終章 聖徳寺(2)
鎌倉幕府三代執権、北条泰時の時代の寛喜年間。
それまで約二十年にわたり東国で称名念仏の布教に努めて来た親鸞は、京の都への帰途、尾張国中島郡大浦の地に立ち寄った。
元は真言宗であった荒れ寺にしばらく滞在して、近郷の人々を集めて称名念仏を説いたところ、たちまち多くの者が親鸞とその教えに帰依することになった。
やがて京へ出立しようとする親鸞に、人々は、どなたか御弟子をこの地に留めて引き続き教えを示してほしいと懇願した。
当時、諸国では長雨と冷夏、逆に猛暑と旱魃という天候不順が繰り返されて農作物が育たず、多くの餓死者が出て世情不穏となっていた。
救いを求める人々は、親鸞の称名念仏、他力本願の教えに深く共鳴したのである。
このとき親鸞の帰洛に同行した弟子の一人に、甲斐国出身の閑善坊という者があった。
閑善は加賀美遠光の次男、小笠原長清を祖とする甲斐源氏小笠原氏の末流であり、俗世では通称を左衛門尉、諱を長顕といった。
つまり元武士であったが世の無常轉變を憂い、有縁の知識を求めていたところ、東国で称名念仏の教えを広める親鸞の令名を知って故郷を出奔。
相模国は国府津の、のちに御勧堂と呼ばれることになる草庵に滞在していた親鸞に入門を望み、許されて法弟となったのである。
閑善は人々の懇請に応じて、大浦に留まることを申し出た。
親鸞はその心がけを悦び、閑善に直筆の名号を含む七つの宝物を授けた。
閑善は寺の名を聖徳寺と改め、山号は親鸞から授かった寺宝にちなんで七寶山とした。
こうした縁起のある聖徳寺は、親鸞の直弟子によって開かれたことから本願寺の直末寺と格付けされる、浄土真宗において有力な寺院となった。
美濃、尾張両国に多くの末寺を抱え、その教勢の盛んであることは両国の守護も無視できず、不入の特権を獲得するに至った。
その一方で、当初の所在地であった大浦が木曾川の氾濫で被害を受けて以降、幾度か水難を原因とする移転を繰り返してもいた。
これは濃尾両国の門徒の往来に至便な木曾川の支流沿いに堂宇を構えるのが開山以来の習わしであったからだが、大水の被害に遭ってもすぐに再建できるだけの財力を寺と門徒が有していたことの表れでもあった。
二十数年前の永正年間からは、聖徳寺は中島郡富田に所在していた。
その門前の町家は七百を数え、それをさらに囲むかたちで環濠が設けられ、全体を寺の境内とみなす『寺内町』が形成されていた。
聖徳寺が本願寺の直参寺院としてそれだけ隆盛を誇り、膝下にある富田の地も栄えていたわけである。
その富田の町中に、絹屋長者と呼ばれる富商の日比野家の店があった。
店の前の本通りは、聖徳寺の山門まで続いている。
つまり織田三郎が自ら聖徳寺に来るというなら、日比野家が営む絹屋の前を通るはずであった。
日比野家は絹の商いで美濃各地と取引がある。
絹は上等なものは唐国渡り──つまり中国からの輸入品である。
質の劣る国内産の絹は主として日用品に用いられるが、需要自体は存在するから、一定品質を保つように選別しながら量を扱うことで、それなりに利益が出る商売となる。
日比野家は斎藤山城入道から美濃領内での絹の買い付けと絹製品の販売を許され、見返りに相応の運上金を献納していた。
つまり斎藤家との関わりが深く、姫君の輿入れに際して協力を求められれば応じるものと考えられた。
ところが福富平太郎が日比野家を訪ね、用向きを伝えると、主人夫婦は困惑したように顔を見合わせた。
主人が恐る恐るという様子で言った。
「実は先ほど織田様の御家来がお越しになり、若殿様が聖徳寺を訪問されますが二階から見下ろすのは無礼になるので、道沿いの家は二階の雨戸を閉めて決して外を覗いてはならないとのお指図がございました」
これに平太郎は眉をしかめて、
「だが、この店の二階の窓は格子がはめられて、雨戸がないだろう」
「仰せの通りにございます。織田様の御家来も実際に二階に上がって確かめられて、格子が細く、弓や鉄炮で殿様を狙うのは難しいであろうから窓はこのままでよい、ただし殿様がお通りの間、二階には誰も上がらないようにとのお指図なのです」
主人の答えに、平太郎は「ふうむ……」と、うなった。
「この富田寺内町は守護不入の土地だ。そのほうたちが織田家の指図に従う謂われはないだろう。もちろん、それは我が斎藤家についても同じだが、我らは応分の礼はさせてもらうし、織田方との間で問題になったときは我がほうで対処させてもらう。寺の許しが必要と思うなら、我らから代僧の明蓮殿へ申し入れよう」
「あ……いえ、それには及びませぬ」
主人は慌てたように言う。
聖徳寺を巻き込めば、斎藤家と織田家との三者の間で騒動になりかねない。
日比野家は織田家を相手にも商いをしており、揉めごとは避けたいのだろう。
