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雨の美術館の紳士、和希



雨である、しかも寒い。

11月の下旬の平日朝から冷たい雨が降っている。こんな日はずっと部屋に閉じ籠るのが得策なのかも知れないが、私は朝っぱらから出掛けようと思っていた。

多分美術館が空いているに違いないと思ったからだ。上野で浮世絵展を開催しているのだ。

混雑している中での絵の観賞は損をした感じがする、人気のないガランとした美術館でゆっくり気に入った絵を心行く迄観賞するのが大好きだ。この雨と寒さで今日は人出も鈍っているだろうと踏んだ私は身支度をして外に出た。傘を差す左手が悴み、吐く息が少し白い。

バスで桜木町に出て上野迄の切符を買い改札を通った。上野へは京浜東北線一本で行くか、横浜で東海道線で東京へ行き京浜東北線か山手線に乗り換えるかと迷って、結局乗り換えが面倒なので京浜東北線だけで上野に出る事にした。その分多少時間がかかるかも知れないが乗り換えの時間も考慮したらきっと大差無いだろう。

午前10時少し前の京浜東北線は空いていて、端の席に座る事が出来た。電車に乗るとつい端っこの席に座りたくなる、どんなに空いていても座席は端が好きだ。

上野の改札を抜けると美術館に向かう前に先ずは腹ごしらえをしようとOと言う喫茶店に入ってアイスコーヒーとトーストを注文する、私は猫舌な事もありどんなに寒くてもアイスコーヒーだ。

簡単な朝食兼昼食を済ませて美術館に向かうともう昼近くだった。

案の定、中は人気が疎らでじっくり浮世絵を堪能出来そうだ。私は先ず一通りざっと観て回り気に入った絵をもう一度良く観ると言う観賞のスタイルを取るのだが、混雑している時はそんな事は出来ない。でも今日は思う存分に出来るだろう。

私は一通り観て歩く、小規模ながら中々の展示だと思う。お気に入りの絵がないのが残念だったが、数々の美人画や役者絵は観ていて楽しい。中には肉筆画もあった。いや、待てよ、浮世絵ってそもそも版画じゃないのか?何故肉筆画の展示があるのかが謎だった。

勿論僅かに春画の展示もある、春画は江戸時代のエロ本なのだろうが、観るとエロティックと言うよりコミカルに思える。葛飾北斎の「海女と蛸」等は相当コミカルだと思う。

三人の女が描かれた浮世絵の前に立って暫く眺める。この絵が気に入った、具体的に構図や何やらでは無くて、ただ気に入った。可愛いと思った。

「寛政三美人がお気に召しましたか?」

後ろで声がした。振り返ると男が立っていた。

「何か可愛い絵だなぁと思って」

美術館の中なので極力声を落として答えた。

「僕はこれを観に来ました」

彼は私の真横に立って絵を熱心に観ている、私もその絵がもう少し観たいともう暫く眺めた。

その後彼と私はソファに腰掛け小声で浮世絵について話した。ひそひそと話をするのは意外に疲れるし、美術館の中は乾燥しているので喉が渇いた。

「宜しかったらこの後お茶でも如何ですか?」

グッドタイミングだ。今正に喉が渇いている。

「いいですね、お受けします」

私はそう答えた。

二人で出口に向かって歩く、出口の所には図録や絵葉書が売っているスペースがあり、彼はそこで足を止めた。

「ちょっと待ってて下さい」

黙って頷く。彼は浮世絵展の図録を二冊購入し直ぐに戻った。

「お待たせしました、さあ行きましょう」

外はまだ雨が降っている、この分だと一日中雨だろう。傘を差して歩く、寒さは午前中と変わりなく寒い。こんなに寒いのに何故か彼はスーツのみの出で立ちだ、寒くはないのか、それとも寒さに強いのだろうか。

不忍口に程近いRと言う喫茶店に入る、ドアは彼が開けてくれた。エスコートには慣れていると見た。もしや新手のナンパ師かと思ったが、そう言う輩は人気のない美術館でナンパ等と非効率的な事はしないだろうと思って打ち消した。

