11.吸血鬼と狼男
エミリアはその日、またしても図書館に足を運び、本とにらめっこをしていた。今度手にしているのは、異形の生き物を扱った図鑑だ。開いているページには狼男のイラストと共に、その生態が記載されている。
(人間よりはるかに高い身体能力を持ち、満月の夜に変身する。狼男に嚙まれる、または狼男の足跡に溜まった水を飲んだ人間は狼男になる。ロペス侯爵家の祖先は狼男だという言い伝えがある────だめね。すでに知っていることばかりだわ)
書いてある項目を一つ一つ心の中で読み上げ、嘆息した。何か目新しい情報があればと思ったのだが、残念ながら期待したような情報は見つけられない。
そのまま何気なくペラペラとページを捲っていると、ふとあるページで手が止まる。そこには吸血鬼の文字と共に落ちくぼんだ目の陰気な男の絵が描かれていた。
(青白い顔に赤い瞳。人の生き血を吸い、血を吸われたものは吸血鬼になる可能性がある。棺桶で眠り、銀・日光・大蒜・流水などを苦手とする……か)
狼男と比べると、苦手なものが多い。だいぶ生きづらそうだと呑気な感想を抱きながら、エミリアはすでに一度チェックした本を開き、今度は吸血鬼のページを読み漁り始めた。
いくつか本を読んだ結果、吸血鬼の特徴には本によって差異があることがわかった。吸血鬼を題材にする作品は多いので、おそらく元々の言い伝えにはなかったものもあるのだろう。
(とはいえ、日光が苦手なのは共通してるから、実在するとしても人間に紛れて生きるのは難しそうね)
狼男は満月の夜だけやりすごせば人と同じ生活が送れそうだが、吸血鬼はそうもいかない。夜しか活動できない生活はどうしたって周りに違和感を抱かせやすいし、苦手だといわれているものが多いので生活の中で全て避けるのは難しそうだ。
そんなことを考えていたエミリアだったが、ふと視線を感じて顔を上げた。すると、少し離れたところでこちらを見ている黒髪の青年と目があった。優しげな顔立ちに、エミリアは既視感を覚える。
(この人、どこかで見たような……)
エミリアが考えている間に、青年はつかつかと迷いない足取りで近寄ってきた。愛想の良い笑みで「こんにちは」と声をかけられ、エミリアも挨拶を返す。困惑が隠しきれないエミリアの様子にピンときたようで、青年は苦笑しながら頭を下げた。
「先日は、ベルノルトが大変失礼しました」
その一言で、エミリアは彼が誰なのかを思い出した。ベルノルトに声をかけられた時、彼と一緒にいた2人の青年のうちの1人で、友人の暴挙を止めるためミハエルを呼んできてくれた青年だ。
慌てて立ち上がりお礼を言おうとしたエミリアを制し、青年は外を指した。
「ここじゃなんだから、少し外に出ませんか?」
予想外の言葉にポカンとしたエミリアだったが、たしかに図書館内で会話をし続けるわけにもいかないと頷いたのであった。
エミリアが図書館で調べ物をしている間に、晴天だった空は曇り空に変わっていた。
青年は空を見上げて少し考えるそぶりを見せた後、図書館の屋根の下に設置されているベンチまでエミリアを誘導した。
「僕はクリス・エヴァンズと申します」
エミリアを座らせ、自身も少し間をあけて隣に腰を下ろしてから青年━━━━クリスはそう名乗った。
エヴァンズという家名に、エミリアはスタイン家と同じ伯爵位を持つ貴族に思い当たる。交流がある家ではないので詳しくはないが、エヴァンズ伯爵領で作られるワインは有名でエミリアも口にしたことがあった。
おそらくその伯爵家の子息であろう青年は、あの夜会の日にも浮かべていた申し訳なさそうな表情でエミリアに対し頭を下げた。
「ベルノルトとは幼馴染なんです。昔はあんなんじゃなかったんですけど、最近なんだか様子がおかしくて……。ご迷惑をおかけしてしまって申し訳なかったです」
「い、いえ!エヴァンズ卿が悪いわけでは……」
「いいえ、友人として謝らせてください。とはいえ、立場も力も彼には敵わないせいかベルノルトはもう僕の言うことには耳を傾けてくれなくなってしまったので、彼が僕を友人だと思っているかは微妙なところなんですけど」
そういうクリスの表情はどこか寂しげだった。
見たところ彼は騎士には見えないので、ベルノルトたちとは普段行動を共にしている訳ではないのだろう。大人になって環境が変わり、友人として距離が開いてしまったというところだろうか。とはいえ幼馴染であるクリスが自主的に代わりに頭を下げるくらいだから、根っから悪い人ではないのかもとエミリアはベルノルトへの認識を改めた。
「フェルゼンシュタイン卿のこと、お好きなんですね」
「えぇ。彼がどう思っていようと、僕にとっては大切な幼馴染なので」
幼い頃からの友情を大切にするクリスの姿に、思わずエミリアの口元にも笑みが浮かぶ。自身の発言が照れ臭かったのか、クリスは少し頬を赤らめながら話題を変えた。
「そういえば、先ほど吸血鬼について書かれたページを見ていらっしゃいましたが、吸血鬼に興味が?」
話しかけられた時にページを開いたままだったので、目に入ったのだろう。
