第十章 萬松寺(12)
──再び、萬松寺の本堂。
怒りを抑え込んでいるのか、手を震わせながら書状を読み進める備後守に、吉法師は告げた。
「書かれてあることからして、ユキも勘十郎を憎からず思うておったようにございまするな。それが勘十郎の直筆であることは、父上ならおわかりになりましょう」
「あいや、お待ちあれ」
林美作が口を挟んだ。
「父の側女に横恋慕いたすなど、けしからぬことではござるが、謀叛とは罪の軽重が違いましょうぞ」
「ユキを唆し、父上の酒に何やら薬を混ぜようといたしてもか」
吉法師は美作を睨んだ。
それからまた順に、新五郎、次右衛門、大学の顔を見た。
「書状には、その薬が毒とは書かれておらぬ。だが記された効能からして毒の一種であることは明らかじゃ。勘十郎と情を交わしておったユキは、父上には抱かれたくないばかりに、そのう……」
眉をしかめて言葉を探したが、見つからないまま吉法師は、話を続ける。
「……そうした力を衰えさせる薬を、父上の酒に混ぜたのであろう。勘十郎に指図されるままにのう」
「で……出鱈目です、父上!」
勘十郎は叫んだ。
「兄上の申されることなど信じてはなりませぬ! わたくしは決してユキに懸想などいたしておりませぬ!」
「いかにも勘十郎そなたは、ユキに恋心などなかったであろう。ただそれがあると思わせて、ユキを誑かしたのよ」
吉法師は言った。
「そうして先に申したような効能の薬と思わせて、まことは毒を、父上の酒に混ぜさせたのじゃ。梅見酒などと洒落て、梅の花の塩漬けを盃に浮かべ、砒毒の味や匂いがわからぬようにいたしたのは、さて誰の考えであったのか」
「出鱈目だ! そんな手紙、わたしは書いてない!」
なおも勘十郎は叫んだが、吉法師は首を振り、
「だが筆跡は間違いなく勘十郎、そなたのものじゃ」
それから吉法師は、備後守を見た。
備後守は書状を凝視したまま手を震わせ続けていたが、構わず告げた。
「さて父上も哀れなお人よ。息子の一人は謀叛を目論み、いま一人は側女に横恋慕いたして父上に毒を盛ろうと計ったのじゃ。筆跡ばかりでその書状を、まことのものと信じるなれば、そうしたことになりましょうな」
「き……、貴様ども……」
備後守は吉法師に、次いで勘十郎に、憎悪の籠もった目を向けた。
「揃いも揃って、父であるこの儂を謀るか……」
「ち……違う! わたしは、そんなことはしない!」
悲痛に叫ぶ勘十郎を、吉法師は憐れみの目で見て、やれやれと首を振った。
「因果なものじゃ。謀事を巡らせることを好んだ者が、逆に謀られるのよ。勘十郎も、父上もそうじゃ」
帯に挿していた扇子を手に取ると、それを思いきり、ばしんと音を立てて床に叩きつけた。
扇子は床に弾けて飛び、砕けた骨が散った。
大雲永瑞が瞠目し、ほかの者は呆気にとられた顔をする。
吉法師は、一同に告げた。
「此の衣は信を表す、力をもって争う可耶、君の持ち去るに任す」
「…………」
言葉を失っている一同に、吉法師は、あらためて言う。
「だが儂は武士であるゆえ、力をもって争おう。父上が家督を勘十郎に譲ろうとお考えなら、そうなさるがよろしかろう。されど那古野の城は、お返し申さぬ。儂が五つの年より預かって参った城なのじゃ。家来や領民どもも儂をこそ城主と思うておろう。織田大和守の家より分かれて我が弾正忠家があるように、儂もこの那古野で新たな家を立てよう」
「…………」
備後守は、書状を手に握りしめて、皺くちゃにする。
それを床に投げつけて、吉法師を睨んだ。
低く押し殺した声で、吉法師に告げた。
「……そのような勝手を許すと思うか……」
「許すも許さぬもない。儂が、そうすると決めたのじゃ。父上はいかがじゃ。なされることに一つ一つ、武衛様や大和守様の許しを得ておられるか」
「何じゃと……」
備後守は、なおも吉法師を睨んでいるが、吉法師は佐久間大学と次右衛門に視線を向けた。
「天意に沿わぬ謀事の果てがこれじゃ。いずれ家中は割れような。勘十郎、孫三郎叔父貴、三郎五郎兄上、ほかにも我こそ織田備後守の衣鉢を継ぐにふさわしいと思う者が立って、相争うのよ。そのほうどもは、誰に従うか。あるいは斎藤山城入道がごとく、我こそ我が主君として立つか」
「…………」
「…………」
大学と次右衛門は、むっつりと押し黙っている。
吉法師は、林新五郎と美作を見た。
「そのほうどもは勘十郎を立てるがよいわ。儂とは心底から相性が合わぬゆえのう。戦場で存分に相手をして遣わす」
「さて何を仰せられますか」
ぎょろりと大きな目を新五郎は見開き、
