0.プロローグ
━━━━それは、満月の夜の出来事だった。
「はぁ…はぁ………はぁ…っ!」
荒い息を殺しながら、エミリアは必死に足を進めていた。
すでに靴は脱げ、転んだり木の枝にひっかかれたりしたせいで顔や腕、足には無数の傷ができている。それでも必死に前へ進む。足を止めれば恐ろしいことになると、子供心にわかっていた。
「おい! こっちだ!! 逃がすなよ!!」
後ろから迫ってくるのは粗野な男の怒声。ガクガクと震える足を叱咤しながら、距離を詰められないように懸命に進む。幸いこの森は木々が生い茂っており、草むらや低木が背の小さなエミリアの体を隠してくれていた。そのため、たびたび男たちはエミリアの姿を見失っており、エミリアが立てる物音を頼りに追ってきているような状態だった。
姿勢を低くしながら、なるべく物音を立てないように……。
しかし、そんなエミリアの努力もむなしく、ぬかるんだ地面が彼女の足を滑らせた。
「あっ……!」
体が地面に打ち付けられ、痛みがエミリアを襲う。しかしそれ以上に、倒れる時に生じたガサガサという草木の音に血の気が引いた。
「いたぞ!!」
近づく男たちの怒声。すぐに立ち上がらなければと思うのに、痛みでうまく体が動かない。それでも少しでも離れようと地面を這って移動するが、そんな努力もむなしく、あっけなく男たちに追いつかれてしまった。
「ようお嬢ちゃん。随分と逃げ回ってくれたなぁ」
「震えて可哀そうになぁ。安心しろよ。おとなしくしてれば痛い目には合わせねぇよ、『今は』な」
「売られた先でどうなるかは知ったこっちゃねぇけどなぁ!」
静かな森に男たちの下卑た笑い声が響く。体の震えが止まらない。
もう終わりだと最悪の未来を想像した瞬間、突然、男たちの顔色が変わった。
「おい、なんだありゃ……」
顔色を青くして震えだした男たちが見ていたのは私の背後だった。
恐る恐る振り向くとそこには━━━━
「ウゥ……」
唸り声をあげる大きなオオカミのような生き物が、いた。
「ような」と表現したのは、そのオオカミが2本の後ろ足で、まるで人間のように立っていたからだ。
「おおかみ……おとこ……?」
信じられない光景に、男たちに追われていた状況も忘れ、ただただ目を見開く。エミリアの口からこぼれたのは、最近乳母が読んでくれた本の中に出てきた、異形の生き物の名前だった。
するとその生き物━━━狼男は、視線を落としエミリアを視界に入れ、そしてまるでエミリアの言葉を肯定するかのように、ゆっくりと瞬きをした。
「ば、ばけもんだ!!」
男たちが慌てて剣を構える。エミリアから視線を外した狼男は、ゆっくりとした動作でエミリアの横を通り過ぎ、男たちと相対した。
男たちは少しの間躊躇していたが、やがて耐えきれなくなったかのように1人が斬りかかっていった。狼男は自分に迫り来る刀身をなんなく避けると男の脇腹めがけて左腕を振るう。あっという間に鋭利な爪が脇腹を切り裂き、男は傷口を押さえながら倒れ込んだ。
「うわああああ……!!」
残りの男たちはそれを見てかなわないと悟ったのか、その場から逃げ出した。しかし、狼男の方が動きが早く、あっけなく追いつかれる。1人が嚙みつかれ、腕から鮮血がしたたり落ちた。
その光景を見ながら、エミリアはスゥっと意識を失った。
『むかしむかしあるところに、月夜の晩にオオカミに変身してしまう男がおりました━━━━』
薄れゆく意識の中で、物語を語ってくれた乳母の声がした。
よくある前口上からはじまるその物語は、この国に実在する侯爵家にまつわる言い伝えだった。
ひとまず連載スタートです。
スローペースになるかと思いますが、広い心でお付き合いください。