大晦日はやっぱり蕎麦だよね、和希
1900年代も今日で最後だ。
28日に大掃除も済ませてもうやる事はやったので、後は毎年恒例になっている皆と夜カウントダウンをするだけだ。
大晦日にK区のSと言うバーに集まり、皆でカウントダウンをする、汽笛の音を聞きながら年越しを迎えるのが恒例になっている。たまに、佐野厄除け大師や川崎大師に行く事もあるが基本的にはSでのカウントダウンだ。そのせいか年越し蕎麦は実家にいる時しか食べた事がない。
蕎麦が嫌いな訳でも、アレルギーがある訳でもない、どちらかと言うと蕎麦は好きだ。十割の田舎蕎麦もいいが、蕎麦がぼそぼそになって提供される場合が少なくない。蕎麦粉だけで打ってあるので蕎麦が千切れやすくぼそぼそになってしまうのだ、見た目も黒っぽく麺が太いのが特徴なのだが、私はそんな田舎蕎麦より白い麺の更科と呼ばれる蕎麦が好みだ。又、蕎麦前と言う酒の肴も好きだ、蕎麦屋は蕎麦だけを食べる所ではない。蕎麦を食べる前に、塩辛、板わさ、だし巻き玉子、鴨焼き、天婦羅等を食してから最後にモリを一枚食べ、蕎麦湯を飲む。この蕎麦湯を飲んでいる時は至福を感じる、蕎麦の甘い薫りが鼻に抜けて行くのが堪らない。
「今年は近所の蕎麦屋にでも行くか」
独り言を呟く、しかし蕎麦前をすると量が多く、モリにたどり着く前に途中でお腹がいっぱいになってしまう。出前を取る方が無難だ、蕎麦を食べてからカウントダウンに行こう、冷蔵庫にマグネットで留めてある蕎麦屋のお品書きを手に取った。モリ一枚出前してくれるのだろうか、多分無理だろう。ダメ元で電話をかけてもいいのだが、面倒臭がりの私はあっさりと蕎麦を諦める。
電話が鳴った、表示は公衆電話だ。
和希だ、咄嗟に思って、4回コールを聞いてから携帯電話の通話ボタンを押した。
「長瀬さん?」
「はい、この間の日曜日はご馳走様でした」
「今日少しお時間取れますか?」
「勿論です」
時計を見ると午後2時だった。彼は横浜迄出て来るらしい、西口のGと言う喫茶店で3時半に待ち合わせる事にした。
クローゼットから何着も服を引っ張り出してあれこれと考える、服を選ぶのは楽しい作業だ。色々迷った末にグレーのスーツを選んだ。髪はポニーテールにしてシャネルの髪留めを着けた、これでミンクのコートを着れば出来上がりだ。
Gには10分前に着いた、アイスコーヒーを注文する。胸が高鳴っているのが分かる、何を期待してるんだ、高々お茶してせいぜいご飯をを食べる位だろう。そう自分に言い聞かせるが胸の高まりは鎮まない。
それにしても何の用だろう、私は和希に用件を聞くのを忘れていた。普段なら絶対相手に用件は聞く筈なのだがそんなことより彼が電話をくれたのが嬉しくてつい忘れていた。
「お待たせしました」
小さな紙袋を持って彼は現れた。
「待ちましたか?」
「私も今来たばかりです」
「お忙しくなかったかな?」
「やる事無かったんですよ、大掃除も3日前に済ませちゃったし」
「良かった、年越しだから忙しいかもとも思ったんですがお時間裂いてもらえるのは嬉しいなあ」
今年はパチスロで負け越してるし、体調も余り良くなく、録な事がないと思っていたが、彼と出会えたのはラッキーだった。嫌な事が多かったがこれでチャラどころか大きくプラスになった。
「大晦日だから良かったら蕎麦でもと思ってね」
「やった!お蕎麦、さっき食べようと思ってました」
「僕はタイミングがいいみたいだな」
そう彼は笑った。
「三島さん、タイミング滅茶苦茶いいですよ、良過ぎてびっくりしました」
二人で地下街の蕎麦屋に入る、出汁の良い匂いがする。大晦日だが比較的空いていた。ここは更科だ、私の好みに合いそうだ、横浜駅の地下街にこんなに本格的な蕎麦屋があるのは知らなかった。
「先ずは、どうしようか?」
「やっぱり蕎麦前です」
「蕎麦前ねえ、ちゃんと知ってるんだね頼もしいお嬢さんだ」
塩辛とだし巻き玉子、天婦羅の盛り合わせを頼んで、私はウーロン茶、彼は焼酎の蕎麦湯割で乾杯した。勿論鴨焼きも頼んだ。
「あ、長瀬さんそうそう忘れてました」
彼は紙袋を手渡した。
「見てもいいですか?」
「どうぞ是非見て下さい」
中には可愛らしい額縁に入ったアンリ・ルソーのmonkeys in the jungleのレプリカとお土産用に包装された食べ物が入っていた。
「ルソーだぁ」
「そのお猿さん中々可愛いでしょう?」
絵の中の猿はコミカルで可愛い、一緒に描いてあるオレンジと猿の顔が同じ大きさだ。
「仕事納め帰りに観て来ました、可愛らしい絵なので長瀬さんにと思ってね」
「ありがとうございます、嬉しい」
「もう一つは貰い物で申し訳ないんですが、鮑の煮貝です、僕の好物ですが召し上がってみて下さい」
鮑は私も好物だ、だが最近は鮑の煮貝を装ったロコ貝なる物が出回っていて安価ではあるが美味しくはない。本物の鮑の煮貝はそれなりの値段がするので美味しいが高いので安易に手は出せない、和希がくれるんだから多分本物だろうと思った。
「あ、それから」
彼はポケットから携帯電話を取り出した。
「三島さん携帯持ってるんですね」
「一応ね、僕は余り携帯電話と言う物は好きではないんだ」
「そうなんですか、残念」
「でもね」
彼は私の番号をプッシュしてワンコールで電話を切った。
「長瀬さん、貴女は特別だよ」
「ありがとうございます、凄く嬉しい」
私はその場で彼の番号を登録する、これで何時でも和希と連絡が取る事が出来る。
蕎麦前と蕎麦を食べながら蕎麦について談義する、彼も更科の方が好みの様だ。蕎麦は江戸時代に地方から伝わり、原形は蕎麦がきと言われる代物で今の形は蕎麦切りと呼ばれていた、江戸の三大蕎麦は藪、更科、それから大阪にルーツを持つ砂場だ。私は都内のFがお気に入りだ。
「お蕎麦本当に好きなんですね、僕は蕎麦なんて野暮ったいって言われたらどうしようかって思ってました」
「お蕎麦を野暮って言う人が野暮です」
「じゃあ今度むきそばを食べに行きましょう」
むきそば、聞いた事が無かった。どんな蕎麦なんだろうと思い巡らせたが分からなかった。
「山形の郷土料理ですよ、ランチで時々行く店がある、今度、そうだなあ、年明けにでもご案内します」
「楽しみです、期待しちゃいます」
蕎麦屋を出て京浜急行の改札へと向かう、和希は実家で正月を迎えるのだそうだ。
その年のカウントダウン、私はいつもよりはしゃいだ。(続)