第五幕 塔の上の軍師
寝台の端に腰かけた黒猫は足を組み、その上にゲーム盤を乗せて更に駒を並べていた。なんとも器用なことだと呆れてしまう。
今宵の一戦を終えたあと、彼はすっかり定位置となったそこでずっと盤上を睨んでいる。次の駒をいじくり回している手元から、何やら考えこんでいるようだった。
掛布の中に潜りこんだわたしは、枕を抱えてその様子を見ていた。
「……駄目だ」
やがて黒猫はため息をこぼし、手元の駒を盤上に投げ出した。その拍子にいくつか駒が倒され、乾いた音を立てた。
わたしはあくびを噛み殺しながら尋ねた。
「新しい戦術でも考えていたの?」
返ってきたのは、恨めしげなまなざしだった。
「ひとが悩んでるときに布団の中でぬくぬくと……」
「そんなの八つ当たりだわ」
むっとしつつ、なんとなく居心地が悪くなって起き上がる。斜め向こうに座り直すと、黒猫はもう一度ため息を洩らした。
「最後の詰めが浮かばないんだ……せっかく追いこんでも、このままだと逃げられちまう」
わたしは倒れた駒を起こし、ゲーム盤を覗きこんだ。平面上の小さな戦場では、黒い駒の軍勢が白い駒を取り囲んでいた。
「黒が俺、白が敵だ」
確かに、あとは白の『王』の駒を討ち取るだけだった。しかし『王』の周囲には絶妙な配置で鉄壁の守りが築かれ、黒の攻撃を退けている。
そればかりでなく、わずかな退路から『王』を逃がすことも可能だ。美しいまでの巧みな戦術に、わたしは思わず嘆息した。
「すごい……」
「ああ、腹立たしいほど完璧だ」
黒猫はぐしゃぐしゃと癖毛を掻き乱した。
「せめて退路を断てたら……」
苛立ちの滲んだ呟きが盤上に落ちる。白の陣形を眺めていたわたしは、首を傾げた。
「できると思うけれど?」
「……は?」
「要は『王』を逃がさなければいいのでしょう? だったら、守りの厚い正面に戦力を注ぎこむのではなくて――」
わたしは黒い駒をひとつ手に取り、退路となりうる場所に置いた。
「少数精鋭で退路からも叩けばいい」
白の戦術はとても高度だが、残り少ない戦力で表の守りを固めている。逆に考えれば、『王』の退路を守る駒がほとんどいない。
「黒の陣形が今のままなら『王』はなんなく逃げおおせるでしょうけれど、もしもその先に強力な敵の駒が待ちかまえていたら?」
「……王手、だな」
黒猫は呆けたように笑った。
「こんな――動かし方があったなんて」
「変則的だし、正々堂々とは言いがたい手だから好まれないでしょうね」
肩を竦めてみせたわたしに、彼は首を横に振った。
「いや……これも立派な戦術だ」
まぶしげな声に、わたしはくすぐったい感覚を抱いた。
「あんた、大した軍師だな」
「軍師って、ただのゲームでしょう?」
面映ゆい気持ちで視線を逸らすと、彼は何かに気づいたようにハッと息を呑んだ。
「ゲーム……そうだな」
ぎゅっと眉間を引き絞った厳しい表情に、わたしはどきりとした。
「あんたは何も知らないのに」
「黒猫……?」
また失態をしてしまったのかと青ざめかけたわたしに、彼はどこか苦しそうな笑みを浮かべた。
「ごめん。でも……俺も譲れないんだ」
するりと頬を撫でられたかと思うと、黒猫は手早くゲーム盤と駒を片づけて立ち上がる。鉄格子の向こうの空は、すでに夜明けの色に染まりつつあった。
「今日は、そろそろ行くよ。……またな」
「ええ……」
いつもと違う雰囲気に、わたしは困惑を返すしかなかった。ふと、吐息のような問いが聞こえた。
「なぁ、小鳥……もしも、俺がこの鳥籠を開け放ったら――」
わたしは答えることも、瞬くことすらできなかった。我に返ったのは、黒猫の姿が消えた牢の中を朝陽が照らし出す頃だった。
幻のような彼の声が、耳に焼きついて離れない。
(あんたは、俺と一緒に来てくれるか?)
この塔の上で朽ち果てることこそ、わたしのさだめ。
乳母を失ってから六年間、一度たりとも疑わなかった現実が覆された瞬間。
わたしは、己の未来が選び取れることを知った。
それからも、黒猫との逢瀬は続いた。
しかし、彼は決して答えを求めなかった。まるで、まだ『そのとき』ではないと言うかのように。
飄然と忘れたふりを決めこんだ黒猫に、わたしも沈黙するしかなかった。何より、口にできる答えなど持っていなかった。
怖かった。
生きたい、死にたくないと思う。だがその先を望むことを、いったいだれが許してくれるだろうか。
母の罪、王や民の憎しみを投げ出して生きること。差しのべられた手の向こうに見えた押し潰されんばかりの罪深さに、恐怖した。
生きるための覚悟。
それがなければ、夢見ることも黒猫を信じることもできない。
――強くなりたい。
わたしは生まれてはじめて、心からそう願った。