第八幕 もうひとつの罪
火の手はいつの間にか王城を占拠し、後宮にまで侵入していた。
覆いの上がった窓の向こうで踊る炎に照らされ、母の部屋はいっそう赤く染まっていた。
――罪と狂気の色だ。
壁際に置かれた長椅子にわたしを横たわらせると、王は片膝をついて顔を覗きこんできた。
「大丈夫か?」
そっと頬に触れてくる指先はかさついていた。わたしは腕に力をこめ、王の手を振り払った。
皮肉にも晴天を思わせる王の瞳が細まる。なんとか起き上がったわたしは、正気でありながら狂っている男の双眸を睨んだ。
「わたしは、アニエスタではありません」
十六年間禁じられてきたその名に、王は微かに眉をひそめた。
アニエスタ。赤き罪の女。すべてを狂わせた運命の女。
わたしの、母。
「わたしはアニエスタの娘でしかない。母の身代わりにはなれません」
「……そうだな」
王はゆっくりと笑った。淡く今にも掻き消えそうな笑みは、ぞっとするほど壮絶だった。
「だがいったい、だれがそなたの名を知っている? アニエスタに生き写しの、アニエスタではないというそなたの名を」
今度はわたしが笑う番だった。
体の奥から笑いがこみ上げてくる。吐息のようだったそれは、やがて部屋中に響き渡った。
王はただじっと、笑い続けるわたしを見つめていた。その目には、きっと母の最期が映っているに違いない。
愚か者。
なぜわからぬのだ。
母はもう――どこにもいないのに。
「ふ、は……あなたが、あなたがそれを言いますか」
わたしはどうにか笑いを収めると、ぐにゃりと歪みかけた視界に眉間を引き絞った。
まだだ。
嘆くのは、怒るのは、今ではない。今こそこの男に知らしめねばならない。
さあ、愚かで憐れな王よ。聞くがいい。運命の娘の名を。
「陛下。だれよりあなたがご存じでしょう。わたしの名は――罪」
王の瞳が揺らぐ。ひび割れた唇が、アニエスタと小さく動いた。
いいえ、その名はわたしのものではない。
「わたしの名は、裏切り」
ドォンと轟音が上がり、窓ガラスがびりびりと震えた。
時が止まったようにわたしたちは見つめ合った。強張っていた王の表情がふっとゆるみ、彼は片手で顔を覆った。
一瞬だけ見えたそれは、今にも泣き出しそうな迷子のようだった。
「……許せなかった」
ぽつりと、涙のような呟きが落ちた。
「余は、アニエスタを愛していた。だれよりも美しく気高かった彼女を愛していた。だからこそ、余の隣で微笑んでいてほしかった。彼女以外の妃などいらなかった」
「……あなたは、母に王妃であることを強いた」
それは王にとって愛であり、母にとっては、男の定めた女という型に嵌められる苦痛でしかなかった。
「愛していたというなら、なぜ母の苦しみに気づかなかったのですか」
愛しているからこそ美しくいてほしい、自分の理想どおりであってほしい。そう望む心を理解できないわけではない。
だが――都合のいい夢想を押しつけることは、子どもの人形遊びと同じだ。
醜さも弱さも、そのすべてを見つめ、抱き締めることこそ愛ではないのか。
「あるがままの母を受け容れからこそ、あなたではなく騎士が選ばれた」
王を裏切ったのは母の罪。ならば、母を追い詰めたことこそ王の罪。
「あなたが母を失ったのは他でもない。……あなた自身のせいです」
窓の向こうで火柱が噴き上がり、音を立てて窓ガラスに亀裂が走った。
崩壊が近い。
「陛下……もうすぐこの城は落ちます」
わたしは項垂れたままの王に声をかけた。扉の外から慌ただしい足音が聞こえてくる。
「いかがなさるおつもりですか。もしもお逃げになるのなら、お早く――」
言葉は途中で遮られた。
骨張った大きな手が口元を押さえつけ、声を塞がれた。炎を映して激しく燃え上がる王の瞳に、わたしは硬直した。
「余は、王だ」
長椅子の背もたれに押しつけられる。王はぐっと顔を近づけてささやいた。
「この国の王、唯一無二の玉座に座る者。誇り高き王が無様に落ち延びるわけにはいかぬ」
王は笑った。うっとりと、白昼夢にまどろんでいるかのように。
「余は滅ぶ。この城とともに。……そなたとともに」
「――!」
わたしは王の指に歯を立てた。血が滲み、肉が抉れても王は手を外さない。
「幻でもよい。アニエスタを胸に抱いて、余は死にたい」
なぜ。
なぜ理解していながらわかってくれないのだ。わたしは母ではない。わたしはアニエスタではない。
わたしは――!
ドンッと、巨大な太鼓を打ち鳴らすような音とともに建物が揺れた。
王がハッと顔を上げる。わたしはその肩の向こうで、奥殿に踏みこんできた敵兵の鬨の声を聞いた。
たちまち奥殿は剣戟の嵐に包まれる。怒号、悲鳴、物が倒れ破壊される音。入り乱れる無数の足音。
やがて扉の外も騒がしくなりはじめた。ゆっくりと王が立ち上がる。
このときはじめて、わたしは彼が戦装束に身を固めていることに気づいた。
深く鮮やかな紅の地に黄金色の刺繍が浮かぶ外套が翻る。十六年ぶりに抜き放たれた白刃が照り返す炎のなかに、鋭い双眸が刹那映りこんだ。
間違いなく、そこにいたのはひとりの王だった。
弾けるように扉が開き、見慣れぬ武装の兵士たちが雪崩れこんでくる。その後ろから現れた人影に、わたしは目を奪われた。
「……貴殿がレイシア国王、ヴランヒルト殿か」
「いかにも」
笑みを含んだ王の肯定に、そのひとは金緑色の瞳を細めた。
癖の強い黒髪、漆黒の戦装束に浮かび上がるような白い肌。捉えどころのない猫のようだったまなざしは、もっと獰猛で威厳に満ちた――百獣を従えるという獅子のような。
「我が名はトゥスタ国王、アレクシオ」
赤く濡れた長剣の切っ先が王に向けられる。頬に飛んだ返り血を拭いもせず、黒猫は――敵の王は厳然と告げた。
「貴殿の命……貰い受けにきた」