兄弟の絆
白く煙り立つ湯気からは仄かに硫黄の臭いが漂う。そんな中でもふたりの兄弟は仲睦まじく互いに相手の背中を流し合い、まるでそんな些細な仕草さえも愛おしく感じる様なひとときに酔いしれる。
それだけ離れて暮らした期間が長く、互いに辛く苦労した時間を埋める様に、互いを想い合う。そこには取ってつけた様な言葉など、些かも必要は無かった。しばらくはそんな静かな時が流れた。
そしておもむろに藤吉郎が口をついた。
「小一郎…お前、武士に成らんか?兄ちゃんを助けて欲しいんだ♪おいらは必ず出世する。自信があるんだ!でもな…信用出来る奴がおらん。それにおいらは織田家中ではまだまだ新参者だ…」
「…幸い信長様は信頼してくれておるが、皆冷ややかな目で見る者も多い。それは兄ちゃんが出来る男だからだ。おいらはな、小一部…これから大きな事をガンガンやる。その為にはひとりでは駄目なのだ。ひとりでやれる事なんて、高々知れている…」
「…おいらが知恵を絞り、その手足となってそれを体現してくれる者達が、ゆくゆくは必要になって来るのだ。お前にはそいつらをまとめて欲しい。おいらは何て言うか…」
「…目端は効くが、全体を満遍なく見渡すのが下手だからな!どうだい?考えてくれないか…」
藤吉郎は、話し始めると饒舌となって一気にまくし立てた。彼は一度こうと決めたら、相手の意志を余り気にしないところがあった。そこが他人と衝突する主な原因の一つなのだが、気に懸ける素振りも無い。要は強引なのだ。
それは彼の中で"自分が正しい"というある種、信念の様なものが確固として形成されていたからではあるまいか?それだけ自信があったという事なのだろう。
極論を言えばそれが本当に正しいかどうかなんて関係無いのだ。それが彼の行動原理であり、突き進むための推進力となって居たという事実こそが大切なのであった。
けれども、そんな彼でも躊躇し、打診するに留めたのは、相手が自分にとって大切な血を分けた兄弟だったからであろう。或いは長い間、音信不通となっていた弟に対する引け目を感じたからなのかも知れなかった。
小一郎は少しの間、揺蕩う湯に視線を落としていたが、不意に頭を上げると、じっと兄の眼を見つめた。
藤吉郎はまじまじと見つめる弟の視線に耐え切れず、目を逸らし、頬を朱色に染めて恥ずかしそうにもじもじさせた。強引さとは裏腹に、積極的に来られるのは苦手らしい。
「兄ちゃん…僕は母ちゃんに早く楽をさせてやりたいんだ。だから伊藤屋さんに奉公してる。丁稚から始めて、ようやく実を結んで来たばかりなんだ…」
「…ここで棒に振る訳にゃあいかないよ。御主人は理解のある方だし、下の者にも優しい。とても目をかけて下さるんだ。だから裏切る事は出来ないし、途中で放り出す訳にもいかないんだ。判ってくれるかい?」
聞いているうちに、今度は藤吉郎の方が腕を組んでうんうん唸っている。弟の言う事はいちいち利に叶っており、打開策を見出さなければ、これ以上の説得は難しそうだった。
こういう時の彼は一旦、退く。余程、頭に血が登らない限りはである。
この時の彼は湯船の中で、既に血の巡りが良くなり過ぎて、茹蛸の様であったから、最早、頭が廻っていなかった。よって反論は控え、ザバっという音と共に立ち上がり、フゥ〜と吐息をつくと「そろそろ出よう♡」と言った。
小一郎は結論が出ないまま、仕方なく兄に続いた。彼はとても常識のある人物で、場所やその時機を弁えた。それに彼の方にだって、再会した兄に対するある種の遠慮は存在したのである。
脱衣所で身体を拭きながら、藤吉郎はボソッと呟く。
「小一郎!判った…お前の好きにせい。だけど今回は伊藤屋の許可も得ているし、その利益にも成る筈だ。お前と一緒に仕事が出来る、せっかくの機会だからな!一緒に最後まで愉しくやろう。乗り掛かった船だし、お前は伊藤屋の利益の為に励むと良いぞ!」
藤吉郎は淡々とそう言い切ると弟に振り返る。
上手い事を言うものである。ここら辺りには、既に"人たらし"の由縁が見え隠れしていた。どうやらこれで時間稼ぎを計るつもりらしい。
彼の中では、『そのうち小一郎の考え方も変わるだろう』或いは『変えてみせる』という自信にも似たものが在ったのだろう。だから彼は、割と清々しい顔をしていたに違いない。
彼が時折り見せるこの理解のある態度は、相手を誤解させる。この時も小一郎は、『兄が判ってくれた』と想い込み、その表情に嬉しさを滲ませた。そして「ありがとう、兄ちゃん♪」と言った。
二人は互いが納得出来るこの結論に、晴れやかな気持ちとなって、その夜は良く寝むれたに違い在るまい。
