序
小姓が灯明に火を点し、一礼して下がった。
平手は広間に一人きりで待たされていた。
庭に面した障子戸、次の間への板戸など皆、開け放されている。
周囲に人がいないことを明らかにするためであろうけど、すでに秋は深まり、日が暮れれば冷え込んでくるのだが。
ときに天文十七年。
通称を五郎左衛門または中務、諱を政秀という平手は、あと数年で還暦である。
上背があり、若年の頃は戦場で功名も重ねた。
だがいまはすっかり肉が落ち、寒さが身に堪えてならない。
それでも背筋を伸ばして端座していられるのは、武士として長年鍛錬してきたからだ。
もちろんいくらかは痩せ我慢もある。
すっかり薄くなった白髪は頭の後ろで辛うじて髷のかたちにしている。
いっそ入道すれば髪など気にすることもないのだろうが、それは同時に隠居を意味する。
ところが長子の五郎右衛門、次子の甚左衛門とも、自分の後を任せるには頼りない。
いや決して不出来な息子たちではないと思う。
五郎右衛門は武骨で融通が効かないが、どきどき鋭い勘働きを見せる。
甚左衛門は人当たりがよく、何事も卒なくこなしてみせる文人肌だ。
それでも、いま平手たちが置かれている状況が難しすぎるのである。
近づく足音が聞こえ、平手は平伏した。
足音の主が広間に入って来て、上段の間に着座した。
小姓や近習は連れていない。
「儂とそのほうだけじゃ。面を上げよ」
「は……」
平手は体を起こし、目は伏せたまま挨拶した。
「久方ぶりに大殿に御目通り叶い、この平手、まこと喜びに堪えませぬ」
「芝居がかった挨拶など無用じゃ。早よう、その痩鴉がごとき面を見せい」
「は……」
平手は目を上げた。
大殿──織田備後守が、いつもながらに人の悪い、にやにや笑いを浮かべている。
しかし。
(臓腑でも病まれておいでか……?)
平手は、そう思った。
織田の一族は、こぞって美男美女である。
備後守も色白で瓜実顔の貴公子のような面立ちであった。
だがいま日も暮れた広間で、灯明のみに照らされたその顔を見れば、頬と顎には肉がついたというより浮腫んで見える。
備後守、諱を信秀。
年は四十手前であったと平手は思い出す。
病でもなければ、あるいは敵に討たれなければ、まだ死ぬような齢ではない。
逆にいえば病であれば、どれほど若くても人は死ぬ。
さていま備後守の身に何かがあれば、この尾張はどうなることであろうか。
頭の中を巡りかけた考えを振り払うように、平手は再び顔を伏せ、言った。
「末森に新しき城を築かれますそうで」
「普請は大方終えておる。耳が遅いぞ、平手」
備後守の返答は笑いを含み、
「そのほうらしくもないと思うたが、いや、しばらく顔を合わせておらなんだな」
「はい、御機嫌伺いに罷り越さねばならぬと存じながら、なかなかに」
「うつけを主人と仰いでは収まるものも収まらぬか」
「いえ、決してそのようなことは」
顔を伏せたままでよかったと平手は思った。そうでなければ表情に出ていたであろう。
図星であると。
話題を変えるように平手は言う。
「古渡と申しまするは飛鳥井雅経卿の歌にも『むかしより その名かはらぬ古渡 さても朽せぬ橋はしら哉』と詠まれまして、鎌倉道の渡し場として古来より名の聞こえた土地にございます。されば、この古渡の御城を廃せられますのは、なにやら物惜しきこととも存じまする」
「古渡は熱田とも那古野とも近すぎる。いま以上には栄えようもない。もはや熱田も我が掌中にあり、押さえの城なら那古野一つで充分であろう」
備後守は答えて言い、くっくっと笑いながら、つけ加える。
「うつけが不始末をしでかさねばな」
「左様なことは、ないものと……」
歯切れの悪い返答であるのは平手自身が承知している。
いまの平手の主人、通称を三郎、諱を信長という若者は、二年前に十三歳で元服し、去年、初陣も済ませている。
備後守の正室、土田御前の所生の長子であり、備後守の嫡子とみなされている。
だが、家臣領民からの評判が芳しくない。
その不品行を皆が知っている。
同年輩の近習、小姓ともども婆娑羅な身なりで尾張中を馬で駆け回り、その姿のまま市中を闊歩して、餅や水菓子など買い求めては立ったまま喰らう。
人を害する、ものを奪うなどの悪行を働くわけではない。
ただ振る舞いに品が無く、すでに一城の主である身として自覚が足りない。
三郎は那古野の城主なのである。
平手は、その附家老という立場だ。
備後守は言った。
「余談はこれまでじゃ。平手そのほう、美濃へ参れ」
「美濃へ……で、ございまするか」
平手は顔を上げる。
備後守は、なお人の悪い笑みのままである。
「津島の堀田道空居士、そのほうも音信を欠かしておらぬであろうが、彼の者に指図して、美濃方に和談の腹づもりがあるか内々に探らせておった」
