4.再び助けられた令嬢
突如現れた狼男の背中を、エミリアは呆然と見つめていた。
(まさか……そんな……)
目の前の光景が信じられず、瞬きを繰り返す。
そんなエミリアに背を向けたまま、狼男は襲撃者の男たちの方へ一歩踏み出した。
以前の時と同じような光景に息をのむ。しかし以前と決定的に違うのは、相対する男たちの様子だった。
「まただ……またあり得ないもんが見えやがる」
「ふざけんな! 消えろ! 消えろ! 消えろ!!!!」
「薬だ! 薬さえあればこんなもん見えなくなるに違いねぇ!」
「もう嫌だ……もうこんなん耐えられねぇよ!!」
喚き散らす男たちの様子に、エミリアの背を冷や汗が伝った。薬の症状はだいぶ進行しており、どうやら幻覚の症状も出ているようだ。目の前にいる狼男のこともその一種だと思っているのか、血走った目で罵声を浴びせている。
そのうちにヒートアップしてきたのか、一人の男が声をあげながら切りかかったのを皮切りに、全員がナイフを手に狼男に殺到する。相手の数は4人。まずは1人目のナイフを交わすと、相手の胸ぐらを掴み放り投げた。投げられた男は壁に衝突し、地面に倒れ臥すとぐったりと動かなくなった。
次いで切りかかってきた2人目をいなすと3人目の腕を掴み、いざ襲いかからんとしている4人目に向かって投げつける。結果、2人目は攻撃を受け流された勢いで転び、3人目と4人目は重なり合って地面に倒れこんだ。
(手加減しているの……?)
狼男の様子を見ていたエミリアが感じたのは、以前との違いだった。
以前遭遇した時は、もっと容赦無く爪や牙を振るって、相手を出血させていたように思う。以前遭遇した狼男と同じ個体なのかはどうかはわからないが、今回は相手に致命傷を負わせないように気をつけているように、エミリアの目には映った。
「うあああああああ!!」
体制を立て直した男たちが再び斬りかかる。今度は切りかかってきた2人目の攻撃を避け、胴を薙ぎ払うと3人目の腕を掴み捻りあげる。男の腕を掴んだまま4人目の攻撃を体をそらして避けると、空いていた方の手で胸ぐらを掴み上げ、1人目と同じように壁に向かって放り投げた。その瞬間━━━。
「危ないっ!!」
エミリアが叫ぶと同時に、体制を立て直した2人目の男が振りかぶったナイフが、3人目の男の腕を掴む狼男の腕を切り裂いた。狼は苛立ったように咆哮すると、3人目を地面に叩きつけ、自分を傷つけた2人目の男の腹部に拳をめり込ませた。
うめき声をあげて、2人目の男も地面へと沈む。4人全員が意識を失い、あたりは静寂を取り戻した。
エミリアはゴクリと息を飲む。この場に残る意識のある人間は自分1人だけだ。狼男がどういうつもりでこの場に現れたのかはわからないが、11年前と同じように今回もエミリアが害されないという保証はない。
しかし、エミリアの心配をよそに、狼男はエミリアを一瞥することもなく、背を向けたまま歩き出した。
ポタリ、と狼の腕が滴り落ちた血が、地面に赤い染みを作る。
「ま、待ってください!!」
反射的に呼び止めていた。狼男の耳がピクリと動き、歩みを止める。震える足を叱咤して駆け寄ると、エミリアは自分の懐からハンカチを取り出した。
「血が出ています。気休めかもしれませんけど……!」
そう言って、出血している部分にハンカチを巻きつける。言葉が通じるのかはわからないが、意図は通じたらしく狼男はエミリアを拒否することはなかった。幸い傷はそれほど深くなさそうで、そのことに安堵しながら自分の頭よりも高い位置にある傷口に慣れない手つきでハンカチを結び終えると、金色の瞳と目が合った。
(きれいな色……)
まるで夜空に浮かぶ満月のような瞳に、状況も忘れエミリアは見入った。温かみを感じる金色に、不思議と恐怖心はなくなっていた。狼男の方も、じっとエミリアを見ていた。
そのまましばし見つめあっていたが、ふと聞こえてきた喧騒に、狼男の方が先に視線を逸らした。
どうやら誰かが人を呼んだようで、「こっちだ!」「急げ! 女性が襲われているそうだ」という男たちの声が聞こえる。
再び背を向けてこの場を去ろうとする狼男に、エミリアは声をかけた。
━━━━━11年前は伝えられなかった言葉を伝えるために。
「あの……助けて下さって、ありがとうございました!」
振り向いた狼は、エミリアの言葉に「わかった」とでも言うように瞬きをすると、跳躍し、瞬く間に夜の闇へと消えていった。
狼男を見送った後の時間は、嵐のように過ぎていった。
駆けつけ、倒れ伏した男たちの中で1人佇む令嬢の姿に自体が掴めず困惑する自警団に、エミリアは「通りすがりの旅人が助けてくれた」と嘘の説明をした。
狼男がいくら善良でも、それをこの街に住む人々が受け入れられるかといえば難しい問題だろう。下手に真実を言って『狼男狩り』などされては堪らない。
エミリアから事情を聞いた自警団の兵士は怪訝そうな顔をしたものの、そのほかに説明がつかないと納得したのか、それ以上追及されることはなかった。目を覚ました男たちがどう証言するかが心配だったが、薬の所為で幻覚を見たのだと判断されることを願うばかりだ。
自警団に連れられて馬車のところまで戻ると、護衛と御者が心底ほっとした表情を浮かべた。馬たちはエミリアの指示通り馬車から離れたところにつながれており、馬車の火も消火されていた。話を聞くと、護衛は一度だけ蹴られたものの大きな怪我は無いとわかり、エミリアも胸を撫でおろす。
