3.狼男、再び
エミリアが兄のラルク・スタインの様子がいつもと違うことに気づいたのは、春の始まりを知らせる花が咲き始めたころのことだった。
今日と明日、2日連続で夜会に出席しなければならないため、昨日の夜のうちからそのことで頭がいっぱいだったエミリアだが、廊下ですれ違った兄がいつになく難しい顔をしていることに気がついた。
ちなみに父は仕事で王宮に出向いており、母は日頃からお世話になっている侯爵家に呼ばれて外出しているので、この家には兄とエミリアと使用人しかいない。
「お兄様、どうなさったのですか?」
「いや、ちょっとね……」
問いかけたエミリアに、エミリアとは違うハニーブラウンの髪を持つラルクは、その優しげな顔立ちに少し困ったような笑みを浮かべた。
「どうやら最近、タチの悪い薬が出回っているみたいなんだ」
「薬……ですか?」
「あぁ、王国内で出回っているらしくて、昨日、うちの領地でも中毒者が出たと報告があった。父さんもそのことで今日は呼ばれたみたいだよ」
ラルクの言葉に、父も今日は出かける前に先ほどのラルクと同じように難しい顔をしていたことを思い出す。
自分の領地の民が関係しているとなれば頭を悩ませるのもわかるが、エミリアの頭に浮かんだのは一つの疑問だった。
「でも、今までも薬は出回っていたでしょう? その『タチの悪い薬』とやらは、何が違うのですか?」
イーリス王国は平和な国だが、それでも少量とはいえ中毒症状を起こす薬は出回っている。取り締まる法律もあるのだが、それでも非合法の薬の取引をゼロにできないのが現状だった。
多くはないが、過去にスタイン侯爵領でも薬の使用者が捕まったことはある。しかしわざわざ王宮から呼び出されるなど、エミリアの記憶にある限り初めてだ。
「今回出回ってる薬は、今までの薬よりも中毒性が高いから危険視されているようだね。今までの薬は回を重ねるごとに中毒の症状が進んで深みにはまっていくけれど、今回の薬はたった一度でも摂取すればもう次を求めずにはいられなくなる。あっという間に廃人になってしまうんだ」
「まぁ、そんな……」
顔を曇らせたエミリアに、畳み掛けるようにラルクは言葉を重ねる。
「そして、何より問題だと思われているのが、『薬の原料がわからない』ことだ」
「今までの薬とは違う原料で作られているということですか?」
「そうみたいだね。運良く未使用の薬を所持していた使用者を捕らえた際に、押収して王立研究所の学者たちに調べてもらったみたいだけど、全く分からなかったそうだ」
たしかにそれは得体が知れず、気味が悪い。
「薬は赤い色の液体で、瓶に入れられて売られているらしい。その見た目からこう呼ばれているそうだ━━━━『吸血鬼の涙』と」
まるでおとぎ話に出てくるような名前に、思わずエミリアは眉をひそめる。
「なぜ吸血鬼なのですか?」
「使用した者が、陽の光を異様に眩しがるそうだ。」
「それは……たしかに」
言い伝えに出てくる、陽の光を苦手とする吸血鬼の特徴と一致する。そして、今まで流通していた薬では聞いたことのない症状だ。
出始めたばかりの薬ということで、おそらくまだどのような症状が出るのか、王国も把握しきれていないのだろう。事態を把握するために、感染者の症例や入手ルートの情報を集めている段階なのだろうとエミリアは推測した。
「今のところ使用しているのは一般市民だけで、貴族間での使用者は見つかっていないそうだが、気をつけるに越したことはない。エミリアはしっかりしているからあまり心配はしていないけど、夜会の会場で変な誘いに乗らないように気をつけるんだよ」
「わかったわ、お兄様」
特定の相手がおらず、夜会の会場で1人になる機会の多い令嬢は、確かにターゲットにしやすい存在だろう。自分がその令嬢に当てはまることを自覚したエミリアは、安心させるためにもしっかりと兄の目を見て頷いた。
妹が頷くのを見たラルフは「じゃあね」と、その場を立ち去った。
その背中を見送りながら、エミリアは兄の話を頭の中で反芻する。
(吸血鬼の涙……か。狼男がいるなら、吸血鬼もいるのかもしれないわね)
ふとそんな考えが頭をよぎり、自分の思考に苦笑いする。
狼男と違い、吸血鬼が好むのは伝説通りであれば処女の生き血だ。狼男は人間に害を与えずに生きられるかも知れないが、吸血鬼はそうはいかない。実在しているのであれば、どこかで騒ぎになるはずだ。
そして、もし万が一吸血鬼が存在したとしても、人間の間に流通する非合法の薬などというものに関わりがあるはずもない。
