浮世絵だけじゃない、有馬記念の和希
和希と別れた後、なんだかウキウキとした気分になって雨が降っているにも関わらずアメ横を冷やかして歩き、結局御徒町から京浜東北線で帰路に着いた。冷たい雨の中で長い事外に出ていたせいか風邪を引いてしまった。部屋に着くと寒気がして直ぐに風呂に入ったが、尚寒気がする、と、言うより寒気が増している、これは不味い。私は時々扁桃炎で高熱を出してしまう事があるので早く対処しなければ後が辛い。
クローゼットからまだ使った事のない分厚い毛布を出してベッドの羽毛布団の上に広げ、マスクを探し出し鼻を出す掛け方をして床に就いた。これでダメなら自分の馬鹿さ加減を呪うしかない。
翌日、目を覚ますと身体の節々が少々痛んだが熱を計ったら平熱だった。最悪の事態は避けられた様だ。
昨日貰った図録は開けないままリビングのソファに置きっぱなしになっている、私はキッチンでコーヒメーカーでアイスコーヒーを作り、ソファで図録をパラパラ捲った。寛政三美人の項で手が止まる、和希が大好きだと言った絵だ。私も昨日観た展示の中ではこれが一番気に入っている。
お礼のメールをしようと私はバッグの中から携帯電話を取り出して昨日のお礼を書き込む。簡単で簡潔な文章にした、文字数が限られているので長々とした文は送れない「昨日はコーヒーと図録ありがとうございました」とだけ送った。
返事は5分程で届いた。
それから土日を除くほぼ毎日私達はメールのやり取りをする、その中で和希が鎌倉山に住んでいる事を知った。私も横浜の掃部山公園の近くに住んでいる事を伝えた。残念ながら未だ食事の誘いはなかった。
12月最後の日曜日、これは普段競馬をやらない人間でも知っているであろう、有馬記念と言うレースがある。一年の締めくくりと言うレースだ、勿論強い馬が出る。私は春秋の天皇賞、安田記念等、大きなレースは馬券を購入する、勿論有馬記念も買う。専ら枠連で人気馬を数点買うだけだが、時々思わぬ小遣いになる。
私の住まいからHの場外馬券場は近い、その日も午前中に馬券を買いに行った。普段なら数点買うのだが何故か一点しか思い浮かばなかったので、枠連を一点、一万円分購入した。多分一番人気の組み合わせだ。
馬券を購入して帰る途中、コンビニでお茶とポテトチップスを買う、のり塩かコンソメかで迷ったが青海苔が歯に付くのは嫌なのでコンソメにした。帰ったらテレビの競馬中継を見ながらソファでゴロゴロしよう、理想的な日曜日の過ごし方だ。
お昼ご飯代わりのポテトチップスを食べながらテレビを見る、ポテトチップスは何時食べても塩気がキツくて喉が渇く。ペットボトルごとお茶を飲んだ。
あっという間に時間は有馬記念の中継時間になったのでチャンネルを変える、レース自体より前振りが長い。矢張私の買っている馬券は一番人気みたいだ、多分当たってもそんなに儲からない。オッズは5倍を切ってしまうだろう、下手したら3倍代かも知れない。それでも当たれば嬉しい、そんなものだ。
レースが始まる、中山競馬場の熱気が画面からも伝わってくる、手に汗握る展開には成らずあっさりと1900年代の最後の年はグラスワンダーが有馬記念を制した。2着はスペシャルウイークだ。取れた、私は小さくガッツポーズをした。
その時携帯電話の無機質な呼び出し音がなった。表示は公衆電話になっている、訝しく思ったが電話に出たら和希からだった。
「長瀬さん、これからお時間取れますか?」
食事の誘いだ。断る理由はない、むしろ私から誘いたかった処だ。
「私、何処に行けばいいですか?」
公衆電話の外がかなり賑やかだ、声が聞き取り難い。
「僕ね、場外馬券場にいるんです、Hの」
和希は有馬記念をやっていた様だ。私はH駅の目の前の洋菓子店Fの二階を指定した、ここなら分かりやすいだろう。
「支度してから出ます、待ってて下さいね」
電話を切り、急いで、だがしっかりと身支度を整える。姿見で全身くまなくチェックしてタクシーを呼ぶ、待ち時間が長く感じる、5分で到着すると言っていたが、その5分が1時間位に感じた。
タクシーを降り、Fの階段を小走りで駆け上がると少しだけ息が切れた。店内を見回すと、窓際の4人掛けのテーブルに和希は座っていた。私に気付くと、右手を上げる。
「やあ、突然申し訳なかったね」
「全然、予定入ってないし大丈夫です」
「ちょっと有馬で儲かったからお誘いしようと思ってね」
「私も当てましたよ有馬記念」
「おめでとう、長瀬さんは競馬をやるんだね」
「大きなレースは時々買います」
私はまだ払い戻してない馬券を彼に見せた。
「お〜これは中々勝負師なお嬢さんだ、一点だけ?」
私は普段は数点買うけれど今日は一点に絞れたと伝えた。
「そうやって絞れる時は割と当たるね、僕なんかは何時も沢山買ってしまうよ」
「三島さんは幾ら持ってたんですか?」
「うん?内緒」
「あ、ずる〜い、私馬券迄見せたのに〜」
私は頬を膨らませた。
「そうだね、フェアじゃない」
「ですよ〜」
彼はテーブルから身を乗り出して私の耳元で囁いた。
「桁が1つ多い」
