7.狼侯爵の訪問
アルバートが訪ねて来たのは、スタイン伯爵家が求婚の手紙を受け取ってから7日後のことだった。
「まずは、このような場を設けくださったことに感謝いたします」
「いえ、こちらこそ、わざわざお越しいただきありがとうございます」
応接間で机を挟んでアルバートとジョセフが向かい合い、そばにフローリアとエミリアが同席している。ラルクは今日は外せない仕事のがあったのでこの場にはいないが、やはり気にはなるらしく、帰ってきたら今日の出来事を詳しく話すようにと念押しして出かけて行った。
自分が普段暮らしている空間にアルバートがいる違和感に軽いめまいを覚えながら、エミリアは父とアルバートのやりとりを見つめる。
「突然のお話で驚かせてしまい、申し訳ありません」
「いえ! 確かに驚きましたが、当家としてはとてもありがたいお話です」
侯爵でありながら伯爵家に対し真摯な態度で頭を下げたアルバートに少し驚きながらも、ジョセフは「ただ……」と言葉を続けた。
「エミリアに聞いたところ、閣下にこのようなお申し出をいただく心当たりが無いと言うものですから……。生みの親から見れば可愛い我が子ではありますが、いったい何が閣下のお眼鏡に適ったのかと私たちも当人であるエミリアも疑問に思っておりまして……」
「先日の夜会でエミリア嬢と過ごした時間は、私にとって忘れられない時間でした。お恥ずかしながら、私は結婚というものに対して期待をしてませんでした。しかし彼女と話して、エミリア嬢とであれば幸せな結婚ができると思ったのです」
娘を心配するジョセフの疑問に、アルバートは優しく微笑みを浮かべて答えた。
そして、その後に続いた言葉はエミリアの予想をはるかに超えたものだった。
「それに、実は彼女と会話をしたのは昨日が初めてではありません」
「え!?」
「残念ながら、彼女は覚えていないようですが……」
全く覚えのない言葉に驚いて声を上げてしまったエミリアを、眉尻を下げ、悲しげに見つめるアルバート。
まるで捨てられた犬のごとく今にも垂れた耳と尻尾が見えそうなその姿に、エミリアは顔を引きつらせる。
(ず、ずるい……! 覚えてない私が悪いみたいじゃない! 嘘なのに! 嘘なのに!!)
アルバートと会話を交わしたのは、先日の夜会が初めてだ。それ以前は、一方的にエミリアがアルバートを見つめていただけで、目があったことすらない。先日の夜会での会話だって、結婚を意識するような内容は一切なかったはずだ。
ジョセフはアルバートに同情するような表情を浮かべた後、エミリアに対し「お前、覚えてないなんてそれはあんまりじゃないか?」とでも言いたげな視線を向けてきたが、完全な濡れ衣である。
助けを求めてフローリアを見れば、彼女はキラキラした目でエミリアを見つめ返すとにっこりと微笑んで頷いた。
(あ、これはだめだ)
アルバートが両親を味方につけてしまったことを悟り、エミリアは軽く絶望した。
たしかに、先日スカーレットが言ったように両親はエミリアを大事にしてくれているし、エミリアのことを傷つける相手からエミリアを守ろうとはしてくれるだろう。しかし、根本的に彼らはお人好しなのだ。現に、今もあっさりアルバートの嘘を信じてしまったようだった。
エミリアの両親という味方を得たアルバートは、さらに畳み掛けるように訴えかけた。
「なので、まずはエミリア嬢に私のことを知ってもらい、その上で私を選んでもらえればと思っています」
「娘の気持ちを尊重して下さり、ありがとうございます。人柄もよく、騎士としてもとても優秀だと閣下の評判は聞き及んでおります。私たちとしては、エミリアさえよければお断りする理由はありません」
「それを聞いて安心しました。エミリア嬢、どうか私にチャンスを頂けないだろうか?」
そういって、アルバートはエミリアに目線を合わせた。黒い瞳に見つめられ、心臓がバクバクと音を立て始める。
(やっぱりずるい……)
先ほどからアルバートが並べ立てている理由はエミリアにとって心当たりのないことばかりだ。
それでも、好きな人にこんな風に求められて、なんとも思わずにいられるほど男慣れはしていない。
せめてものプライドで平静を装いながら、エミリアは頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
応接間を離れ、エミリアはアルバートと連れ立って庭園を歩いていた。ジョセフに「せっかく来ていただいたんだから、お話ししながらご案内して差し上げなさい」と勧められたからだ。
「いい庭園だな」
季節はちょうど春を迎え、多くの花が庭園を彩っていた。それらを眺めながらアルバートが独り言のように呟く。
そして、周囲をさっと確認し、声が届く範囲に誰もいないことを確認するとエミリアと真正面から向き合った。
「怒ってる?」
ストレートに問われ、エミリアは言葉に詰まった。色々と考えすぎて、アルバートにどう接したらいいかわからず、ここまで無言で歩いてきてしまったからだ。
「怒っている……というより、戸惑っています。どうしてあんな嘘をつかれたのですか」
「嘘とは?」
「夜会での会話で結婚を意識した……とか、その前に会話をしたことがある……とか。私、閣下とはそんな会話をした覚えもありませんし、話したのはあの夜会が初めてです!」
こんな風に真正面から相手の嘘を問い詰めるのはどうかとも思ったが、言わずにはいられなかった。
どんな答えが返ってくるのかとアルバートを見つめていると彼の口から出たのは、エミリアの予想斜め上をいく言葉だった。
「アルバート」
「え?」
「そう名前で読んでくれたら、君が疑問に思っていることに答えられる範囲で答えてあげよう」
それは裏を返せば、エミリアがアルバートを「ロペス侯爵」や「閣下」と呼んでいるうちは、彼は何も教えてくれないということだ。
エミリアは何か反論しようと口を開きかけたが、夜会の時と同じように結局何も言えずに唇を噛んだ。
(名前で呼ぶだけ……それだけよ……!!)
