12.彼のために
青空の下で咲く花を見ながら、エミリアはアルバートと歩いていた。
「だいぶ暖かくなったな」
「えぇ。春の花ももうすぐ見納めですね」
春の日差しにアルバートが眩しそうに目を細め、エミリアは花々の様子を見ながら相槌を打つ。
こまめに手入れがされているのだろう。花壇を彩る花たちは、そのどれもが自慢げにその花弁を広げているように見えたが、所々にすでに花を咲かせ終えたのか、葉っぱだけの姿になっているものも見受けられた。
2人がいるのは花の名所として知られている王都にある公園だ。家と図書館を往復してばかりいるエミリアを誘い出す手紙がアルバートから届いたのは3日前のことで、図書館での調べ物に限界を感じていたエミリアはありがたくその誘いを受けたのであった。
(色々気になることもあるしね……)
ちらりと横目でアルバートを見ると、精悍な横顔が目に入り、エミリアの心臓がドキドキと音を立てる。
社交的なアルバートのおかげで2人で過ごす時間はエミリアが当初予想したものよりもずっと過ごしやすかったが、時折こうしてアルバートのふとした表情や仕草がエミリアの心臓の鼓動を早めていた。
慌ててアルバートの顔から視線をずらし、今度は彼の右腕を見る。今日アルバートと顔を合わせてからというもの、ほんの少しでも違和感を見つけられないかと、エミリアは不自然にならない程度に彼の右腕の動きを観察していた。
あの日、狼男は襲撃者に二の腕をナイフで割かれ、傷を負っていた。そしてエミリアの記憶が正しければ、おそらくそれは右腕だったはずだ。
これまで見ている限り、アルバートは特に右腕をかばっている様子はない。あの事件から1ヶ月以上経っているので傷が塞がってしまっているのかもしれないが、思い返せば今日に限らずアルバートが怪我をしているそぶりを見せたことはなかった。
アルバートがエミリアに初めて声をかけたのは、あの事件からおよそ2週間後の夜会の日。あの夜、ダンスを踊る時に服越しとはいえエミリアは何度かアルバートの右腕に手を添えている。しかも丁度、もし彼が狼男であったなら怪我を負っていたであろう部分に。さすがに2週間で傷が塞がるということはないと思うが、彼は触れられて痛がることもなく、服越しに触れた感触にも特に違和感はなかったように思う。
(やっぱり、あの狼男はアルバート様ではないのかしら)
そう考えて、エミリアは思わず落胆した。やっとたどり着いた仮説は、なかなか確証が得られず推測の域を出ない。
「どうした?」
その声にはっと我にかえると、心配そうにアルバートがエミリアの顔を覗き込んでいた。
思いの外近くなっていた距離にエミリアの心臓が跳ねる。
「日差しもあるし、結構歩いたからな。疲れたのか?」
「あ、いえ、そういうわけでは」
「ならいいが……少し顔が赤い気もするな。どこか座れるところを探そうか」
そう言ってアルバートは辺りを見回すと、少し離れたところにベンチを見つけ、自然な動作でエミリアの手を取ると歩き出した。
ベンチは丁度木陰になっており、座って耳を澄ますと頭上でさわさわと風で葉が擦れ合う音が聞こえる。
アルバートを見ると、ジャケット姿では些か暑かったのかじんわりと額に汗を滲ませていた。エミリアはカバンからハンカチを取り出すとアルバートに差し出す。
「どうぞ」
「あぁ、ありがとう」
受け取って額を拭こうとしたアルバートだったが、ハンカチを顔の前まで持っていったところでその動きが止まる。どうしたのかとエミリアが様子を伺うと、彼はハンカチのある一点を見つめていた。
視線の先を見て、エミリアの体が硬直する。そこにあったのは、エミリアが自分の持ち物に刺していたオオカミのモチーフだ。別にアルバートのことを思って刺したものではないものの、『狼侯爵』であるアルバートにそれを見られたことに恥ずかしさがこみ上げる。エミリアの中で、ハンカチにオオカミのモチーフを刺すことは当たり前になっていたので、アルバートが気にするとは思いもせず渡してしまったのだ。
「君はオオカミが好きなんだな」
そう言ったアルバートの口元は、嬉しそうに微笑んでいた。
「恐ろしいとは思わないのか?」
「今のところ、恐ろしい思いをさせられたことがありませんので」
「そうか」
「えぇ」
たしかに、実物の野生のオオカミは人に害をなす可能性のある恐ろしい生き物だ。しかし、アルバートが口にした『オオカミ』はそういった一般的な意味合いとは違うとエミリアは直感的に思った。エミリアの刺すモチーフが『オオカミ』が本当はただのオオカミではないように━━━━。
嬉しそうな表情を浮かべたままアルバートはハンカチで額を拭くと、「洗濯して返す」と言ってそれを自身のポケットへとしまった。エミリアはそこまでしなくてもいいと言ったが、アルバートは譲らなかった。
「それにしても、いいモチーフだな。なんならこのまま欲しいくらいだ」
「あの……女物ですし、何回か使用しているものなのでそれはやめてください。よろしければ今度、新しいものを差し上げますから」
エミリアのその言葉に、アルバートの瞳が輝く。狼のモチーフはだいぶ前にエミリアが色々とこだわりながら作った思い入れのあるものなので、気に入ってもらえるのは純粋に嬉しい。夜会に行くこともないので時間に余裕もあるし、と心の中で言い訳のように呟いて、アルバートにハンカチをプレゼントすることを約束した。
「楽しみだな。あぁ、でも無理はしなくていいから。時間があるときで構わない」
「わかりました」
頷いたエミリアはさっそく頭の中で、どんな生地を使って作ろうかと思案を巡らせ始める。アルバートはそんな彼女の瞳をぐっと覗き込んで、爆弾を落とした。
「ちなみに俺と結婚するとオオカミ好きの君にピッタリの『狼侯爵の妻』という肩書きが手に入るんだけど、どうかな?」
「か、からかわないでください!!」
そして、真っ赤になったエミリアを見てとても楽しそうに笑ったのであった。
公園から帰宅したエミリアは、夕食を終え、自室で思案にふけっていた。
今までのアルバートの態度から、少なくとも彼はあの狼男の敵ではないように感じられた。
よくよく考えれば、害するためにエミリアから狼男の情報を聞き出したいのであれば、何も結婚する必要はない。聞き出してさえしまえば用無しになる相手を、わざわざ生涯側に置いておく理由がないからだ。
(私が狼男の情報を周りに喋らないか見張るため────そう考えた方がしっくりくるわ)
そして、狼男の存在を隠したいのだとすれば、それは狼男本人かその身内である可能性が高い。アルバート自身が狼男ではないのだとしても、関りはあるのだろう。
もちろん、エミリアは狼男のことを言いふらすつもりなどない。だからアルバートの心配は杞憂であり、言うなれば同じ秘密を共有する同士だともいえるだろう。どうせ嫁ぐあてもない身だ。スタイン伯爵家の利になることでもあるし、エミリアをそばに置くことでアルバートが安心できるのであれば、嫁いでも構わないと考えていた。
しかし────
(アルバート様はそれでいいのかしら……)
狼男の秘密を守るために、好きでもない女性と結婚する。そこに彼の幸せはあるのだろうか。
(伝えなければ。狼男のことは生涯誰にも言わないから安心してほしいと。だから私のことを好きなふりなどしなくていいのだと)
ズキン、とエミリアの胸に痛みが走る。その痛みには気づかないふりをして、エミリアは窓越しに空に浮かぶ月を見上げた。