2 呪いの傷跡と、癒しの力
セチアが目を覚ますと、向かいの座席の上でキラが眠っている様子が視界に飛び込んできた。
身体を起こそうとして、セチアはノアールの膝を枕にしていることに気づく。筋肉質なはずの彼の脚は、案外柔らかくて寝心地がいい。まるで外の世界から守るように外套の中に囲われ、慈しむように頭に添えられた手はあたたかくて、このままもっと微睡んでいたくなる。
視線だけでそっと見上げると、ノアールも目を閉じて眠っているようだ。左の眉から頬にかけて走る傷は、目蓋を閉じているとその不吉な形がよく見える。呪いをかけられた、蠍の形をした傷。
聖獣であるキラの浄化の力で抑えられているものの、定期的に浄化をしなければノアールの身体は呪いに蝕まれてしまう。自分の持つ癒しの力では呪いに対処することができないのが、セチアは時々歯痒くて仕方なくなる。触れた相手に無条件に施してしまう癒しの力にはずっと悩まされているけれど、ノアールの呪いを癒せるのなら、それでも良いと思えるのに。
小さくため息を落とすと、それに反応したのか頭に添えられたノアールの手が小さく震えた。
ゆっくりと顔を上げると、こちらを見下ろす瞳と目が合った。左右で色の違う、感情の薄い瞳。だけど、セチアに向けられる視線は柔らかい。
「起きたか」
「ん。おはよう、ノアール」
さらりと髪を撫でる手のぬくもりに微笑みつつ、セチアは身体を起こした。
窓の外は、変わらず美しい星空。遠くでまたひとつ、流れ星が空を走って消えるのを見送って、セチアはノアールを見上げる。
「もう着く?」
「あと少しだな。次の駅で降りて、また情報収集をしよう」
うなずきながら、セチアは小さく伸びをする。向かいの座席で眠っていたキラも目を覚ましたのか、ケープの中に潜り込んできた。
垂れ流し状態の癒しの力を封印してくれるという蠍火の魔女を、セチアはずっと探している。同じく、呪いを解くために蠍火の魔女を探しているノアールと一緒に行動するようになってから、どれほどの月日が経っただろう。
自分のことはともかく、ノアールの呪いのことを考えれば、早く蠍火の魔女を見つけ出したい。だけど、それはこの旅の終わりを意味している。
この居心地の良い腕の中から出なければならない日が来ることを、セチアは少しだけ恐れている。
やがて、列車は少しずつスピードを緩めて駅へと到着する。ほの青いランプに照らされたホームには人気がなく、しんと静まりかえっている。
「誰もいないね」
大きな声を出すのも憚られて、セチアは囁くように言ってノアールを見上げた。
「遅い時間だからな。今夜はここで宿に泊まろう。朝になれば、もう少し人も増えるだろう」
そう言ってノアールがセチアの手からトランクを取ると、歩き出した。
ホームのタイルには、ところどころに青いガラスが埋め込まれていて、まるで星空の上を歩いているよう。ランプの光を受けてちらちらと輝くそのガラスを選んで踏みながら、セチアは踊るような足取りでノアールのあとをついていく。
「こんな時間に珍しい乗客だね」
ふとうしろから声をかけられて、二人は足を止めた。
誰もいなかったはずのホームのベンチに、一人の老婆が座っていた。セチアよりも更に小柄に見えるものの、存在に気づかず通り過ぎるはずがないのだけど。
「セチア」
老婆の視界から隠すように、ノアールがセチアの身体を自らのうしろにやると、警戒するように少し身構えた。
そんなノアールの様子を見て、老婆は大袈裟な仕草で驚いてみせる。
「おぉ怖い。そんなに警戒しなくても、取って喰いやしないよ。それにしてもあんた、何か厄介な呪いをかけられているねぇ」
枯れ枝のような指をノアールに向けて、老婆は唇を歪めて笑った。思わず左目を押さえたノアールの前に、老婆はゆっくりと歩いてきた。小柄で折れそうに細い身体なのに、びりびりとした緊張感が漂っていて、ノアールもセチアも動けない。
「どれ、見せてみな」
ノアールを見上げた老婆は、左目を隠す手を退けるように言う。そろそろと動かされた指の奥、あらわれた傷跡を老婆はじっと見つめる。
「――久しぶりに見たね」
「あんた、何者だ」
硬い声で問うノアールに、老婆は小さく肩をすくめた。
「単なる暇を持て余した年寄りだよ。だけどその呪い、随分と進みが遅いね。普通、一年と保たずに呪いが全身にまわって死ぬんだけど」
「……」
答えなくとも、ノアールがちらりと背後に視線をやったことに気づいたのだろう、老婆は興味深そうな表情でセチアを見る。
「おやおや、お嬢ちゃんも珍しい体質だね。ん、聖獣まで連れてるとは」
「あ、キラ!」
老婆の声に反応したのか、ケープの下からキラが飛び出してくる。警戒心の強いキラは、見ず知らずの人物に自ら近寄ることはないはずなのに、差し出された老婆の腕の上にちょこんと乗った。
「可愛い子だね。まだ子供だけど、おまえが呪いを浄化してやってるんだね?」
キラの頭を撫でながら、老婆が優しく語りかける。キュ!と得意げに鳴くキラを見て、ノアールとセチアも少し身体の力を抜いた。キラが懐く相手は、敵ではない。
「……貴女が、蠍火の魔女か」
恐る恐るといった様子で口を開いたノアールに、老婆は笑って首を振った。
「彼女に呪いを解いてもらうつもりかい?蠍火の魔女は強欲だよ。あんたは、何を対価に差し出せる?」
「……金なら、何とかする」
「命を救ってもらうんだ、簡単に用意できる金額じゃあないだろうね。それこそ、国がひとつ買えるくらいに」
「そんな」
言葉を失うノアールに、老婆は更に意地の悪い笑みを浮かべてセチアを指差した。
「例えば、お嬢ちゃんの命と引き換えに――なんて言われたら、どうする?」
「それなら、呪いを解く必要などない」
考える間もなく、はねつけるように答えたノアールに、老婆はくすくすと笑った。
「さて、蠍火の魔女は何を対価に求めるだろうね」
「もう一度聞くが、本当に貴女が蠍火の魔女ではないのか」
ノアールの言葉に、老婆は小さく笑うと唇に指を当て、キラの頭をそっと撫でた。
「蠍火の魔女の居場所は、この子が知っているよ。ただし、彼女の求める対価が何になるのか覚悟はしておいた方がいい。大切な何かを失うことになるかもしれないよ」
そう言って老婆はキラをセチアの手に返すと、くるりと背を向けた。一歩、また一歩と離れるたびにその姿は光に溶けて、数歩もいかないうちに見えなくなった。
「大切な、何か……」
キラを抱きしめながら、セチアは小さくつぶやく。
セチアにとって大切なものは、キラとノアール。そのどちらかを失うことなど、考えただけでも耐えられない。
もしもそんな対価を求められたなら、この力を封印してもらうのは諦めようと決めて、セチアはノアールをそっと見上げる。寡黙で、大きな身体に険しい顔をした彼が、本当はとても優しい人であることを、セチアはよく知っている。あの老婆が言ったように、もしも彼の呪いを解くための対価がセチアだとしたら、喜んで受け入れようと思う。ノアールには、呪いから解放されて幸せになってもらいたいから。
「蠍火の魔女の居場所、教えてね、キラ」
そっと囁くと、キラはそれに応えるようにセチアの頬に身体を擦り寄せた。