さて、一方の長秀は吉右衛門の老獪さに、業を煮やしていたが、ようやく旨味のある取引と引き替えに、情報を半端強引に得る事が出来た。
藤吉郎はやはり信長様の指示のもと、単独で動いているらしい。彼の狙いはどうやら、三河の名主連中や商人達を上手く垂らし込み、こちらに都合良く踊らせる事の様だった。
実際、具体的にどうするのかまでは、吉右衛門も知らされていないと主張しているが、どうやらそれも少々疑わしい節はあった。なぜならば、彼も三河で影響力のある商人のうちの一人だからである。
『まぁ、良いわ!』
長秀は割り切った。別に敵の情報を入手する訳ではないのだ。味方として、藤吉郎が信長様の指示の許で活動しているのであれば、それで良い。
何も邪魔立てする必要もないし、そのままやらせる事だ。むしろ邪魔立てしようものなら、こちらの身が危うい。
『御館様のご機嫌を損ねる事は避けねばならぬ…』
長秀はそう決断すると、探るのはここまでと、追求を止めた。吉右衛門は心無しかホッとした様に見えた。
それが証拠に、長秀から開放されると、やおら元気になって、若い衆に葉っぱを掛けにとっとと行ってしまった。
長秀は苦笑いしながらも、『ちとつまらぬ情報と引き替えに取引を奮発してしまった…』と自嘲気味であった。
長秀が長々と振り返って来た回想もようやく後もうひと息である。彼は声が枯れて来ているのを如実に感じており、一旦、白湯をグイッと流し込むと、最後の仕上げに懸かった。
勝家は胡座を掻いて、最早苦虫を噛み潰した様な体裁である。流石に聞き疲れを感じていたのだろう。何しろ皆、引き上げた後で、彼らの他には誰も居らず、軍議場では時折、松明の火花が弾ける音がするのみであった。
「私の懸念はどうやら誤解で御座った。奴は裏切るでも無く、勝手気儘に動いている訳でも無かった。御館様の命令に沿い、その手足となって働いているようで御座る。そして、三河の有力者をどうも味方につけている節がある…私の調べた結果は以上ですな!」
長秀は勝家にそう述べると話しを終えた。
「ご苦労だったな…しかしそうなると、どういう事が考えられるのだ?結局、結論は?籠城か、降伏か、まぁそこまで手を伸ばしているとなると、降伏は無さそうだが…まさか奇襲?否、否、それは無かろう。幾ら御館様でもそれは無謀過ぎる…」
「確かに…」
勝家と長秀は互いに顔を見合わせるとゲラゲラ笑い始めた。そして結論の出ぬままに、彼ら二人も準備に引き上げたのだった。
こうして小田原評定となった軍議場は一旦、もぬけの殻となった。まさに『会議は踊る』と言うべきで在ろうか。皆、結果として信長様の指示を待つ事に相為ったのである。これはある意味、信長様にとっては既定路線…してやったりと言う所で在ろう。
さて、物のついでに最後、あの男の事に触れておこうと想う。男は二人の兄弟が引き上げた湯船の中からようやく立ち上がると、白い湯煙を掻き分ける様に洗い場に移動し、桶に汲んだ水を頭の上から想い切り被った。
『やれやれ…あの饒舌振りにはたまげたな!あの男、なかなかに面白い奴だわい♪これなら信玄入道も、久し振りに腹を抱えてお笑いになるに違いない。後はあの男の細工を利用して、信長という御仁がどう義元に立ち向かうのか…特等席でしかとこの眼に焼き付けるとしようか!』
この男…今は間諜がその任務である。しかもその口振りからみると、武田方の息が掛かっているのは疑いの余地が無い。しかしながら、「御館様」と呼ぶ替わりに、大胆にも「信玄入道」と呼び捨てにする所なんざは敵愾心に満ちている。
彼の名は信濃小次郎という。奥信濃にその勢力を張る豪族の長である。信濃地方は、既に武田家の手に堕ちているが、その存在が影に隠されたままに、そのお手伝いをしたのが、何を隠そうこの男なのだった。
信濃家はそれ以来、武田の息が掛かっている。但し、彼の瞳に映る先には、武田の存在など露ほども無いのだ。彼の野望には底が無い。けれども、それと同時に彼の代で成し得る事には、残念ながら限界がある事もきちんと承知していた。
『少々、湯船に浸かり過ぎたな…』
彼はそう想い辟易していたが、ふたりの兄弟の事を想い出し、自分の子等の事を頭に描いた。彼にも二人の男の子が居て、兄は弟を想い、弟は兄を慕っている。
彼らふたりがあの兄弟の様に協力しながら、自分の野望を完結してくれる事を、彼はとても愉しみに感じていたのだった。
【後書き】
致命的な勘違いをしておりました。申し訳在りません。【遠江】を【三河】に一括変換しました。
【筆者】