正直びっくりだ。一点に十万も突っ込む人を知らない訳では無かったがこんなに身近にいるとは思わなかった。
「今日は堅かったからね、我ながら上手く行ったと思う」
「凄いです、安いけどそれだけ買ってたら40万超えちゃいます」
「ちょっとした臨時収入になるからね」
私はその40万をちょっとした臨時収入と言う和希の服装を見る。暖色系の淡い色のシャツに落ち着いた緑色のカシミヤのセーター、上に濃いグレーのジャケットを羽織っている。パンツはカーキ色の普通の綿のパンツだ。何処と無く上品な匂いがする清潔な休みの日のお父さんと言った処だ。
「三島さん、それより今夜は何をご馳走してくれるんですか?」
「う〜ん、そうだなあ、僕は焼売が食べたい」
焼売、分かりやすい。シウマイではないから崎陽軒ではない筈だ、崎陽軒はシウマイであって焼売ではない。
「中華街に行きましょう」
中華街の焼売なら味はSが一番だと思う。裏通りにある庶民的な店だが、焼売の味はピカ一だ。勿論私は崎陽軒が一番好きだが、中華街で食べるならSしかない。しかしSは有名ではない、果たして彼が知っているのだろうか、ここで表通りの高級なだけの店に案内されたら興醒めだ。
彼は流しのタクシーを拾うと道順を告げる、間違いない、Sの通りだ。
「三島さん、もしかしてSですか?」
「分かりましたか?僕ねあそこの焼売大好物」
Sに着くと無愛想な従業員が席に案内してくれる、と言ってもわざわざ案内する程広い店ではない。
「長瀬さん飲み物は何にしましょうか?」
私はアルコールにアレルギーがあると言った。
「では、ウーロン茶かジャスミン茶で宜しいですか?」
黙って頷いたが、メニューにジャスミン茶が無かったので消去法でウーロン茶になった。
「ここにはテー・ハスミンはないんだね、僕は飲んべえだからソフトドリンクのメニューは見ないから知らなかった」
焼売と渡蟹の炒め物を突つきながらウーロン茶を飲んだ、彼は紹興酒を燗にした物を飲んでいる。ここの焼売は美味しい、何時食べても味が変わらない、安定した美味さだ。
和希との会話は主に競馬だった。彼は競馬はかなり詳しい、私はそんなに競馬はやらないが、そんな私にも分かりやすく説明してくれる。楽しい話だ。詳しく知らなくても充分過ぎる程楽しい。
「少しお腹に溜まる物をオーダーしましょう」
そう言って彼は上ワンタンの塩を頼んだ。出来る、矢張この男は分かっている、ここに来たらワンタンは塩だ。普通に頼むと醤油のワンタンが供されるのだが、塩味のワンタンの方があっさりしていて美味しいのだ。
「どうもね、一人の食事は味気なくてね」
彼はポツリとそう呟く。
「そんな事言うと、奥さん悲しんじゃいますよ」
ちょっとおどけてそう言った。
「う〜ん、奥さんね」
彼は腕を組んで眉間に少し皺を寄せる、眼鏡のメタルフレームが光った。
「奥さんね、死んじゃった」
箸を落としそうになった。失言だ、悪い事を言ってしまった。多分私の顔は地雷を踏んだ人間の顔になってしまっているが構わず彼は続けた。
「去年の夏、白血病だったよ、骨髄性のね、半年程だった」
「ごめんなさい、私凄く失礼な事言ってしまって」
「いいんだよ、僕も長瀬さんに伝えてないから」
彼は一瞬だけ酷く悲しそうな表情をしたが、直ぐ元に戻った。
私は何か言わなければと思ったが適当な言葉が見つからずに、謝り続けた。
「気を遣わなくていいんだよ、言わなかった僕に責任はある」
怒ってはいない様で私は少しほっとしたが、悲しい事を思い出させたのには心が痛む。
「そうだなあ、じゃあお詫びにもう一軒付き合って貰おうかな?」
彼は微笑みながら言う。
「いいですよ、お付き合いします」
「ありがとう、嬉しいですよ」
タクシーで福富町向かう。ここは横浜で一番の歓楽街だ、とはいえ今日は日曜日の夜だから人気は疎らだ。この町の丁度中心に老舗のCと言うショットバーがある、私達はその階段を登った。
「僕は何をオーダーしたらいいかな?長瀬さん貴女が決めて下さい」
「そう来ましたか、やっぱりファーストドリンクならマンハッタン、ベースはオールドパーなんかどうでしょう?」
彼はニコニコ笑って満足気に頷く。
彼の飲み物を私が決め、私の飲み物を彼が決めた。ノンアルコールのカクテルだ。
「長瀬さんとの出会いに乾杯」
グラスを合わせた。心地好い時間の流れだ、和希からは大人の男の余裕が感じられる。この時間が永遠に続けばいい、そう思った。
時刻はもう午後10時を回った。
「もう遅いのでお送りしましょう」
彼はタクシー拾い私達は乗り込む、私は運転手にマンション名を伝えた。
「そこに寄ったらそのまま鎌倉迄行って下さい」
和希はタクシーで帰るつもりらしい、信号待ちで停車している時、彼は私の手を握った。
「貴女は僕より先に死んではいけません」
囁かれた耳が熱くなる、胸の鼓動が高まった。
マンションに着くのに大して時間が掛からないのが口惜しい。
「明日、メールを下さい、楽しみにしています」
別れ際彼は微笑んで手を振った、私も手を振り返した。
部屋に入るとシャワーを浴びる事も忘れ、ベッドで枕に顔を押し付け足をじたばたさせた。(続)