18.不穏な噂
ウェルズリー侯爵家の夜会で無体を働いた男は『吸血鬼の涙』を服用していたらしい、という話をエミリアの元に持ってきたのは情報通の友人、スカーレットだった。
「ウェルズリー侯爵家も気の毒ね」
「えぇ、せっかくの夜会だったのに。侯爵夫妻に非があることではないから、あまり気を落としてないといいのだけど……」
事態の収拾に奔走していた2人の姿を思い浮かべ、エミリアはため息をついた。同時に、あの場で見た男の様子も思い出し、その原因が今話題になっている薬であったことに納得する。
「とうとう貴族にも使用者が出たのかと思うと怖いわよね。でも知ってる? 騒動を起こしたのはアスター男爵家のご子息だそうだけど、彼、そんな薬には手を出していないって言ってるみたいよ」
「隠そうとしてるわけじゃなくて?」
「普通そう思うわよね。でも、一緒に夜会に参加してた彼の友人が言うには、夜会の途中までは彼、本当にいつも通りだったんですって」
スカーレットの言葉に、エミリアはあの夜会の日のことを思い返す。
薬を服用してからどのくらいの時間で症状が出始めるのかはわからないが、たしかに夜会の途中まで友人たちが何も異変に気付かなかったというのは不自然だ。
そこまで考えてエミリアは一つの可能性にたどり着き、顔を曇らせた。
「夜会に参加している最中に服用したかもしれないってこと?」
「そうなんじゃないかって噂になってるわ。持ち込んだのならともかく、社交の場に売人が紛れ込んでるかもしれないなんて、考えただけでゾッとするわよね」
そう言ってスカーレットは顔をしかめた。しかも今回ことが起きたのは、善良な貴族として知られているウェルズリー侯爵家の夜会だ。招待客もある程度身元が確かな人間であり、警備もきちんとされていたので部外者が紛れ込んだ可能性は低い。つまり、スカーレットの言うように薬が夜会の最中に手渡されたのであれば、あそこにいた貴族の誰かが『吸血鬼の涙』の流通に関わっているということだ。
しかし、不安げな表情を浮かべたエミリアにスカーレットが告げたのは、それよりもさらに悪い『可能性』だった。
「まぁ、自分の意志で飲んだのであればまだいいのよね」
「どういうこと?」
「もし本当に、彼に身に覚えがないとしたら? 誰かが会場内の飲み物に勝手に薬を入れたってことになるわよ」
その言葉にエミリアは、一気に血の気が引くのを感じた。
もしそうだとしたら、あの会場にいた誰もがあの男性のようになる可能性があったということになる。エミリアも、アルバートも例外ではない。
もちろんあの男性が何かしらの恨みを買っていて、そのせいで狙われた可能性はある。しかし、夜会の飲み物は狙った人物以外の者が口にしてしまう可能性も高い。相手に対し悪意を持っている人間が、そんな確実性に欠ける方法を取るだろうか。
「そうだとしたら、とても恐ろしくて夜会で出されたものなんて口に出来ないわね」
スカーレットの言葉に、エミリアはコクリと頷いて同意した。それが本当ならば犯人はまだ捕まっていないと言うことになる。特定の誰かを狙ったものではなく無差別の犯行だとしたら、今後もまた同じように知らず知らずのうちに『吸血鬼の涙』を口にしてしまう人が出てくるかもしれない。
エミリアもスカーレットもその想像に思わず黙り込んでしまい、重苦しい沈黙が室内を支配した。
しばらくして、スカーレットがその空気を断ち切るようにわざと明るい声でエミリアに尋ねた。
「そういえば、ロペス侯爵とのことはどうなってるのよ。求婚されてたでしょう? 話を聞くとあれから何度か顔を合わせてるみたいだけど、どうなの?」
唐突にアルバートとのことを問われ、少し動揺したエミリアだったが、少しの逡巡ののち、言葉を選びながら答えた。
「少なくとも、アルバート様に私を害する意図はない……と思う。あれから無理に狼男のことを聞き出されることもないし。私から一度踏み込んで聞いてみたこともあるんだけど……」
そこで一度エミリアは言葉を切った。自分で口にすることに恥ずかしさを感じ、スカーレットから外した視線を手元に落としながら続きを口にする。
「きゅ、求婚した理由は、私のことが好きだからだと言われたわ」
頬を染め、口ごもりながら告げられたエミリアの言葉に、スカーレットは頬を緩める。
「よかったじゃない。じゃあ、このまま結婚するの?」
そのことは、アルバートにハンカチを渡したあの日からエミリアがずっと考えていることだった。
アルバートが狼男本人、または狼男の味方であるなら、エミリアにとって不都合はない。容姿も整っていて、性格に問題はなく、騎士としても優秀で将来を期待されている。ロペス侯爵に娘が嫁入りするとなれば、スタイン伯爵家にとっても良縁だ。
(それに━━━━)
先日の夜会で悲鳴が上がった瞬間、アルバートはエミリアが状況を把握するより早く、エミリアを守ろうとする体制をとってくれた。もとよりエミリアはアルバートのことが好きなのだ。あの時は目の前で起きている出来事に気を取られていてそれどころではなかったが、好きな人に守られて嬉しくないわけがない。アルバートがエミリアのことを好きだというのは信じられないが、信じてみてもいいかも、とは思い始めていた。
「まだそこまでは決めてないけど、お断りする理由がなくなってしまったのは事実だわ。アルバート様の言葉がたとえ嘘だったとしても、これほど好条件な縁談はきっと今後ないでしょうし……」
「そうね」
「ただ、好条件すぎて躊躇ってしまうのも事実なの。私でいいんだろうか、務まるんだろうか、ってそんなことばかりグルグル考えてしまって」
アルバートと結婚すれば、エミリアは次期侯爵夫人となる。結婚相手は男爵家か同じ伯爵家あたりを想定していたエミリアにとって、その役割は重い。もし求婚を受け入れれば、その務めを果たすために社交などに対しても「苦手だ」などとは言っていられなくなる。
そして、アルバートの妻は普通の侯爵夫人ではない。『狼侯爵』の妻なのだ。エミリアの推測が正しければ、結婚したらアルバートと共に狼男に関する秘密を守っていくことになるだろう。
「一生を左右することだもの。ゆっくり考えたらいいわ」
悩むエミリアにスカーレットは優しくそう言った。不器用で臆病な友人が、そう簡単に自分の未来を決める決断を下せるとは思わない。彼女の言う通り、侯爵夫人になるのであれば今まで以上の努力が必要になるし、よくない思惑に巻き込まれる可能性だって高くなる。納得いくまで考えて結論を出せばいい。
(結論が出るまでにどれくらい時間がかかるかは……ロペス侯爵のお手並み拝見というところね)
エミリアがアルバートのことを想っていた時間は短くない。今は不安の方が大きいようだが、好きな相手と結ばれるだなんて喜ばしいことだ。一般市民には普通のことだが、政略結婚が当たり前の貴族間ではそれがどんなに難しいことかスカーレットは知っている。
自身も恵まれた結婚をしたことを自覚しているスカーレットは、友人にも同じく幸せな結婚をしてほしいと、考え込むエミリアを見ながらそっと祈ったのであった。