このままでは話が進まない。意を決してエミリアはその名を口にした。
「アルバート……さま」
「うん」
名前を呼んだ瞬間、にっこりとアルバートが笑った。まるで心の底から嬉しそうなその表情にエミリアの心臓が跳ねる。不覚にもときめいてしまった自分を必死に表に出さないように取り繕いながら、エミリアは話を戻した。
「私、アルバート様が父に申し上げたことに覚えはありません」
「事実だよ」
「え?」
「あの夜、君との結婚を意識したし、それ以前に話したこともある。君に自覚がないだけだ。伯爵に伝えたことは嘘じゃない」
アルバートの言葉にエミリアは混乱する。何度昨夜のことを思い返しても結婚を意識する理由がわからないし、なによりそれ以前にアルバートと会話した記憶は一切ない。エミリアが社交界にデビューしたときから、狼侯爵であるアルバートのことは気にしていた。最初は単純な興味で、好きになってしまったのはもっと後だが、あれほど気にしていた相手と会話をして覚えていないなんてこと、あるはずがない。
アルバートは静かな目でエミリアを見ていた。その目を見てこの件についてアルバートが意見を覆す気がないことを悟ったエミリアは、切り口を変えることにした。
「アルバート様は、あの夜私が狼男を見たと思っていらっしゃるんでしょう? 嘘をついているのは襲撃してきた男たちではなく私の方だと」
「それは否定しないよ」
「もし……もし万が一アルバート様の思っていたことが真実だとしたら、どうするおつもりですか?」
口にしてしまってから、踏み込み過ぎたかもしれないとエミリアは冷や汗をかいた。どうやら、自分はそうとうこの状況に動揺しているらしい。しかし、そんなエミリアの動揺をよそに、アルバートは涼しい顔で答えた。
「別にどうもしない」
事も無げに返され、エミリアは思わずぽかんと口を開けて固まってしまう。
「君に話してもらわなくても、もう知っているから」
「え?」
「だから安心していい。知りたかったのは別のことだから」
わけがわからず、エミリアの頭の中を疑問符が支配する。
「知っているとは?」「 誰か他にあの現場を見ていた人がいたのか?」と様々な疑問が渦巻いたが、それらすべてを飲み込んで、エミリアは大きく息を吐いた。
「意味がわかりません」
「わからなくていい。今はね」
アルバートの意図がわからず、途方にくれる。がっくりと肩を落としたエミリアに、アルバートはいたずらっぽく告げた。
「今すぐ婚約すれば教えてあげるけど」
「そ、それは無理です!」
「残念。じゃあ教えてあげない」
ケラケラと笑うアルバートは、なぜかわからないがひどく機嫌が良さそうだ。
伯爵家の娘として、侯爵である彼が怒ってはいないという事実に胸をなでおろす。
遠くの方で侍女がこちらを伺っている姿が目に入った。
どうやらアルバートも彼女に気づいたようで、「そろそろ戻ろうか」と、来た道を戻るためにエミリアに背を向ける。
「今は教えられないけど、君が色々調べて知ろうとするのを俺は止めない」
「え?」
「突き止めてみせてよ。狼侯爵がなぜ君に求婚したのか。君に何を隠しているのか」
顔だけで振り向いてシニカルな笑みを浮かべると、アルバートは歩き始めた。
呆気にとられ、その背中を見ていたエミリアだったが、はっと我に返ると猛然と考えを巡らせる。
(つまり、知りたいなら彼と婚約するか、自力で調べて突きとめろってこと?)
アルバートが本気かどうかはわからないが、好意を持っているとは言え明らかに怪しい秘密を持っている相手と婚約だなんでリスクが高すぎる。つまり、自力で突き止めるしか、エミリアには方法がない。
(が、頑張らなくちゃ……)
この短い時間で、アルバートの方が何枚も上手であることを思い知らされたエミリアは、ひとまずスカーレットに今日の出来事を報告することを決め、先を行くアルバートの背中を追ったのだった。
この話の執筆に合わせて、5話のアルバートの口調を修正しました。




