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裏切りの翼  作者: 冬野 暉
本編
8/30

第七幕 終焉のはじまり

 嗅いだこともない異臭に目が覚めた。

 口の奥が酸っぱくなるような、怖気立つ熱を孕んだ臭い。

 ――生きものが焼かれる臭いだ。

 わたしは飛び起きると、唯一ある小さな格子窓にかじりついた。鉄格子を握り、爪先立ちになって必死に眼下を凝視する。

「あぁ……」

 こぼれたのは、納得か絶望か。

 炎の海。

 塔の遥か下、王城の裾野から広がる街並が――都が燃えている。

 夜空を赤く染めるほどの業火。舞い上がる火の粉が、まるで降り注ぐ星屑のようだ。

 熱風に乗って異臭ともに運ばれてくる、数えきれぬ人の叫び。

 終わりだ。

 終わりがはじまった。

 視線を移すと、王城からも煙が上がっていた。蠢く黒い影――あれはひしめき合う兵士たちだ。甲高い剣戟の音が脳を揺さぶった。

 足元から複数の軍靴の音が響いてくる。塔を駆け上がってきた気配は、息を切らして牢の扉を打ち破った。

「――ご無事か!」

 現れたのは、甲冑に身を包んだ数人の騎士だった。ぼうっと立ち尽くすわたしの前で、彼らは呼吸を整えると片膝をついた。

「陛下の命によりお迎えに上がりました。どうぞ我らと塔を下り、後宮へとお隠れください」

「……後宮へ?」

 手前の騎士が頷く。汗にまみれたその面立ちは凛々しく、まだ若かった。

「後宮の奥殿に、王妃陛下並びに王太子殿下をはじめ、王族の方々がお集まりです。あなた様も、そちらにお連れするようにと」

「国王陛下は?」

 王はどこにいるのだろうか。そんなことが気になった。

 騎士は一瞬、痛みにも似た表情を浮かべた。

「……陛下も奥殿に。あなた様を、お待ちです」




 はじめて顔を合わせた王妃は、色白で儚げな、わたしと十も変わらぬ女性だった。

 彼女は小さな息子をきつく抱き締め、青ざめた顔でわたしを睨んだ。

「なぜ――おまえのような者がここにいるのです」

 奥殿に避難していたのは、王族の女たちばかりだった。男たちは皆、戦いに出ているのだろう。

 女たちのまなざしは王妃と同じだった。憎悪と恐怖に凝り固まった目。

 まるで――忌まわしい亡霊でも見るような。

「ここは、ここはおまえがいてよい場所ではない。出ていきなさい!」

「……王命です」

 わたしは冷めた思いで言い返した。王妃の顔がいっそう白くなる様が他人事のようだ。

「国王陛下が直々に騎士の方々を遣わされました。王命によって、わたしはここにいるのです」

「なん、ですって……」

 王妃の体が震える。母親の不穏が伝わったのか、腕の中の王子が激しく泣き出した。

「なぜ……なぜそんな」

 王妃はいやいやをするように首を振ると、その場に崩れ落ちた。周囲の女たちが慌てて支える。

「いつも、いつもいつも、おまえはそうやって陛下のお心を奪っていく。おまえがいる限り、陛下はわたくしを見てくださらない……」

 虚ろになっていく王妃の瞳に、息を呑んだ女のひとりが王子を取り上げた。それに気づきもせず、ゆらりと王妃は立ち上がる。

「おまえさえ――おまえさえいなければ!」

 昏い双眸を見た。

 そう思った次の瞬間には、勢いよく押し倒されていた。

「……ッ」

 背中を打ちつけた衝撃に息が詰まる。大きく喘いで酸素を求めるが、それは叶わなかった。

「よくも、よくも……っ」

 馬乗りになった王妃がぎりぎりと首を絞めてくる。見上げたその顔にもはや美しさはなく、嫉妬に狂う般若の形相だった。

 視界が赤に、青に、点滅するように目まぐるしく色を変える。だれかの悲鳴が遠く聞こえ、わたしは声にならぬ叫びを上げた。

 違う。わたしは――母ではない!

「っあぁ!」

 圧迫感が唐突になくなった。わたしは体を折り曲げ、激しく咳きこんだ。そのままうずくまっていると抱き上げられる。

「……何をしていた」

 地を這うような低い声に、わたしは目を見開いた。

「これに、何をしていた」

 わたしは横抱きにした王は、部屋の隅まで殴り飛ばされた正妃を冷たく見据えた。髪を乱し、床に這いつくばった王妃は、震える手を王に伸ばす。

「陛下、陛下……」

 ただひたすら王を恋うその姿は……憐れだった。

 そんな妻に慈悲すらなく、王は残酷に告げた。

「わきまえよ。世継ぎを産んだ時点で、そなたの役目は終わったのだ」

 王妃の動きが止まる。

 やがて、彼女は床に突っ伏して泣き崩れた。

 男を求める女の泣き声と、母親を求める幼子の泣き声が交錯し、しかし重なり合うことはない。

 王は泣きじゃくる我が子と凍りついた女たちを一瞥すると、踵を返した。

 どこへ向かうのかと尋ねかけたわたしは、口をつぐんで目を伏せた。

 体を支える男の腕に力が籠る。逃がしはしないとささやくように。

 ――黒猫。

 わたしは心のなかで、強く少年を呼んだ。

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