20.街中での遭遇
その日、2人は王都で評判のカフェの一席に向かい合って座っていた。エミリアの前にはチョコレートケーキ、アルバートの前には甘さ抑え目のチーズケーキが置かれている。
「コウモリ?」
アルバートはエミリアの言葉を眉をひそめて聞き返した。エミリアはコクリと頷いて話を続ける。
「そうなんです。部屋の窓のすぐ近くにいたんですよ」
「それは驚いただろうな。コウモリがいたのはその時だけ?」
「私は見ていないんですが、その後も何人かの使用人が目撃していて……。昨日もメイドが屋敷から飛んでいく姿を見たそうです」
あの日エミリアが見かけたコウモリは、どうやら屋敷の近くに留まっているらしく、度々その姿を目撃されていた。特に害があるわけではないが、なんとなく気味が悪い。ましてや『吸血鬼の涙』が問題視されている今、吸血鬼と関わりが深いと言い伝えられているコウモリを見るたびに薬のことを連想してしまい、胸が騒つくのだ。
「今まで屋敷の近くでコウモリを見たことは?」
「ありません。そもそも王都で見たのは初めてです。領地への帰り道、馬車の中から遠くの方を飛んでいるのを見かけたことはありましたが……」
「確かに王都では俺も見たことがないし、見たという話も聞いたことがないな。何匹もいるのか?」
「同じコウモリなのかどうかはわかりませんが、今のところ見かける時は1匹だけみたいですね」
エミリアの言葉を受けて、アルバートはしばらく考え込むように黙り込んでいたが、ややあってエミリアに向かって安心させるように微笑んだ。
「わかった。今度、スタイン伯爵家に行った時に少し庭を見せてもらってもいい? 俺も別にコウモリに詳しいわけじゃないけど、何か原因があるのかもしれないし」
「すみません、お願いします」
少しでも不安を取り除こうとしてくれるアルバートの気持ちが嬉しくて、エミリアは微笑んだ。それと同時に、かわいらしいケーキを前にしているのに、コウモリの話題を出してしまったことを申し訳なく思った。
「せっかく連れてきていただいたのにこんな話……ごめんなさい」
「謝ることじゃない。むしろ相談してくれて嬉しいよ」
アルバートはそう言うと、「ほら、こっちのケーキも美味しいから食べてごらん」と言って、フォークで自らのケーキを一口分取り分けるととエミリアの口元に差し出した。ためらったエミリアだったが、にっこりと笑ったアルバートの笑みから絶対に彼がエミリアが食べるまでフォークを引っ込めないであろうことを悟ると、おずおずと差し出されたケーキを口に含む。
「……美味しいです」
「美味しかったにしてはしかめっ面だけど?」
「それは……! その、はしたないって思われないか心配で」
「ここは貴族だけの会食の場じゃない。問題ないさ」
事も無げにそう言うと、アルバートはその黒い瞳でエミリアをじっと見つめた。そして、エミリアのケーキを指差したかと思うと、今度は自分自身を指してみせる。
意図を理解したエミリアの顔が赤く染まる。何度かケーキとアルバートに交互に視線を彷徨わせた後、意を決して自分のケーキを一口分取り分けると、アルバートの口元に差し出した。
「うん、美味しい。よくできました」
ケーキを咀嚼したアルバートは満足そうにそう言うと、にっこりと満面の笑みを浮かべた。対するエミリアはアルバートと目を合わせる事もできず、黙々とケーキを口に運んだのであった。
ケーキを食べ終えた2人は、近くの雑貨店に行くために街路を歩いていた。時間が経った事でエミリアも落ち着きを取り戻し、時折立ち止まってはお店のショーウィンドウを眺めて会話を交わす。
いよいよお目当の雑貨店が近づいてきたその時、正面から歩いてきた人物の姿を見て、エミリアの体が強張った。アルバートも相手に気付き、エミリアを守るように半歩前に出る。