「は……道空居士とは、先だっても書物の貸し借りなどで文を交わしたばかりにございまするが、そのようなお話は何も記されておらず。いやそれが内々に探らせるということでございましょうが」
平手は困惑気味に言う。
もともと平手は備後守の側近として、内裏や近隣諸大名への使者の役、また賓客が備後守を訪ねた際の接待役を務めてきた。
そうした役目は三郎の附家老に任じられてからも幾度か命じられていたが、それは相手が以前から平手と交誼のある場合が主だった。
このところの平手は外交官としての務めからは、ほぼ遠ざかっていたのである。
備後守が笑みのままで言う。
「なぜそれがしが、と思うておろう。だがこれは平手、そのほうであればこそ務まる使者よ」
「は……長年、干戈を交えて参りました美濃との和談、成りましたならば家中の者は皆、安堵いたしましょう」
当たり障りのないよう答える平手に、備後守は首を振る。
「そうとは限らぬぞ。美濃とは遺恨も深い。先年の一戦では大いに負けて、我が弟の与次郎はじめ、多くの者を死なせたわ」
「は……」
平手は目を伏せる。
遺恨の深さを知りながら、この自分に使者の役を任せようというのは破談となってもいいという考えか。
おのれの恨みを晴らすまで戦を続けることを望む者は、尾張にも美濃にもいるであろう。
平手が使者を務めると知れば、これを害してでも和議を妨げようとする者が現れるかもしれない。
(……まさか捨て石となさるおつもりか)
そう考えて平手は愕然とする。
備後守の側近として働いてきた彼が、まだ吉法師と幼名を名乗っていた当時の三郎の附家老として那古野に遣わされたのは十年前。
平手はそれ以前から吉法師の傅役を任されていたから、その附家老となるのも自然な流れではあったが、備後守の側から遠ざけられたのは、それだけが理由ではなかった。
当時の平手には、とある不始末があった。
備後守はそれを忘れず、難題を押しつけようとしているのか。
平手の心中を読んだか、備後守は、くっくっと笑い声を上げた。
「そう構えるな。美濃方も和議に応じる用意はあると道空居士は探り出しておる。この先は彼の者と密に繋ぎをとり、話を進めよ」
「は……かしこまりましてございまする」
平手は深く頭を下げて、
「されど遺恨深き美濃との和睦となれば、証人を取り交わすことにもなりましょう」
「そのことよ。そのほうに使者を任せようと申すのは」
「は……我が身内に適当な年頃の男子はおりませぬが、長子五郎右衛門の娘であれば御役に立てようかと」
孫が可愛くないわけがない。
だが人質が必要であれば、使者を務める平手が自ら差し出すのも、やむを得ないことだ。
和議が必ず破れ、人質が命を奪われることになるとは限らないのだから。
しかし備後守は言った。
「無用じゃ。和睦を渇望しておるは美濃方よ。斎藤山城入道、どうやらよほど国衆に嫌われてしもうたらしい」
「されば越前より攻められ近江より攻められ、また我ら尾張より攻められて、守りばかりの戦に皆、飽いておるのでしょう」
恐る恐る顔を上げて平手が応じると、備後守は、にやりと唇の端を吊り上げて、
「戦は他国に踏み込んでいたすものよ。されば田畑が荒れようが家が焼けようが、皆それは他国のこと。いかばかりかは手加減せねばならぬがの、いずれ我がものにいたそうと思えば」
「仰せの通りにて」
「しかしながら山城入道は、己が主筋の修理大夫様、美濃守様を相次ぎ放逐いたし、これを庇護申し上げた越前の朝倉、また我ら尾張に美濃へ攻め入る口実を与えてしもうた」
備後守は口髭を撫でる。
彼はもともと髭が薄く、それでも貫禄を出そうと、あれこれかたちを整えるうち、すっかり髭を撫でるのが癖になったのだ。
「軽き神輿じゃ。ありがたく担いでおくか、さもなくば庫の奥深くしまい込めばよいものを、わざわざ外へ放り出すから敵方に拾われる」
「大殿は三つもの神輿を軽々と担いでおられますからな。清須の武衛様に大和守様、岩倉の伊勢守様と」
平手が阿いてみせると、備後守は苦笑した。
「そのほうの追従も久方ぶりに聞いたわ」
織田備後守は、いまの尾張で最も威勢を誇る武将である。
だが建前として尾張一国の守護大名は『武衛家』と尊称される斯波家であり、その下に守護代の織田大和守がある。
また織田伊勢守は織田家の本家筋であり、もともと守護代は伊勢守の家系が継いでいた。
備後守は大和守の家系から分かれた庶流の血筋であり、守護代に仕える三奉行の一人という立場だ。
だから武衛家、大和守、伊勢守という三つの神輿を担いでいる。
そうしながら尾張一国の統治の実権は、しっかりと握っているのである。
一方の斎藤山城入道は、主君であった美濃守護、土岐美濃守や、その兄の修理大夫を追放した。
神輿の担ぎ手という立場に飽きたらなくなったのであろうが、その結果、美濃中が動揺することになったのだ。
備後守は言った。