21歳にもなって架空の生き物の図鑑を見ていたことを知られ、少し気まずくなったエミリアだったが、黙っているわけにもいかず口を開いた。
「いえ、あの、もともとは狼男を調べていたのですが」
「狼男? あぁ、そういえばあなたのお相手はあのロペス侯爵でしたね」
アルバートとの距離や立ち位置を測りかねているエミリアは言葉に窮し、かといって説明することも出来ずに曖昧に微笑んだ。クリスはといえば、そんなエミリアの様子には気付かず納得したのかうんうんと頷いている。
「嫁入りする家のことが気になるのは当然のことですよね」
「あの、まだ、そういう所まで話が進んでいる訳では……」
「そうなのですか?」
「ええ。でも、とりあえず狼男を調べていたらたまたま吸血鬼のページが目に入って……。ほら、今『吸血鬼の涙』が話題になっているじゃないですか。それでふと気になって見てしまっていたんです」
これ以上は触れられたくなくて、エミリアは強引に話を戻した。幸いクリスはそれ以上聞いてくることはなく、むしろ『吸血鬼の涙』の話題に興味をひかれたようだった。
「どうやらかなり厄介な薬のようですね。日光を異様に眩しがることから『吸血鬼の涙』と名付けられているようですが、上手いネーミングだなと思いましたよ」
「聞いたことがない症状なので、怖いですよね。何で出来ている薬なのかも解らないと伺いました。症状を緩和する薬も研究されているとは思いますが、その状況ではなかなかすぐにはできないでしょうね」
「えぇ。幸いまだ社交界で使用者は出ていないようですが、一般市民の間では使用者が増えているようですし、時間の問題でしょう」
そう言ってクリスは眉をひそめた。貴族として、領地を預かる家の者として、やはりこの件は頭の痛い問題のようだった。
「早く、薬を生産している者が捕まるといいのですけど」
「なかなか難しいようですよ。薬を使用した者に聞き取り調査をして売人を捕まえようとしているようですが、霞のように足取りが消えてしまうと聞きました。僕はそれを聞いた時に、まるで本物の吸血鬼のようだと思いましたよ」
一説によると、吸血鬼は様々なものにその姿を変えることができると言われている。コウモリが一番一般的だが、霧にも姿を変えられるという話は、先ほどエミリアが見ていた本にも載っていた情報だった。
消えてしまうのはあくまで足取りであって、実際に売人本人がその姿を消した訳ではない。ただクリスの話を聞いて、思わず追い詰められても霧に姿を変え逃げ果せる吸血鬼の姿を想像し、エミリアはぶるりと震えた。まさか本物の吸血鬼が存在しているはずはないとは思うものの、愉快な想像ではないのは確かだ。
「今のロペス侯爵家の人々は、もう狼男に変身できたりしないんですかね?」
「え?」
唐突な話題転換についていけず、困惑するエミリア。しかし、クリスの中では繋がっている話題だったようで、当然のように話を続けた。
「だって、小説の世界ではよく狼男と吸血鬼が対立するような物語があるじゃないですか。もし吸血鬼が実在するなら、対抗できるのは狼男なのかなって」
思いもよらなかった発想に、エミリアは目を丸くした。確かに、創作物などでよく狼男と吸血鬼の対立は描かれている。ロペス侯爵家が古くからこの地のために尽力してきた影響なのか、そういった場合は大抵吸血鬼が悪として描かれていた。もちろん、生き血を飲むと言う性質上、人に害を為さねば存在できないという吸血鬼のキャラクター性も大きな要因ではあるだろう。
「すみません、くだらない妄想でしたね」
「あ、いえ……」
クリス自身もあまりに現実離れした話だと思ったのか、苦笑しながら軽く謝罪した。少なくとも狼男が実在することを知っているエミリアは少し反応に困り、返した返事は歯切れの悪いものとなってしまった。
エミリアを迎えに伯爵家の馬車が到着したのは、ちょうどその時だった。
話している間に、だいぶ時間が経ってしまったらしい。クリスも馬車に気づくと、すっと立ち上がってエミリアを馬車の入り口までエスコートした。
「今日はお時間をいただき、ありがとうございました。この前のお詫びの気持ちと今日のお近づきの印に、我が領の名産品のワインをスタイン伯爵家まで届けさせますね」
「ありがたく頂きます。エヴァンズ伯爵領のワインは、私はもちろんですが母も好きなのでとても喜ぶと思います」
別れ際のクリスの申し出を咄嗟に断りかけたエミリアだったが、それで彼の気が済むならと思い直し、素直に受け取ることにした。嬉しそうに微笑んだクリスに別れを告げ、エミリアは馬車に乗り込み、帰路に着く。
馬車の中で一人になったエミリアの頭の中をぐるぐると回っているのは、先ほどのクリスの発言だった。
━━━━「今のロペス侯爵家の人々は、もう狼男に変身できたりしないのかな?」
もし、はるか昔の言い伝え通りの能力を、ロペス侯爵家が人知れず受け継ぎ続けているとしたら?
そして、アルバートの兄が言っていた『真の狼侯爵たる資格」というのが、狼男に変身できる力のことだったら?
(この国のなかで、一番狼男である可能性が高いのは、アルバート様なのでは?)
その考えは、今まで生きてきた中で一番といっていいほど、エミリアの心をかき乱した。