湯煙の中で
けっきょく、その夜は長秀本人も同じ宿に宿泊する嵌めに為ってしまった。二人の動向を探れる様に隣の部屋に泊まり、同じく食事を摂る。
此れは突然、巻かれて仕舞わない様にする為の用心でも在った。長秀は薄い壁に耳を充てると、ひたすら二人の様子を窺っていた。すると何気に空しくも感じて来た。
なぜ織田家の重臣たる自分が、こそこそと此処まで着いて来て、身内の動向を探らねば成らぬのか…そう考えれば馬鹿らしくも為って来る。
改めて自分の姿を観てみると、浴衣姿で宿の不衛生な破れた壁に耳を充て、じっと隣の部屋に聞き耳を立てているのだ。情けなくも成ろうというものだ。
しかしながら、事此処に到っては続けるほかに道は無い。そう自分を励ましながら、様子を窺い続けた。身体は一日中走り続けたからか、かなり疲弊しており、果たしていつまで持つかは運次第と言ったところである。
二人が早く寝てくれる事を切に願いながら壁に耳を充て続けた。すると二人の会話から、この後二人揃って風呂に行く事に為った様だった。
襖がガラッと開く音がして、二人は賑やかにお喋りをしながら湯に向かっている。
その後を少し離れて静かに追い、二人が脱衣所の中に消えた事を確認すると、長秀は一旦帳場まで戻って来て店の主人に面会を求めた。
「吉右衛門殿!お元気かな?儂じゃ、尾張の五郎左じゃ。」
宿屋の主人は中村吉右衛門という男で、尾張は中村郷の出身である。つまりは木下藤吉郎とは同郷に為る。
木下が信長様に拾われて、下積みを重ねて励み、足軽組頭に取り立てられたように、吉右衛門も近江商人にたまたま拾われた縁で、行商を手伝い、各地を歩きながら商売を学び、得意先のご主人にその才を見込まれて元手を出して貰った。
そうして始めた商売を大いに繁盛させて、現在は本業の利益で宿屋も手広く営んでいると言う訳である。
不思議な巡り合わせと思わぬでもないが、五郎左は吉右衛門を昔から知っており、藤吉郎がここ中村屋を宿に選んだ時から吉右衛門が一枚咬んでいると察したため、廻り諄い事はやめて、単刀直入に話を聞きに来たという訳だ。
ほんの一瞬だが、顔を合わせた途端、吉右衛門の顔色が変わったのを長秀は見逃さなかった。長秀の顔を見た吉右衛門は酷く嫌な顔をしたのに、次の瞬間には、何事も無かったかの様にニッコリ微笑む。
「これはこれは、丹波様お久しゅうござります♪」
彼は両手を揉みながら近寄って来る。伊達にこれまで辛酸を舐めて来てはいないと云うところであろう。
『さすがは百戦錬磨の商人…筋金入りだな!』
そう感じた長秀も気を引き締め直して、襟を正す。
「本当に御無沙汰しておりまして、相すみませぬ…」
吉右衛門は再会を懐しむかのように嬉しそうに答えた。余りにも溌剌な顔でこちらを見てくるため、長秀の方が少々押され気味になりそうである。
「それはお互い様じゃ♪昔は良く一緒に碁を打ったものじゃな…懐かしいのお♪」
そう相槌を打ちながら笑みを浮かべると、突如すまなそうに話を切り出した。
「実は相談したき儀が有り、尋ねてみたのじゃ…」
ーさて、場面は脱衣所に消えた二人に切り替わる。
藤吉郎と小一郎は久し振りの再会のひとときである。二人は疲れた身体を湯で温めながら、一日の汗を流していた。
小一郎は藤吉郎とは父親が違う。母・おなかが再婚した後に出来た子供なのだ。 藤吉郎は死別した父を忘れられず、義父との折り合いが悪かった。
それでも家計を支えるため、ひたすら我慢して働いていたが、ある時ついに張り詰めた糸が切れた。義父に啖呵を切ると、そのまま家を飛び出してしまったのである。
それから藤吉郎の放浪の旅が続くのであるが、紆余曲折を経て信長公に見出されるまでには長い年月が経ってしまっていた。小一郎にはつい最近に偶然再会したのだ
少し前から藤吉郎は、来たるべき日に向けた準備のため、信長様より内々に指示を受け東奔西走しており、その一環として伊藤屋に出入りするようになっていた。そこで住み込みで働いていた小一郎の方から突然声を掛けられた
「もしかしてお武家さん、日吉兄者か?」
声を掛けられた藤吉郎も咄嗟に驚きはしたものの、彼にもすぐ弟の小一郎が判ったので、ふたりは久し振りの再会を抱き合って喜び在ったという訳である。
藤吉郎は幼名を日吉と言った。
通説に依れば、藤吉郎がおなかのお腹にいる時に、彼女が太陽を抱く夢を見たから…そう言われているが、いつの時代も英雄と言われた偉人には、後で取って着けた様な逸話がおまけに付いて来るので、本当かどうかは定かでは無い。
本当の事を知っているのは、おなかだけと言う事に為るだろうか。藤吉郎は義父は嫌いだが、この弟の事はとても好いていて、よく面倒を見ていた。
それからは何かにつけて藤吉郎の方から気をかける様になり、こうして時たま武士としての立場を利用しては、小一郎を連れ出してやり、逢えなかった期間をまるで埋める様に、和気藹々と睦まじく共に過ごしていた。
今回の事でも、藤吉郎は真っ先に小一郎の事を思い浮かべた。彼にはそんなに信用の於ける小飼はいない。何故なら、それは彼が織田家中ではまだまだ新参者であったからだ。
こんな時に一番信用が出来るのは、やはり血を分けた兄弟だけなのである。藤吉郎が伊藤屋に無理を言って小一郎を借り受けたのはそう言う理由からで在ったのだ。
ふたりは一日の疲れを温泉で癒しながら、笑顔で語り合う。白い湯気に隠れて見えないが、そんなふたりの背後でのんびりと湯に浸かるひとりの男が居た。