終章 聖徳寺(4)
帰蝶は侍女たちとともに絹屋の店に入ると、店の主人であろう男が奥の帳場で何やら帳面を広げていたので、呼びかけた。
「えーっと、ウチの福富から話が行ってると思うけど?」
「あ……はい、ただいま」
店の主人は慌てたように席を立ち、そそくさと帰蝶のそばへ来ると声を潜めた。
「申し訳ございません。表向き二階には誰も上げないことになっておりますので、そのあたりをご承知おきください」
店先で接客をしていた女房も、客に「少々お待ちください」と声をかけてから、心配げな顔で様子を見に来る。
帰蝶は、にまっと笑って胸を張った。
「なるべく迷惑かけないようにするわ」
もちろん聞かされたほうは安心できる言葉ではない。
何やら言いたげに目を見交わす主人夫婦だが、相手が「姫様の侍女」であるにしても斎藤家の重臣の娘だと聞かされているから文句は言えない。
しかし主人夫婦の心配など意に介さず、実のところは姫様当人である帰蝶は、たずねた。
「それで、二階に出入りできる経路は一つだけ?」
「いえ、このすぐ奥にある階段ともう一つ、店の裏手に通じる階段がございます」
主人が答え、女房が言い添える。
「裏口からは土蔵の脇に出ますので、表の通りからは、すぐにはわからないと思います」
「じゃあ、万が一のときは、そこから脱出させてもらうわね。もちろん、なるべく迷惑かけないようにするけど」
にんまりと笑う帰蝶に、主人は、なおさら不安げな顔をした。
「はい……わたくしどもは織田様ともお取り引きをさせていただいておりますので、騒ぎにならないようにしていただけますと助かります」
「で、普通の階段はすぐ奥ね? 案内はいらないわ」
そう言うと帰蝶は、さっさと店の奥へ進んだ。
侍女たちも主人夫婦に会釈して、帰蝶のあとを追う。
店の奥には廊下と階段があった。
廊下を進めば座敷や台所があるようだ。
階段を上がろうとした帰蝶に、店の主人の女房が追いかけて来て、言った。
「……あの、福富様とおっしゃるお侍様は、皆様にはお伝えしないことになさると仰せだったのですが」
「え? 平太郎のヤツ、アタシに何か隠しごとしてるっての?」
振り向いて眉をひそめる帰蝶に、女房は「ええ……」とうなずき、
「でも、やはり皆様にお伝えしておかないと、何か障りがございましたときに、むしろ大事になると存じまして……」
言いにくそうにしているけど、黙ってはいられないという様子である。
帰蝶は、にまっと笑ってたずねた。
「殊勝な心がけね。ええ、そうしたことは、ちゃんと伝えてもらったほうがいいのよ。それでいったい、どんな話?」
「はい、実は……」
女房は、この店の二階にある由緒不明の厨子について、帰蝶と侍女たちに語った。
聖徳寺の前身となった荒れ寺については、主人は福富に対して「他宗」と曖昧にしか伝えなかったけど、女房は「元は真言宗」と、はっきりと告げた。
そこに意味があると思ったわけではない。
ただ、彼女は自分の知っていることを他人に話さずにいられない性格であった。
つまりは、おしゃべりなのだった。
話を聞くうちに、侍女たちは怯えた顔になった。
ところが帰蝶のほうは、どうしたわけか、にやにやと笑い始めた。
それが思っていた反応と違ったのだろう。
逆に女房のほうが途中から口が重くなり、途切れ途切れに言い淀むようになったけど、帰蝶に促されてようやく一通りの説明を終えた。
帰蝶は、にっこりとした。
「よく話してくれたわ。ええ、曰くつきの厨子に不敬なことはしないわよ」
「ええ……、そうなさってくださいませ……」
頭を下げた女房だけど、実のところは帰蝶の面白がるような態度に納得がいかない顔である。
そんなことなど気にせず、帰蝶は軽い足取りで階段を上っていった。
松、竹、梅の三人の侍女も女房に会釈して、帰蝶のあとを追った。