「何にしますか?」

「アイスコーヒーで」

「では僕も同じ物にしましょう」

アイスコーヒーが運ばれて来る、私は頂きますと、一気に三分の一を飲んだ。乾いた喉に冷たいコーヒーが心地好い。

「申し遅れました、僕はこう言う者です」

彼はポケットの中から名刺入れを出し、一枚を私に差し出した。

エリートだ、間違いなく彼はエリートだ。名刺には名前を出せば誰もが知っている商社の名と役職が載っている。総務部次長とあった、多分偉い人なんだろう。名前は三島和希だ。

「私は長瀬と言います、名刺は持っていません」

少し恥じ入りながら名乗った。なんとなくだが彼の前で職業を口にするのは躊躇われ、私はただ苗字だけを名乗った。

「浮世絵はお好きですか?」

「はい、浮世絵だけじゃなくて絵は好きです」

「ほう、どんな絵がお好きなのか差し支えなければ」

私は浮世絵は葛飾北斎と歌川国芳が好きで、洋画はドラクロワが好きだと答えた。

「僕はね貴女が熱心に観ていらした歌麿の寛政三美人が大好きなんです」

そこから和希は浮世絵についてあれこれと語る。圧倒的な知識量だ、私の拙い知識等はほんの耳垢程度だ。しかも説明が上手く大した情報を持たない私にも分かりやすく聞く事が出来る。これは本当に頭の良い人だと感心した。

「そう言えば、浮世絵展ってなってましたけど肉筆もあったのは何でですか?」

「浮世絵は版画だけではありませんよ」

そう言うと簡単な浮世絵の歴史を解説してくれた。菱川師宣から始まるらしい。ならば見返り美人は浮世絵にカテゴライズされるのか。

江戸時代中頃はまだ多色刷りの、錦絵と呼ばれ時の文化人の物だった浮世絵はその後安く刷る事が出来る様になり庶民に役者絵や吉原の人気番付、諸国の風景等の絵として広がって行く。私は錦絵なら鈴木春信の見立絵、源氏物語が好きだ。役者絵の東洲斎写楽はあまり好みではない。

「あの寛政三美人にはそれぞれ名前も付いてますよ」

和希は右から中、左と、おきた、豊雛、おひさだと教えてくれる、持っている情報量が私では足下にも及ばない。

「歌麿の絵ではビードロを吹く娘もいいですよ」

頭の中に直ぐに構図が浮かんだと言う事は多分過去に観たことがあるだろう。

「貴女の好きな北斎は今回展示がありませんでしたね」

「そうなんです……え〜っと………」

「名前で呼んで頂いて結構ですよ」

「あ、はい、三島さん」

「はい」

「月並みですが北斎の富岳三十六景の神奈川沖浪裏が大好きなんです」

「貴女の仰る事は分かりますよ、あの浪の中に小さく描かれた富士山は可愛らしい」

北斎の話をしながら私は彼を見る。仕立ての良いスーツにストライプの清潔そうなシャツ、髪は特にセットはしていない自然な分け目が真ん中より2、3cm程右で、左手首にはオメガの革バンドの腕時計をさりげなくしている。ネクタイも紺のスーツに合わせて地味だが生地が良さそうに見えた。ザ・サラリーマンだ、しかもエリートでエスコートも上手く話も上手だ。左手の薬指に指輪こそ無いけれど妻帯者に決まっている。こんな男性が独身でいられる筈がない。

「三島さん、そう言えば北斎漫画ってありますよね?あれは浮世絵なんでしょうか?」

「あれは、北斎漫画でいいんですよ」

彼はニッコリ笑う、私もつられて笑った。

気が付くと随分話し込んでいた。もう午後5時近い、和希は腕時計を見た。

「おっと、もうこんな時間だ、会社に戻らないといけない」

「三島さん、仕事中だったんですか?」

「そうね、僕、サボリーマンだから」

会計を済ませ、二人で上野駅に向かう、名残惜しさが私を襲った。

「長瀬さん、今度改めて食事でも如何ですか?名刺の所にメールして下さい、なんなら電話して頂いても結構です」

美術館で買った図録の一冊を私に差し出す。

「荷物になってしまいますが、お近づきの記しです、三美人も載ってます」

そう言い残して不忍口の改札に吸い込まれて行った。(続)



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