうは目を丸くして、
「カッコイイ? えっ、普通にカッコイイの? だって噂じゃ、普通に変なヤツのはずじゃん? 女装趣味があったり、やたらと瓢箪を腰にぶら下げてたり、あと、なんか買い食いしてたり?」
「少なくとも、この店の前を通ったときの姿は、そんな感じじゃなかったです。ちゃんと烏帽子と直垂で正装してましたし」
「腰に瓢箪は無し?」
「腰に瓢箪は無いです」
「買い食いもなし?」
「ええ、自分で買ったり家臣に買わせたりして、馬の上で何か食べてる様子はなかったです」
「女装は?」
「してないですよ、烏帽子に直垂姿ですもん」
「え? 普通?」
「だから普通にカッコイイんですってば」
梅の答えに、帰蝶は呆れ果てたという顔で、首を振った。
「普通って、それだったらアタシ、ここまで三郎を見に来る意味あった?」
「いやそれ結果論で言っても仕方ないですし」
梅がツッコミを入れたのは聞き流し、帰蝶は、松と竹に告げた。
「……帰るわよ」
「はい、帰蝶様……」
「かしこまりました、姫様……」
松と竹も拍子抜けした様子で、答える。
帰蝶は、梅に向き直り、
「もういっぺん、念のために聞くけど、普通にカッコイイの織田三郎って?」
「普通というか、超カッコイイほうだと思います」
梅の答えに、帰蝶は「超ね……」と眉をひそめて、首を振った。
「いやそれ、普通だわ。このままだとアタシ、普通に結婚するだけじゃん」
「でも、もとは敵国同士の若殿と姫様がご結婚なさると思えば、そこまで普通ではないかもしれないです」
梅は言ったけど、帰蝶は「うーん……」と腕組みをして考え込む様子を見せる。
「アタシが言ってる普通ってのは、そういうことじゃないのよ」
「じゃあ、どういうことなんですか?」
きき返した梅には答えず、帰蝶は首を振る。
「三郎が噂通りの変なヤツだったら、それを口実にすぐに結婚生活を打ち切って、美濃に帰って尼になるつもりだったのに……」
帰蝶にとって、土岐次郎との結婚生活は不幸なものでしかなかった。
それから解放されたのは、相手が流行り病で早死してくれたおかげだ。
だが、そうした幸運が何度も訪れるとは思えない。
織田三郎との結婚生活もまた不幸なものになったとき、帰蝶はどうしたらいいのか。
父の山城入道に秘かに頼んで、世間の噂で言われているように婿を毒殺してもらうか?
「やっぱり、土岐次郎が死んだ時点で尼になっておくんだった。それか、織田備後守に目的地を末森に変えろと言われて平太郎がブチキレた時点で、アイツを煽って美濃に帰るよう仕向けるべきだったし、うまく織田方のせいにして門徒を辻斬りする手だってあった。いや、いまからでも角大師の障りを口実に、婚礼を中止する手はないものか……」
また思考の泥沼に嵌まり込む帰蝶に、階段の下から平太郎が呼びかけて来た。
「姫様、急ぎ聖徳寺へ戻りましょうぞ」
「あーもう、わかったわよ」
帰蝶は足音荒く階段を下りて、一階で待っていた平太郎に、告げた。
「アンタさ、これはあくまで仮定の話だけど」
「はい?」
「アタシが頑張って、ずっと澄ました顔でいたとしたら」
「は……?」
「いや、何でもないわ。速攻で忘れて」
「はあ……」
相手が織田三郎ではなく福富平太郎に替わったところで、帰蝶の結婚生活が不幸を回避できるとは、到底思えない。
帰蝶自身にはどうにもならないことで、最初の結婚生活は不幸に終わった。
その原因となったものについて状況が変わることはないのだから、結局、不幸な結婚が繰り返されるだけのことである。
帰蝶は、そう思いこんでいる。
最初の結婚生活で土岐次郎から告げられたことは、いまだに帰蝶の心の枷となっていた。