猿面冠者かく語りき
於ねさんのご主人である木下藤吉郎殿は、織田上総介信長様に仕える足軽組頭である。
信長様というお人はとても変わった方で、若い頃から、かなり奇行な行動が目立ち、周りの者たちは誰しも溜め息を尽くと、『織田家も永く無い…』と諦めの空気が漂っていたらしい。
それにも拘わらず、信長様はそんな周りの評価など特に気にする事も無く、気の合いそうな家中の炙れ者の次男坊や三男坊に誘いを掛けては、遊び仲間に引き入れて、やがて愚連隊を組織すると、毎日の様に子分を従えて街中を闊歩していたそうである。
乱れた髪を荒々しく、後ろで縛り、破れた衣を平気でそのまま身に纏い、腰に飲み水が入った瓢箪をぶら下げて、手には必ず、梨や柿を持っては、それに齧り付きながら、白昼堂々と街中を練り歩く。
その見慣れた光景から、いつしか民の間では、『うつけ者』或いは『大うつけ』と噂する者もいたそうだ。
信長様は、幼名を吉法師と言ったが、やがて元服して三郎信長と称する頃には、段々とその頭角を表し始めた。
尾張守護代だった大和守家や伊勢守家を権謀術を駆使しながら、滅ぼしてしまう。更には信長様の代わりに、後継者と見られていた弟の信行様が反旗を翻すと、此れも裏を掻いて、騙し討ち同然に排除して仕舞われた。
恐らくは父・信秀様の急死と宿老であり、自分の良き理解者で在った平手政秀様の自害が、彼の性根を多少変化させたのかも知れなかった。
或いは、美濃の斎藤道三殿の娘・お濃様との婚姻が切っ掛けと為ったのか、それは信長様自身にしかわからぬ事で在ろう。
信長様は跡目を継ぐと、上総介信長と名乗る様に為る。そして自分が若い頃から育てて来た股肱の者たちを従えて、益々頭角を表す様に為ったのであった。
木下藤吉郎殿も、そんな信長様に拾われたひとりである。元々は尾張のどん百姓のはぐれ者で在ったが、強い気持ちと機転の効く姿勢が信長様に気に入られて、この頃にはお気に入りのひとりに成っていた。
生憎とまだ序列は下から数えた方が早いくらいの足軽組頭であるが、元々どん百姓の小倅で、只の放浪者だった事を想えば、異例の出世を果たして居たのだと言えよう。
信長様は、事、諜報に関しては、必ずこの藤吉郎殿を使い、陰ながら走らせては、情報を集めるという使いっ走りによく利用していたそうだ。
藤吉郎本人も特に嫌がるでも無く、ニコニコしながら、それを見事に果たして来る。こんな素直で生真面目な男だからこそ、かなり気に入っていたらしいのだ。
そしてこの度の戦をかなり前から、想定していた信長様は、密かにその藤吉郎殿を呼び、今川義元の軍を内々に探らせていたらしい。
いよいよ義元が立つとの情報がもたらされると、藤吉郎殿は、直ぐに子飼いの者共と遠江の国まで跳び、情報収集をする傍ら、部下を巧妙に義元軍に紛れ込ませる事に成功した。
その上で、行軍を追尾させながら、逐次、内部の部下と繋ぎをとり、情報を入手して、その都度、早馬を飛ばしては、信長様への報告を怠る事無くまめに行っていたそうだ。
そして長雨を嫌がった今川義元が、桶狭間でしばし休息を取る事が判るや、信長様に即時一報を入れさせると共に、自分は岡崎の街であらかじめ買収しておいた商人や、近隣から急ぎ呼び集めた名主らによく言い含めて、義元に酒と肴を持って挨拶に行く様に命じた。
案の定…突如、命じられた者共は恐怖に顔が引きつり、腰が引けていたが、藤吉郎殿は如何にも想定内という面持ちで皆に告げた。
「何を恐れる事がある。お主らは義元に媚びを売りに行くのじゃ。相手が恐しい、命の保証がいる、という今の面持ちのままで、腰が引けているくらいが調度良い…」
「…むしろ自信満々にやり過ぎると却って勘ぐられよう。そのままの気持ちで臨み、恐ければ正直に怖いと言えば良いのだ。相手はその方が信ずるで在ろうよ!」
そう言って安心させた。
その上でこう付け加えた。
「今ここで義元に媚びを売っておけば、お主らは義元が勝っても安泰よ。悪くなかろう?さらに信長様が勝利した暁には、お主らは勲功一等じゃて!わしからも良く言ってやるから、莫大な褒美は間違い無しじゃ…」
「…わしはこう見えて、物覚えは良い方でな!皆、顔は覚えたゆえ、今後何かあったらすぐわしに言ってこい。必ず力になってやるぞ!どうじゃやりたくなって来ただろう?」
そう言って皆の顔を見渡した。
安心させている様に見せながら、『顔は覚えた』とサラッと宣う。
此れは、ある意味『裏切ったら判っておるな!』と軽く脅されている様にも感じるのだから、聞いている方も堪らない。
どうせ事ここに到っては、最早やる他なく、商人も名主連中も仕方なく腹を決めた。
皆、藤吉郎殿の御膳建てに乗る事にしたのである。こうして準備を整えるや、商人と名主連中は義元の足止めに迎った。
彼らを見送ると、藤吉郎殿は現場に残す部下に二言三言指示を発するや、自らは信長様に直接報告を行うために、清州城へと馬を飛ばして戻ったのである。