ほぼ同時に向こうもこちらに気付いたようだ。そのまま素通りしてほしいというエミリアの願いも虚しく、迷いない足取りでエミリアたちの元までやってきた。
「ずいぶんと楽しそうだな、アルバート」
ベルノルト・フェルゼンシュタインは不機嫌そうな顔でそう言うと鼻を鳴らした。ベルノルトの半歩後ろには、あの夜会の夜と同じ金髪の男がいて、意地の悪い笑みを浮かべてと成り行きを見つめている。今日はクリスは一緒ではないようだ。
そして、金髪の男の視線がふいにエミリアを捉えたかと思うと、ジロジロとまるで値踏みするような視線を浴びせられた。その視線に悪寒を感じたエミリアが思わずアルバートの方に身をよせると、アルバートは相手の視線を遮るようにエミリアを完全に背後に隠す。
「奇遇だな、ベルノルト。この間はエミリアが世話になった」
当てこするようにアルバートが先日の夜会のことを口にすると、ベルノルトは不愉快そうに顔を歪める。
「狼侯爵ともあろうものが女相手に鼻の下伸ばして、まるで飼い犬のようだな」
「愛しい女性の前ではどんな男も従順な犬になるものだ。早く君にもそういう相手が現れることを祈っているよ」
アルバートの言葉に、ピクリとベルノルトのこめかみが引きつる。恋人がいない身を揶揄されたのだから当然の反応だろう。悔しげに顔を歪めてアルバートを睨みつける。
「俺はお前のようにはならない」
「そうか、それは残念だ」
ベルノルトとは対照的に、アルバートの態度は飄々としたものだ。それが余計に勘に触るのだろう。眦をつり上げたベルノルトは、吐き捨てるように言った。
「はっ! せいぜい大事な女が他の男に掻っ攫われないように気をつけるんだな」
「そうそう。『吸血鬼の涙』にも注意しなくちゃいけませんよ」
ベルノルトの尻馬に乗るように、今まで黙っていた金髪の男が口を開いた。その言葉に、さすがのアルバートも顔をしかめて不愉快さを露わにする。エミリアも、今問題になっている薬の名前に身を強張らせた。
自身の言葉に2人が反応したのが嬉しかったのだろう。金髪の男は一歩前に出ると喋り出した。
「この間の夜会での『吸血鬼の涙』の騒ぎ、服用した男は無差別に盛られた薬を運悪く飲んだ、なんて話もあるくらいですからね。もしそれが本当だとしたら、不運な令嬢が今後夜会で知らぬうちに『吸血鬼の涙』を口にしてしまう……なんてこともあるかもしれませんね」
それは、まさにこの間スカーレットからも聞いた噂だった。自分だけではなく、アルバートや両親、スカーレットなど、大事に思っている人々が『吸血鬼の涙』を飲んでしまう可能性を想像し、エミリアの顔が青ざめる。アルバートが鋭い眼光で睨みつけたが、金髪の男は口を閉じることなくベラベラと喋り続けた。
「しかも、どうやら貧困街では女性に飲ませて乱暴を働く事件が多くなっているみたいですからね」
エミリアが怯えたのにさらに気をよくしたのだろう。ニヤリと笑うとエミリアの胸のあたりに不躾に視線を向ける。
「貴族の夜会でも、同じように狙った女性にわざと『吸血鬼の涙』飲ませる狼藉者が現れるかも━━━━」
「オリヴァー!!」
金髪の男━━━━オリヴァーの言葉を止めたのは、意外にもベルノルトだった。
まさかベルノルトに遮られるとは思っていなかったのだろう。オリヴァーは驚いたように目を見開くと、自分を睨みつけるベルノルトの視線にたじろいだ。
「おしゃべりが過ぎるぞ。いい加減にしろ」
「で、でもベルノルト」
「気分が悪くなった。帰るぞ。……邪魔したな」
最後の言葉だけはアルバートとエミリアに向けて言うと、背を向けてベルノルトは歩き出した。しばし呆然とその背中を見送っていたオリヴァーだったが、はっと我に帰ると慌てて後を追う。
2人が去っていくのを、エミリアとアルバートは呆気にとられたまま、ただ見送ったのであった。