護衛が応戦していた男たちは、縛られて地面に座らされていた。こちらは意識はあるものの、やはり薬を服用しているのか今はぼんやりと中空を見つめていた。
「馬車はこの状態では使えないと思いますので、ご自宅までお送りします」
「お手数をおかけして申し訳ありません。よろしくお願いします」
自警団の申し出をありがたく受け自宅に戻ると、待っていたのは血相を変えた両親と兄からの質問攻めだ。
どう話すか悩んだ結果、自警団にしたものと同じ説明を繰り返し、心身の疲れを理由に早々に自室に下がらせてもらった。
翌日、エミリアを待っていたのはすさまじい筋肉痛だった。思い返せば、大人になってから走った記憶など全くない。自分の運動不足を痛感し、エミリアはそっと、今後は少し身体を動かす時間を作ろうと誓った。ただ、予定していた夜会は体調不良を理由に欠席できたので、エミリアにとっては怪我の功名だった。
夜会の帰りに襲われてから15日ほどたった日の夜、エミリアは事件後初の夜会の場に足を運んでいた。
エミリアの名前こそ伏せられているものの、あの一件はどうやらセンセーショナルな話題として社交界を駆け巡ったらしい。令嬢が身代金目当てに一般市民に襲われた事件と共に、「吸血鬼の涙」という薬の名前も今までその存在を知らなかった貴族たちの耳に入ったようで、今はその話題で持ちきりだ。
「とんだ災難だったわね」
会場のそこかしこで交わされる会話に眉をひそめながら呟いたのは、エミリアの友人のスカーレットだ。
結局あの事件の後、エミリアは翌日だけではなくいくつかの夜会を欠席した。そのうちひとつにはスカーレットとともに参加する約束を交わしていたので、欠席するにあたり彼女には狼男のことを除いて事件に関しては説明したのだ。事情を知っているスカーレットには、当事者がそばにいるとも知らずに噂をする人々の姿が不愉快に感じられたようで、そんな友人の感覚を好ましく思いながら、エミリアは苦笑した。
「まぁ、怪我もなかったからよかったわ。私だとはバレてないから、今後もバレないことを祈るばかりよ」
「本当ね。私としても、本人に非がないことであなたが名指しであれこれ言われるのは見たくないわ」
エミリアとスカーレットは、社交界でデビューしてから夜会で何度か顔をあわせるうちに意気投合した同い年の友人だ。一昨年、伯爵位を持つ家の跡取りの男性と結婚し、結婚相手を探すためではなく次期伯爵夫人として夜会に顔を出すようになったスカーレットだったが、人付き合いが苦手なエミリアを慮って、同じ夜会に参加する際はこうして一緒に行動してくれる。エミリアにとってはとてもありがたい存在だった。
「それにしてもあなた、思ったより平気そうね」
「そう?」
「そうよ。怪我がなかったとはいえ、怖い思いをしたんだもの。こんなに早く夜会に復帰できるなんて思ってなかったわ」
スカーレットの指摘に、エミリアは「たしかに」と心の中で呟いた。事件の後夜会を欠席したことで、エミリアが被害者であると推測されてしまうのではと危惧したが、そうはならなかった。おそらくスカーレット以外の人々も、誘拐未遂にあった令嬢がこんなに早く社交界に復帰するとは思っていなかったからだろう。季節の変わり目で体調を崩しやすい時期もであることも幸いし、エミリアの欠席は単なる風邪だと思われている。
誘拐されかけたことはもちろん恐ろしかったが、狼男に再び遭遇することが出来たので、今回の事件はエミリアにとって悪いことばかりというわけではなかった。しかしそんな事情をスカーレットに話すわけにもいかず、誤魔化すようにエミリアは微笑んだ。
その時、会場の空気が少し変化した。周りの令嬢が視線を向ける先を見ると、黒髪の青年━━━━アルバートが会場に入場してくるところだった。
いつもならば、アルバートが夜会に現ればその姿をチラチラと気にするのがエミリアの常だったが、今日は違う。
今のエミリアの頭の中は、先日遭遇した狼男のことでいっぱいだ。
(狼男が現れたのは縁が深いと言われているロペス侯爵領だったからだと思っていたけど、今回は王都。もしかしたら1回目はたまたまあの場所だっただけで、今のロペス侯爵家と狼男は全く関係ないのかもしれないわ……)
(そもそも1回目の狼男と2回目の狼男は同じなのかしら?)
(違うとしたら、いったいどのくらいこの国には狼男がいるの? 他の国にもいるのかしら……)
思考の海に沈むエミリアの腕をスカーレットがつついた。
「ねぇ」
「なに?」
「ロペス侯爵と何かあった?」
「何もないわよ。なんで?」
「彼、あなたを見てる。まっすぐこっちに来てるわ」
「え!?」
慌てて先ほどアルバートの姿を見た方向をみると、遠くにいたはずのアルバートが、なんとあと数歩の距離まで接近していた。バチリと視線が合ってしまい、エミリアは硬直する。
(なんで!? なんでなんでなんで!?)
混乱するエミリアの気持ちを知ってか知らずか、エミリアたちのすぐそばまでやって来たアルバートは整った顔ににっこりと友好的な笑みを浮かべてこう言った。
「こんばんは、美しいレディたち。あなたたちの輪に、私が加わっても構わないでしょうか?」
やっとヒーロー喋りました。
ここからやっと2人が関わり始めます。