「山城入道に娘がおる。修理大夫様の御子息、次郎様に一度は嫁がせた出戻りじゃが」
「毒飼されたと噂の、あの次郎様」
目を丸くしてみせる平手に、備後守は唇の端を吊り上げて、
「滅多なことを申すでない。山城入道殿はこれから我が姻戚となるのじゃ」
「これは口が滑り申した。されば山城入道様の御息女を、三郎様の御正室にお迎えしようと」
ようやく合点がいった。
平手が使者に任じられるわけである。
いまの平手の主人は三郎であり、その名代として美濃へ赴き、山城入道の娘との縁談を取り結ぼうということだ。
だが、備後守は言った。
にやりとまた人の悪い笑みを浮かべて。
「早合点いたすな。山城入道殿が姫を嫁に迎えるは、勘十郎じゃ」
「……は?」
平手は表情を凍りつかせる。
「いま一度、おたずね申し上げまする。山城入道様が御息女は、どなた様の御正室にお迎えいたしますので」
「我が子勘十郎、信勝じゃ」
「…………」
これは嬲りものにするつもりであろうかと思った。
三郎のこともそうであるが、いまの平手の頭の中は、まず自分のことだけでいっぱいだ。
勘十郎は、三郎の弟だ。当年で十三になる。
すでに元服はしたが、父の備後守とともに、いまもこの古渡城にある。
その嫁を迎えるための使者ならば、備後守の直属の家臣から選べばよい。
そうしないというのは、どういうことか。
「……恐れながら長幼の序と申すものがございます」
平手は声を振り絞った。
だが何を言っても備後守には通用しないことは、わかっていた。
家臣の言に耳を貸すことなど稀なのだ。
「御長子、三郎様が御正室をお迎えなさらぬまま、次子の勘十郎様の御縁談などは」
「だが、ことが成れば皆、得心いたすであろう。平手そのほうが使者を務めたことも含めてな」
備後守は立ち上がり、上段の間を下りて来た。
平手の間近でしゃがみ、手にした扇子で、ぴしりと肩を叩いてきた。
「縁談が成れば、そのほうの功績じゃ。長年干戈を交えた美濃と尾張が、これよりは手を携えて四囲の敵に対するのよ。いずれ勘十郎には良き城を与え、その折には平手そのほうが一のおとなぞ」
縁談が成立すれば、である。
だが、そうならなかったときは、どうなるか。
備後守が長子の三郎ではなく、次子の勘十郎の嫁に我が娘を望んだとあれば、山城入道は父子兄弟の不和の気配を察して、娘を差し出しての和睦には応じないかもしれない。
いやそうなるのが当然であろう。道三も強かな相手なのである。
たとえ道三が縁談に応じるとしても、必ず何らかの交換条件を出すだろう。
それを備後守が飲むかどうかは全く不透明だ。
そして主人の三郎ではなく、その弟の勘十郎のために働いた平手は、周囲から不忠の誹りを受けよう。
加えて美濃との和睦を望む者からもそうでない者からも、平手は憎しみを受けることになる。
平手の力不足で和議が成立しなかった。
あるいは美濃とは戦い続けるべきであるのに、平手が和議などと余計なことをしようとした。
使者を命じた備後守が、平手をかばうことは、あるはずがない。
和睦の失敗に伴う家中の失望は全て、平手が一身にかぶるのだ。
だからといって、使者の役目を辞することはできない。
少なくとも、いまこの場では。
「……恐れながら三郎様は、いかがなりましょうや」
身震いをしながら平手は、間近にある備後守の顔を見る。
備後守は、にやりと笑みを返した。
「あれは聡き奴よ。己が家来であるはずの平手中務が、弟勘十郎と、山城入道の姫との縁談を取り結ぶのじゃ。されば儂の意図するところを察するであろう」
「察した上で、手向かいなどなされましたときには」
「そうなったとして、誰があやつに同心いたすのじゃ」
備後守は立ち上がり、平手の顔を見下ろす。
「うつけに継がせれば家が滅ぶわ。それは家来どもとて承知しておろう。誰が三郎のためになど働こうか」
「では三郎様の御廃嫡を、大殿はお考えと」
念を押す平手に、備後守は眉をしかめる。
「くどいぞ」
「いえ間違いがあってはなりませぬことゆえ。されど三郎様御廃嫡と決しましたことを家中にお示しにならぬまま、美濃との縁談を進めようとなされるのは、いかなる御存念にございましょう」
「万が一にも三郎が抗い、我が兵を損ずることを避けるためよ。山城入道殿が勘十郎の舅と決まれば、もはや三郎など皆が見放すわ。いま側についておる近習、小姓どもとて逃げ出そう」
「美濃への遺恨を捨てられず和睦に得心できぬ者が、三郎様を担ぐやもしれませぬ」
「そこまで愚かしい者が家中におるなら、いっそこの機会に炙り出し、もろとも放逐してくれようぞ」
きっぱりと答える備後守に、平手は、深々と頭を下げた。
もはや覚悟を決めるしかなかった。
「……かしこまりました。では勘十郎様と美濃山城入道殿の御息女との縁談、それがしが御使者の役目、務めまする」