27.前侯爵夫妻との対面
書斎の扉を叩くと、中からは入室を許可する返事があった。アルバートは緊張に身を固くしたエミリアを安心させるように微笑みかけ、扉を開く。
「失礼します」
今の身体に人の家は窮屈らしく、身を屈めて入室する。後に続いて入室したエミリアの目に入ったのは、本棚に囲まれた書斎机に座って、こちらを見ている男性の姿だった。
「おかえり、アルバート。エミリア嬢も……無事でよかった。ようこそロペス侯爵家へ」
そう言って男性────前侯爵アドルフ・ロペスは立ち上がり、エミリアたちの元へと近づいてきた。アドルフの容貌はヒューゴによく似ており、柔和そうな顔には笑みが浮かんでいる。
「こんなタイミングでの挨拶になってしまったが、私がアルバートの父のアドルフ・ロペスだ」
「スタイン伯爵家の長女、エミリア・スタインです。この度のことではアルバート様に助けて頂き、感謝してもしきれません。侯爵家の皆様にもご心配をおかけすることになってしまい、申し訳ありませんでした」
「君が謝る必要はない。こうして無事に会えたことを心より嬉しく思っているよ」
そう言うとアドルフは少しかがんで目線を合わせ、微笑んで見せた。優しく包み込むような微笑みに、エミリアの緊張がほどけていく。
「アルバート、スタイン伯爵家へは……」
「兄さんに頼んで使いを出しました」
「そうか。なら問題はない。向こうの親御さんもさぞ心配していらっしゃるだろう。本当はすぐにでも当家に来て頂いてエミリア嬢の無事をその目で確かめて頂きたいところだが……いかんせんお前がその姿ではな……」
アドルフの言葉に、アルバートの耳がペタンと伏せられた。ひどく申し訳なさそうな顔をされ、エミリアは慌てる。
「い、いえ! 明日で大丈夫です。おそらく両親は助けて下さったアルバート様にお礼を言いたいと言うと思います。私が会えるのにアルバート様が会えないとなると、私を助ける過程でケガでもしたのかと誤解を招きそうですから」
いち早く両親に会いたいという気持ちはあるが、仕方がない。騎士であるアルバートがエミリアよりも先に「疲れ果てて寝ている」というのも不自然な話だし、「騎士団に報告に行っている」というのも騎士団に友人がいる兄に嘘だとバレかねない。エミリアが侯爵家に着くなり気を失うように寝てしまったことにして、アルバートが元の姿に戻った後に会うのが最善だろう。
「エミリア……すまない」
尻尾が垂れ下がり、しょんぼりとした様子のアルバートを元気づけたくて、「気にしないでください」とエミリアは背伸びをしてその頭を撫でた。アルバートは一瞬驚いた様子で目を見開いたものの、やがて気持ちよそさそうに眼を細めて喉を鳴らす。アドルフはその様子を感心したように眺めていた。
手触りの良い毛並みと嬉しそうなアルバートの様子に夢中になっていると、突然アルバートの耳がピクリと反応し、視線を扉の方へと向けた。どうしたのかと怪訝に思っていると、遅れて遠くの方からバタバタという音が聞こえてくる。一体何が起きたのかと目を丸くしたエミリアだったが、「奥様……!」という女性の悲鳴のような声が聞こえたことで近づいてくる音の正体を察し、身構えた。
「失礼します!!」
声と共に勢いよく扉が開き、姿を現したのは美しい貴婦人だった。亜麻色の髪に大きなつり目がちの瞳を持つその人は、扉を開けてエミリアの姿を認めると、こちらを凝視したまますごい勢いで歩み寄ってきた。
あまりの迫力に思わず後ずさりかけたエミリアだったが、近づいてくる女性が予想通り社交界でも有名なアルバートの母────カサンドラ・ロペスであったため、その場に踏みとどまった。カサンドラはエミリアの前まで来るとその勢いのまま右手を振り上げる。すぐ傍でアルバートが慌てる気配がしたが、もう間に合わない。エミリアは反射的にギュッと目を閉じた。
「エミリアちゃん……!!!」
しかし、涙交じりの声と共にエミリアが感じたのは、予想していた頬の痛みでは無く、自分を包みこむように抱きしめる女性の体温だった。先ほど振り上げられた右手は、今はしっかりとエミリアの背中に回されている。状況が呑み込めずにしばし硬直したもののすぐに我に返り、慌てて身体を離そうともがいた。
「い、いけません!! 私、川に落ちたので! ドレスが汚れてしまいます!!」
「知っています。とても怖い思いをしましたね。よくぞアルバートと共に無事で帰ってきてくれました」
相手が相手なので全力でもがくことなど出来ない。そんなエミリアの抵抗などものともせず、カサンドラはその細腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、ぎゅうぎゅうとエミリアを抱きしめる。困り果てたエミリアが視線を彷徨わせると苦笑しているアドルフと視線が合った。
「カサンドラ。エミリア嬢が困っているからもう離してあげなさい」
アドルフがそう言って肩を軽く叩くと、カサンドラはしぶしぶと言った様子でエミリアを解放する。エミリアを見つめる目には涙が湛えられていて、彼女が心からエミリアがアルバートと共に帰ったことを喜んでいることを示していた。
「驚かせてすまないね。彼女は前々から君に会いたがっていたから、誘拐されたと聞いてとても心配していたんだ」
そう告げられて驚きに目を見開いたエミリアの肩を、アルバートがぽんと叩く。見上げると暖かな瞳がエミリアを見つめていた。おそらく、カサンドラがここまで心配してくれていたのは、アルバートがエミリアのことを良く話しておいてくれたからだろう。感謝を込めて微笑み返すと、アルバートの喉がグルグルと機嫌良さそうな音を立てた。
「まぁ……」
近くから聞こえた吐息のようなため息にハッとすると、カサンドラとアドルフがじっとこちらを見ていた。なんとなく気恥ずかしくてアルバートから距離を取ろうとしたエミリアだったが、毛むくじゃらの腕にその動きを阻まれる。アルバートを見ると、彼はひどく真剣な目をして両親を見据えていたので、エミリアも抵抗はやめてアルバートに倣った。
「父さん、母さん。さっき兄さんにも伝えたけど、エミリアが婚約を受けてくれたんだ。だから、この誘拐事件のことが落ち着いたら正式に婚約を結ぼうと思ってる」
その言葉に、カサンドラの瞳が大きく見開かれ、次いで大粒の涙がこぼれ落ちる。アドルフは妻の肩を抱くとハンカチを取り出し、そっと彼女の手に握らせた。
「そう……。そうなのね……」
何度も噛みしめるように呟きながら、ハンカチで涙を拭うカサンドラ。その様子を見ていたエミリアの瞳にも、じんわりと涙が浮かんできた。
(それほどカサンドラ様にとってアルバート様の婚約は嬉しいことなんだ……)
エミリアにとっては特になんの問題もないことだったのでそれほど意識してはいなかったが、満月の度に狼男に姿を変える後継の結婚相手探しは、侯爵家にとって大きな課題だったのだろう。今の前侯爵夫妻と先ほどのヒューゴの様子からそのことは容易に窺い知れる。アルバート自身は社交界では優良株として注目されている人物であり、その外見と性格から想いを寄せる令嬢も多いが、狼男姿のアルバートを受け入れ、その上秘密を口外せずにいられる令嬢となるとやはり難しいのかもしれない。
━━━━━『アルバート・ロペスの妻が務まるのは、俺が知る限り君だけだよ』
以前、婚約を断った際にアルバートに告げられた言葉の意味をエミリアはようやく理解したのであった。




