第六幕 戦火
焦げつくような不穏が王城に広がっていた。
といっても、〈浄罪の塔〉に隔離されているわたしに届くものなど女官たちの噂話程度だ。それでも、何があったのか察するには充分だった。
――これまで膠着状態だった敵国との戦況が、一気に悪化した。
拮抗する戦力に小競り合いをくり返すばかりだったが、ここに来て天秤が傾くように我が国が劣勢に追いこまれた。
敵国は一年前に王が代替わりし、その新王が指揮を執っている。聡明で戦にも長けていると聞くが、やはり年若く経験が浅いせいか、あと一歩のところで老練な王に及ばない。
しかし、最近の戦では今まで以上に優れた戦術によってこちらを惨敗させている。難攻不落と謳われた砦が陥落したことを契機に、敵軍は破竹の勢いで都に迫りつつあった。
若き王は、勝利の女神を手に入れた――。
民の間ではそんな噂が流れているらしい。実のところ優秀な軍師を抱えたのだろうが、『女神』と言われるからには女性なのだろうか? それは決してありえぬことではない。
我が国ではとうてい考えられぬが、かの国では先々代の王の頃から女であっても才あれば官吏に取り立てられるようになった。また広く優秀な人材を募るとして、身分にかかわらず国の定めた試験に合格した者には仕官の道が開かれる。
王族と貴族、そのなかでも男だけの閉鎖的な政を正統とするこの国の人々は、蛮行と一笑に付した。だがその蛮行こそが、両国に絶対的な差をもたらしたのではないだろうか。
この国は――腐っているのかもしれない。
長い間『伝統を重んじる』というしがらみに縛られ、内へ内へと鎖していった末に毒を生み、もう手遅れなほど蝕まれているのかもしれない。
もしも都が落とされたら、王はどうなるのだろう。まだ幼い世継ぎの王子、その母妃は。城の者たちや都の民は。
そして、わたしは?
いくら考えたところで、籠の鳥であるわたしになす術はない。
どうしようもなく、わたしは無力だった。
「なぁ小鳥、これをどう思う?」
あの一件以来、黒猫に戦術について訊かれることがたびたびあった。密やかな逢瀬はここのところ間が空くようになり、わたしは彼と戦談義ばかりしている気がした。
今宵も来るなり早々ゲーム盤に駒を並べ、身を乗り出して尋ねてくる。わたしは思いきり顔をしかめてやった。
「知らないわよ、そんなこと。少しは自分で考えなさいな」
黒猫はぱちりと瞬き、それから困ったように頭を掻いた。
「……なんか機嫌悪いな」
「あなたには関係ないかもしれないけれどね、……戦が近づいてきているのよ」
わたしは固く両手を組み合わせた。
「敵軍は、もう都の目と鼻の先まで迫っている。戦の狼煙が上がるまで、時間の問題だわ」
盤上の戦いしか知らぬわたしとて、そのおそろしさは想像できる。街を、人を、あっけなく焼き尽くす戦の炎。逃げ惑う人々の悲鳴や絶叫。血に狂った敵兵の暴虐。
王の娘として引きずり出され、首筋に振り落とされる刃の冷たさを、あるいは獣じみた笑みを湛えて圧しかかってくる男たちを思い浮かべ、わたしは身震いした。
「……怖いか?」
ふと黒猫の声が凪いだ。見つめてくる金緑色の瞳が静まり返る。
「戦が怖いか?」
「……そんなの、当たり前じゃない」
戸惑いながら視線を返すと、彼は笑った。
それは、心臓をすうっと冷たい手で撫でられるような――どこか悲しい微笑みだった。
「そうだな。戦はおそろしい。だれにとっても災厄でしかない。だけど……一度はじめたからには、終わりにしなくちゃいけない」
白く長い指がゆっくりと黒い駒を動かす。いつだって、黒猫はその名のとおり黒を選んでいた。
闇の色。夜の色。
死者を悼む喪の色。
「勝利っていう確かな形で、決着をつけなきゃいけない」
ここにいるのはだれだと、今更のように思った。
わたしは今まで黒猫の素性を問わなかった。出会ったとき、言外に脅されたせいもある。だが何よりわたし自身が、本当の彼を知ることを避けていた。
黒猫にとってわたしはただひとりの小鳥だと言ってくれたように、わたしにとってもただひとりの黒猫であってほしかったのだ。
それ以外の黒猫など、知りたくなかった。
「そのために、俺はここにいる」
黒の軍勢が白の『王』を追い詰める。あとはただ、最後の一手を下すだけ。
夜にこそ美しく輝く瞳がわたしを誘う。
「小鳥……あんたの力が必要なんだ」
ごくりと喉が鳴った。
掌にじっとりと汗が滲む。逃げ出したいのに目が逸らせない。
あなたはだれ?
声にならない問いかけに、黒猫は微かに笑みを深めた。あの夜の、彼の言葉を思い出す。
鳥籠が開かれたとき、わたしは――。
「――ッ」
わたしは渾身の力で目を閉じると、きつく歯を食い縛った。
黒猫は、すでに覚悟を決めた人間なのだ。
生きるための覚悟、己の選択によって生じたすべてを受け止める覚悟を。
では、わたしは?
わたしは……黒猫を信じたい。
たとえ彼が何者であっても、わたしの黒猫を、ともに過ごした時間を真実だと信じたい。
その果てに待つものさえも受け入れられる、強さを。
わたしは目を開けると、盤上に向かって手を伸ばした。
ひとつの黒い駒を取る。打つべき場所を迷うはずがなかった。
「――王手」
黒猫が静かに告げた。
その瞬間、わたしは新たな運命を手に入れた。