日比野家の女房が主人に目配せした。
「……あなた」
「う……、うむ……」
主人はためらいがちに、うなずくと、あらためて平太郎に告げた。
「実は……出るのです」
「出るとは何が?」
「その……二階はずっと、開かずの間となっておりまして」
主人の言葉に、平太郎は眉をしかめる。
「だが織田の家来は二階に上がったのだろう?」
「はい、それはすぐに降りて来られましたので、大丈夫だったのだろうと思いますが……」
主人が言うと、女房が、
「でも慌てて階段を駆け下りて来る感じじゃありませんでした? 誰も二階に上がらなければ問題ないとおっしゃって、そのまますぐに帰ってしまわれて」
「二階には何がおるのだ。鼠か貉か蝙蝠か」
平太郎が睨みつけると、主人は声を潜めて、
「その……しかと見たと申す者は、おらぬのですが」
「それは誰も何も見ていないということではないのか?」
「いや、何かは確かにおるのです」
主人は怯えたように、ふるふると首を振る。
女房が、ためらいがちに言った。
「これはお寺にも関わることでございますので、あまり大っぴらには申し上げぬようにしているのですが。織田様の御家来にも、どうしてもとの仰せでございましたので、お話し申し上げましたが」
「先ほどから何をもったいぶっておるのだ」
平太郎は苛立った。
帰蝶が織田三郎の様子を覗き見るのに、日比野長者の店の二階ほど適した場所はない。
窓に細い格子がはめられているから、中から外の様子を窺っていることが、外からではわからないだろう。
この店でなければ、あとは道筋の家の一階から覗くしかないが、家の前には警護の侍が居並ぶだろうから、三郎の姿はよく見えないはずである。
それで帰蝶に文句を言われるのは平太郎なのだ。
この店の二階に何が出ようが、あの帰蝶が動じることはないだろう。
いや帰蝶でも驚くことがあるというなら、今後は我がままを慎ませるための良い薬になるのではないか。
女房が主人を肘でつっつき、主人は渋々ながらという顔でうなずくと、平太郎に告げた。
「聖徳寺が、もとは他宗の荒れ寺であったことは御存知でしょうか」
「聞いたことはある。だがもう三百年は昔のことだろう。しかもその当時から所在地も移ったのではないか」
平太郎が言うと、主人は「ええ……」と目を伏せて、
「実は元の荒れ寺に、由緒のわからぬ厨子が一つございました。親鸞聖人のお弟子で閑善様というお坊様が聖徳寺の開山でございましたが、阿弥陀様よりほかの仏は当寺には無用との仰せで、それまであった仏像は近くの他宗の寺に頼んで引き取ってもらったそうです。ですが、厨子一つだけが引き受け手が見つからず、やむなく当家の先祖が持ち帰りました。その厨子が、いまこの店の二階にあるのです」
「三百年の間に、この店も寺と一緒に幾度か場所を移ったのではないのか。その間に厨子の始末をどうするか、代々の主人は考えなかったのか」
「それが長く蔵の奥にしまい込まれて、店を移す折も、ほかの荷に紛れておったようで、わたくしの祖父の代になって、あらためてその厨子がまだ当家にあることに気づいたそうなのです」
「…………」
平太郎は腕組みをして、主人に問うた。
「その厨子に障りがあると申すか」
「はい、仰せの通りでございまして、決して厨子の扉を開けてはならぬとの伝えでございます」
「そのようなものを、わざわざ家の二階に置かず、人目につかぬ蔵の一番奥にでも収めておけばよかったのではないか」
「はい、わたくしもそう思っておりますが、祖父がいかなる考えで二階に厨子を置いたのか確かめる機会がございませんでした」
「では厨子の扉を開けなければ問題ないか」
「はい……ですが、そう申しますと皆様、扉を開けてしまいたくなるようで……、何かの呪詛でもあるのでしょうか」
「扉を開けるなと申すから開けるのであろう。厨子については、当家の者には何も申さぬでおく」
平太郎は言った。
日比野家の者には、帰蝶姫の「侍女」が織田三郎の姿を覗き見て、いかなる者であったか主人に報告するのだと伝えてある。
帰蝶本人が覗き見をするのだとは、みっともなくて言えない。
幸いというべきか、帰蝶はあまり信心深いほうではないが、我が家の宗旨が法華宗であることは弁えている。
それゆえ、一向宗の家にある厨子を勝手に開けて、仏像を拝もうとは思わないだろう。
厨子に曰くがあることを決して教えなければ。
それを知ってしまったら、絶対確実に厨子を開けようとするだろう。
「では、よいな。のちほど姫様の侍女たちを連れて参る。侍女とは申しても当家の重役の娘たちであるゆえ、粗相のないようにしてもらいたい」
平太郎は念を押し、日比野家の主人夫婦は深々と頭を下げた。
「はい、それはもう重々肝に銘じまする」
「仰せのとおりにしたします、はい……」