2.オオカミに助けられた令嬢
エミリアのオオカミ好きは、彼女が10歳の時の出来事に起因する。
社交シーズンを終え、王都から領地へ帰る途中、馬を休ませるために馬車を止めた街道の途中で、エミリアの一家は物取りに襲われた。
連れていた護衛が応戦したものの、相手の数が多く、父と兄も剣を抜いて馬車の外に出た。母は体調を崩して王都に残っていたため同乗しておらず、1人残されたエミリアは馬車を襲った大きな揺れに驚き外に出てしまい、結果的に物取りに追われて森に逃げ込む羽目になった。
森の中で逃げ惑うエミリアを救ったのは、『狼男と月の女神』に登場する狼男のような生き物だったのだ。
途中で意識を失ってしまったエミリアには、結局あの生き物がなんだったのかわからない。彼女にわかるのは、自分を襲った男たちをその生き物が退治してくれたことと、その生き物にはエミリアを害する意思はなかったということだけ。もしそうでなければエミリアなど、あの状況では一番に害されていたに違いない。
意識を失ったエミリアを発見した騎士曰く、彼女は森の入り口の木に背中を預けており、森の奥ではエミリアを追いかけた男たちが倒れていたそうだ。
状況的にあの狼男のような生き物が助けてくれたのだとしか思えず、それ以来、オオカミはエミリアの中でヒーローになっている。
当時、家族は意識を取り戻したエミリアの話に困惑した。
それはそうだ。狼男が実在するなど信じられるはずもない。
しかし、唯一祖母だけがエミリアの話を聞いてにっこりと笑いながら頷いてくれたのだ。
『そうかい。丁度襲われたのはロペス侯爵領だし、そういうこともあるかもしれないね。命は助かったし、狼男様には出会えたし、滅多にできない体験ができてよかったじゃないか。もし次会うことがあったら、ちゃんとお礼を言うんだよ』
チャーミングにウインクを決めて見せた祖母の言葉に、一緒にいた他の家族も笑った。『次』などあるはずもないと、皆そう思っていたからだ。
今日もエミリアは夜会に出席していた。
果実酒を口に運びながら、チラリと視線を向けた先には、健康的に焼けた肌に黒い髪、黒い瞳を持つ一人の青年がいて、楽しそうに友人と談笑していた。
青年の名は、アルバート・ロペス。騎士団に所属し、弱冠23歳にして爵位を継いだ若き侯爵である。隣にいるのは、ミハエル・ブランドン。ブランドン公爵家の長男で王太子補佐を務め、未来の宰相と名高い青年だった。
彼らを見ているのはエミリアだけではない。家柄、実力ともに高く評価され将来有望だと言われている2人は、この会場にいる多くの令嬢の視線を集めていた。
アルバート・ロペスが侯爵位を継いだのは半年ほど前の話だ。
まだまだ現役で居続けるだろうと思われていた前侯爵が唐突に爵位を譲ったことと、選ばれたのが兄ではなく弟であるアルバートだったことから、当時は色々な憶測が飛び交った。アルバートは確かに優秀だが、彼の兄も優秀で侯爵位を継ぐのに全く問題などなかったため、多くの貴族がそうであるように未来のロペス侯爵は兄の方だと、周囲は当然のようにそう思っていたのだ。
夜会の場で不躾にもその疑問をぶつけられた当事者の一人である、アルバートの兄━━━ヒューゴ・ロペスは穏やかな笑みを浮かべてこう言ったそうだ。
『誰が何と言おうと、真の狼侯爵たる資格を持っているのはアルバートだけだからね』
『資格』とは何なのか。その場にいた人の多くが疑問に思ったそうだが、穏やかでありながら、どこか迫力のあるヒューゴの微笑みを前に尋ねる者は現れなかったという。
(『狼侯爵』ね……)
アルバートの別名を心の中でそっと呟く。
『狼男と月の女神』の主人公に由来するその異名は、歴代のロペス侯爵が呼ばれ続けている名だ。
月の女神に自分の力の使い方を教わり村のまとめ役となった男の子孫は、時代が進むにつれてその影響力を広げ、イーリス王国建国時に爵位を賜った、と言われている。
だが、エミリアがロペス侯爵家に関心を向ける理由はそれだけではない。
(ロペス侯爵領は、私がかつてあの狼男に助けられた場所だわ)
スタイン伯爵領から王都に行くには、いくつか他家の領地を通過しなければならないのだが、そのうちの一つがロペス侯爵領だ。物取りに襲われ、エミリアが狼男に助けられたのは、まさにロペス侯爵領内にある森の中での出来事だったのだ。
(狼侯爵の領地に狼男がいるなんて……単なる偶然とは思えない)
もしかすると、ロペス侯爵家の人々は、あの狼男に関して何か知っているのではないか。
それはエミリアがあの狼男に出会った時から抱き続けている疑惑だった。
とはいえ、馬鹿正直に「あなたの領地にいる狼男について教えてください」などと聞けるわけがない。もしロペス侯爵家と無関係であれば頭のおかしい女だと思われるし、関係があったとしてもはぐらかされて終わりだろう。
そもそも、エミリアの性格上、アルバートのような男性と交流を持つことなど限りなく難しい。
結果、社交界にデビューする前からアルバートの存在は知っていたものの、どうすることできずに5年もの間、こうして会場の片隅から見つめる事しかできていなかった。
(まるで恋する乙女ね)
エミリアはそう自嘲して、アルバートから視線を外す。
これ以上ここにいても、楽しい思いはできそうにない。
もう切り上げて家に帰ろうと、エミリアは近くにいた給仕係に空になったグラスを渡すと、アルバートたちに背を向けて歩き出した。
背後からアルバートとミハエルに、声をかける女性の声が聞こえる。
おそらく、どこかの夫人が未だ婚約者のいない2人に自分の娘を売り込むために声をかけたのだろう。今まで参加した夜会で幾度となく遭遇した場面だ。微かに感じた胸の痛みを無視して、エミリアは無作法にならない程度に先を急ぐ。
エミリアがアルバートに興味を持ったのは、彼が『狼侯爵』の異名を持つロペス家の人間だから。
ただそれだけだったはずなのに。
(見ている時間が長過ぎたんだわ……)
いつの間にか惹かれていた自分に対し、エミリアはそっとため息を吐いた。