「それがし那古野の城の、一のおとなを任されており申す。我が主人は那古野の御城主たる三郎様にござれば、御敵いたすことなどございませぬ」
「ぬけぬけと、よう申す。まあよいわ。いずれその貉のごとき面の皮を剥いでくれようぞ」
吉法師は次いで、勘十郎に目を向ける。
青ざめた顔で、しかし怨みを込めて睨みつけてくる勘十郎に、吉法師は告げた。
「誰が味方であるか見誤ったのう、勘十郎。そのほうの一番の味方は父上であったのに、時を待てばいずれ、そのほうが欲しいものは手に入ったであろうに、おのれの浅はかさゆえに台無しじゃ」
「……うるさい」
勘十郎は言った。
「ただ兄として生まれたというだけで、初めから多くのものを手にしておる兄上に、わたしの気持ちなどわかろうはずがない」
「だが父上は、そのほうをこそ愛でておったのじゃ。おのれの辛抱が足りなかったばかりのことよ」
そう言うと吉法師は、今度は備後守を見た。
ぎらぎらと光る備後守の目は、憎悪に燃え立っているかのようだ。
吉法師は、頭を下げた。
「勘十郎も、わたくしも父上への孝の心に欠けてござったようじゃ。お赦しあるとは思いませぬが、お詫び申し上げておきまする」
「三郎そのほう、まだなお、父であるこの儂を嘲弄いたすか……」
備後守が呻くように言って、吉法師は首を振る。
「決してそのようなつもりはございませぬが、意地の悪い父上を見習って育ったばかりに、天邪鬼な振る舞いが身に着いてしもうたのでしょう」
最後に吉法師は、大雲永瑞に深々と頭を下げた。
「見苦しいところをお目にかけました」
「そなたの謀叛の書状は瞞し、勘十郎の横恋慕の恋文も瞞し。そうしたことでよいのじゃな」
大雲永瑞が念を押し、吉法師はうなずく。
「御本尊、十一面観世音菩薩にかけて誓いまする」
「ならばよし。あとは、それぞれが如何に呑み込むかじゃ」
大雲永瑞はそう言うと立ち上がり、本尊に向き直って合掌する。
吉法師は、あらためて一同を見渡した。
「さればこれより、この三郎の祝言にございますれば。御免つかまつる」
そう言うと再び、頭を下げる。
それから本尊に向かっても深々と頭を下げて、吉法師は本堂を退出した。
外にいた侍たちが、様子を窺うように本堂を見ていたが、吉法師が現れたのを見て慌てて視線を逸らす。
吉法師は素知らぬ顔で境内を抜け、門から外に出た。
犬千代と小十蔵が駆け寄って来た。
「殿!」
「殿! 何事もございませんでしたか!」
そのあとから滝川久助が、自身の馬の手綱を牽いてやって来る。
「殿……伺いたいことも山ほどございますが、まずは御報告を。帰蝶姫様の御一行は、いま富田の聖徳寺におられます」
「ふむ。そちらでも何やらあったのか」
吉法師がたずね、久助はうなずき、
「富田の渡し場にて、我らが御輿入れの御一行を待っておりましたところに、柴田権六殿、佐々隼人佐殿が兵を率いて現れ、帰蝶姫様には那古野ではなく末森城の奥御殿にお入りいただくよう大殿のお指図があったと申されました。しかし川を越えて参った美濃方が末森行きは承知せずにおりましたところ、平手殿の発案で、いったん帰蝶姫様には聖徳寺に御動座いただくことになったのです」
「……であるか」
吉法師は、うなずいた。
「されば久助そなた、ただちに聖徳寺へ馳せ戻り、我が婚礼の儀はそのまま富田の地にて執り行うと、美濃方と平手とに申し伝えよ。一向宗の寺で婚礼をいたすに障りがあれば、ひとまず河原でもどこでも場所を移せばよいわ」
「柴田殿には、いかが伝えましょう」
「そのほうどもの目論見は外れ、この吉法師が聖徳寺へ向かっておると申せば、察するであろう」
「承知いたしました。詳しいことは、のちほどお聞かせくだされ。何やら楽しそうでございますから」
にっこりと久助は笑うと、ひらりと馬に飛び乗り、鞭を入れて駆け去った。
吉法師は犬千代に告げた。
「犬千代そなたは城に戻り、勝千代と万千代を連れて安養寺へ参れ」
「聖徳寺へ向かうのではなく、安養寺ですか」
きき返す犬千代に、吉法師はうなずく。
「安養寺にて我が足軽衆と合流いたして聖徳寺へ向かうのじゃ。せっかくの我が婚礼ゆえ、松平竹千代にも列席させてやろう」
「承知しました。なんだか面白いことになりそうですね」
犬千代は、にやりと笑う。
吉法師は小十蔵に告げた。
「小十蔵そなたは、このまま儂とともに安養寺へ参るのじゃ。竹千代とその家来どもを、婚礼の場に出るにふさわしい姿に着替えさせねばならぬであろうから、手伝うてやれ」
「はい、承知いたしました!」
小十蔵は答える。
吉法師は、大きくうなずいた。
「さて、この儂の一世一代の晴れ舞台であるぞ」