思考を切り替えて、夜の夜会の準備に取り掛かるため、エミリアは自室へと急いだ。
夜会からの帰り道、エミリアは馬車の中で一人、ため息を吐いた。
(変な誘い……どころか普通の誘いすらないわよ)
今日も今日とて収穫はゼロ。一体どうしたらいいのかと遠い目をしたとき、外で騒がしい音がしたと同時に、ガタンと派手な音を立て、馬車が止まった。
「お嬢様! 馬車から出ないでください!!」
何が起きたのかと身構えたエミリアの耳に届いたのは、切羽詰まった護衛の声。次いで、男たちの怒声とガチャンという鉄と鉄がぶつかり合う音。
覚えのあるその喧騒に、ひやりと冷たいものが背筋を走る。思い出すのは11年前、物取りに襲われた時の記憶だった。
王都は基本的に安全だ。そのため、今日の夜会には護衛を一人しか連れていかなかった。御者もいるが彼に剣の心得はない。聞こえてくる音から推察するに襲撃者は複数人いて、護衛が一人で応戦せざるを得ない状況になっているようだ。
だが、エミリアが外に出て行ったところで加勢などできるはずもない。戦う力を持たない一令嬢ができるのは、護衛の足を引っ張らないように指示通りに馬車の中でじっとしていることだ。そのことを、エミリアは11年前の出来事から嫌というほど学んでいる。
じっと息を殺し、外の音に耳をそばだてていたエミリアだったが、ドスッという音と共に衝撃に襲われ、思わず悲鳴を上げて馬車の壁にしがみついた。馬の嘶く音があたりに響き渡る。
体制を立て直し、音のしたあたりを見て内部には被害が及んでいないことにほっとしたエミリアだったが、すぐにそうではなかったことに気が付いた。
(嘘でしょ!? こんな街中で火をつけるなんて!)
エミリアが座っている位置の向かいの天井付近の木の板、なんともないと思えたその場所が次第にメラメラと燃え始めたのだ。
火が燃え広がれば、被害はエミリアたちだけでは済まない。最悪の未来を想像して青ざめたエミリアだが、慌てて外へ飛び出した。火をつけられた以上、護衛の言う通り馬車の中に留まっているわけにもいかない。
「出てきたぞ! 捕まえろ!!」
エミリアの姿を見つけた襲撃者の怒声が響く。
馬車の近くでオロオロとしている御者に「馬を馬車から離して!」と言い放つとエミリアは走り出した。
何人かの男たちが後を追ってくる。11年前のように、自分をの姿を隠してくれる森の木々はない。襲撃者が何者かはわからないが、貴族の令嬢であるエミリアよりこのあたりの道に詳しいのは確かだろう。逃げきれるはずがないと弱気になる自分の心を叱咤して、必死に足を動かす。
「逃げるんじゃねぇ!! 大人しく捕まれ!!」
「お前さえ! お前さえいれば薬を買う金が手に入るんだ!!」
男の言葉によぎるのは、日中に兄から聞いた薬の名前だ。
(吸血鬼の涙……!!)
今エミリアを追っている彼らがその使用者だとしたらマズイ。兄から聞いた話通りの強力な薬なら、もう正常な判断力を失っているに違いない。追われている今も相手がどんな行動をとるかわからないし、そんな男たちに囚われれば、たとえ両親が相手の言う通りに身代金を支払ったとしても無事で済むとは到底思えなかった。
しかし、最悪なことに始まったばかりの逃走劇はすぐに終わりを迎えることになる。
男たちを撒こうと路地に入ったエミリアだったが、道を曲がった瞬間にその判断が間違っていたと気付いた。
(行き止まり……!!)
絶望するエミリアの後ろから複数の足音が近づいてくる。
振り返ったエミリアは追ってきた男たちと対面することになった。
「残念だったなぁ、お嬢様」
「なーに。おとなしく捕まってくれりゃ痛い目にはあわせねぇよ」
「そうだ。俺たちはお前のパパとママからお金さえもらえりゃいいんだからな」
そう言いながら男たちはジリジリと距離を詰めてくる。少しでも距離を取ろうと後ずさったエミリアだったが、すぐに塀に阻まれ、逃げ場を失ってしまった。
男たちとの距離は後数メートル。下卑た笑みを浮かべる男たちの背後に見える空には、今の状況に不釣り合いな美しい満月が輝いていた。
(あぁ、あの時もそういえば、満月の夜だったわ)
場違いにもそうエミリアが思った時、ドスンと言う音と共に、突如視界が大きな影に遮られた。
エミリアの目が驚愕で見開かれる。
そこにいたのは、10歳のときにエミリアが見たのと同じ姿の━━━━━━━狼男だった。
プロローグに満月の夜の出来事であることがわかる一文を追加しました。(1月19日)