第七幕 終焉のはじまり
嗅いだこともない異臭に目が覚めた。
口の奥が酸っぱくなるような、怖気立つ熱を孕んだ臭い。
――生きものが焼かれる臭いだ。
わたしは飛び起きると、唯一ある小さな格子窓にかじりついた。鉄格子を握り、爪先立ちになって必死に眼下を凝視する。
「あぁ……」
こぼれたのは、納得か絶望か。
炎の海。
塔の遥か下、王城の裾野から広がる街並が――都が燃えている。
夜空を赤く染めるほどの業火。舞い上がる火の粉が、まるで降り注ぐ星屑のようだ。
熱風に乗って異臭ともに運ばれてくる、数えきれぬ人の叫び。
終わりだ。
終わりがはじまった。
視線を移すと、王城からも煙が上がっていた。蠢く黒い影――あれはひしめき合う兵士たちだ。甲高い剣戟の音が脳を揺さぶった。
足元から複数の軍靴の音が響いてくる。塔を駆け上がってきた気配は、息を切らして牢の扉を打ち破った。
「――ご無事か!」
現れたのは、甲冑に身を包んだ数人の騎士だった。ぼうっと立ち尽くすわたしの前で、彼らは呼吸を整えると片膝をついた。
「陛下の命によりお迎えに上がりました。どうぞ我らと塔を下り、後宮へとお隠れください」
「……後宮へ?」
手前の騎士が頷く。汗にまみれたその面立ちは凛々しく、まだ若かった。
「後宮の奥殿に、王妃陛下並びに王太子殿下をはじめ、王族の方々がお集まりです。あなた様も、そちらにお連れするようにと」
「国王陛下は?」
王はどこにいるのだろうか。そんなことが気になった。
騎士は一瞬、痛みにも似た表情を浮かべた。
「……陛下も奥殿に。あなた様を、お待ちです」
はじめて顔を合わせた王妃は、色白で儚げな、わたしと十も変わらぬ女性だった。
彼女は小さな息子をきつく抱き締め、青ざめた顔でわたしを睨んだ。
「なぜ――おまえのような者がここにいるのです」
奥殿に避難していたのは、王族の女たちばかりだった。男たちは皆、戦いに出ているのだろう。
女たちのまなざしは王妃と同じだった。憎悪と恐怖に凝り固まった目。
まるで――忌まわしい亡霊でも見るような。
「ここは、ここはおまえがいてよい場所ではない。出ていきなさい!」
「……王命です」
わたしは冷めた思いで言い返した。王妃の顔がいっそう白くなる様が他人事のようだ。
「国王陛下が直々に騎士の方々を遣わされました。王命によって、わたしはここにいるのです」
「なん、ですって……」
王妃の体が震える。母親の不穏が伝わったのか、腕の中の王子が激しく泣き出した。
「なぜ……なぜそんな」
王妃はいやいやをするように首を振ると、その場に崩れ落ちた。周囲の女たちが慌てて支える。
「いつも、いつもいつも、おまえはそうやって陛下のお心を奪っていく。おまえがいる限り、陛下はわたくしを見てくださらない……」
虚ろになっていく王妃の瞳に、息を呑んだ女のひとりが王子を取り上げた。それに気づきもせず、ゆらりと王妃は立ち上がる。
「おまえさえ――おまえさえいなければ!」
昏い双眸を見た。
そう思った次の瞬間には、勢いよく押し倒されていた。
「……ッ」
背中を打ちつけた衝撃に息が詰まる。大きく喘いで酸素を求めるが、それは叶わなかった。
「よくも、よくも……っ」
馬乗りになった王妃がぎりぎりと首を絞めてくる。見上げたその顔にもはや美しさはなく、嫉妬に狂う般若の形相だった。
視界が赤に、青に、点滅するように目まぐるしく色を変える。だれかの悲鳴が遠く聞こえ、わたしは声にならぬ叫びを上げた。
違う。わたしは――母ではない!
「っあぁ!」
圧迫感が唐突になくなった。わたしは体を折り曲げ、激しく咳きこんだ。そのままうずくまっていると抱き上げられる。
「……何をしていた」
地を這うような低い声に、わたしは目を見開いた。
「これに、何をしていた」
わたしは横抱きにした王は、部屋の隅まで殴り飛ばされた正妃を冷たく見据えた。髪を乱し、床に這いつくばった王妃は、震える手を王に伸ばす。
「陛下、陛下……」
ただひたすら王を恋うその姿は……憐れだった。
そんな妻に慈悲すらなく、王は残酷に告げた。
「わきまえよ。世継ぎを産んだ時点で、そなたの役目は終わったのだ」
王妃の動きが止まる。
やがて、彼女は床に突っ伏して泣き崩れた。
男を求める女の泣き声と、母親を求める幼子の泣き声が交錯し、しかし重なり合うことはない。
王は泣きじゃくる我が子と凍りついた女たちを一瞥すると、踵を返した。
どこへ向かうのかと尋ねかけたわたしは、口をつぐんで目を伏せた。
体を支える男の腕に力が籠る。逃がしはしないとささやくように。
――黒猫。
わたしは心のなかで、強く少年を呼んだ。