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裏切りの翼  作者: 冬野 暉
本編
5/30

第四幕 盤上遊戯

 だれも知らない逢瀬がはじまって、長い夜があっという間に過ぎるようになった。

 黒猫は夜毎現れるわけでなく、一日置きだったり、三日も顔を見せなかったりすることもあった。それこそ猫のようにふらりとやってくる。だが去り際には、必ず「またな」と笑顔を残していった。

 そして彼は毎回、何かしら『土産』を持ってきた。あのクッキーのように自分で作ったというものが多かったが、ときにはさまざまな国のお伽話を集めた書物だったり、珍しい花だったりもした。いつしかわたしは、次はどんなものを持ってきてくれるのか――黒猫の訪れを心待ちするようになっていた。

 今宵の『土産』はボードゲームだった。白と黒の二色に彩られたボードの上で駒を動かし、相手の『王』の駒を討ち取ることができれば勝ちという、古くから王侯貴族に嗜まれてきた遊戯の一種である。わたしも幼い頃に乳母から手ほどきを受けた。

「できるよな?」

「……もしかして馬鹿にしている?」

「まさか! できるなら問題ないさ。じゃあ、まずはレディ・ファーストってことで」

 はじめる前から得意顔の黒猫に譲られる形で、わたしが先手の白い駒、対する彼が後手の黒い駒となった。試合がはじまると牢の中は静まり返り、わたしはすぐに記憶を手繰り寄せることに必死になった。

 黒猫はかなり手強かった。裏の裏を突くような攻撃を鋭く叩きこみ、追い詰められたと見せかけて思いもよらぬ逃げ道からひらりと躱す。先の読めぬ攻防に、わたしは静かに体が熱くなっていくのを感じた。

 それは久しぶりに抱く、楽しいという感情だった。

 試合に没頭するうちに、わたしはこのゲームが得意だったことを思い出した。乳母に褒めてもらえるものの数少ないひとつだったのだ。

 溢れ出す奔流に乗ったわたしは、自分で驚くほど滑らかに駒を動かした。それに黒猫の手が応え、激しい応酬が瞬く間に盤上の形勢を塗り替えていく。

 やがて、白い駒の軍勢が黒の『王』を捕らえた。思わず笑って顔を上げたわたしは、面白くなさそうに眉をしかめる黒猫を見た。

 ――その表情かおに、わたしに憎い女の面影を見る王が重なった。

 頭から冷水を浴びせられたように、駒を持つ指先が冷えていく。凍てつく思考のなかで、わたしはああそうだと呟いた。

 女は男の下にあるべきもの。小賢しさも我の強さも、女には必要ない。

 わたしは、母ではないのだから。

「……っ」

 唇を噛みしめ、わたしは詰めとなるべき一手を見当外れな場所に打った。黒猫はぴくりと眉を動かしたが何も言わず、崩れた陣形の隙間から抜け出した。

 そこから再び形勢が逆転する。

 わたしの軍勢はみるみる衰え、攻める黒猫に反撃することもなく追い詰められていく。盾となるべき駒を失い、『王』の駒を討たれるまでにそれほど時間はかからなかった。

「……王手チェックメイト

 黒猫が最後の一手を放つ。圧倒的なまでの彼の勝利だった。

「――おい」

 唸るような低い声に、わたしは項垂れた。金緑色の瞳を見ずとも、黒猫の怒りは肌を刺すほど伝わってくる。

「あんた、俺を侮辱してるのか」

「……そんなつもりじゃないわ」

「じゃあなんでわざと負けた? この試合、間違いなくあんたの勝ちだっただろ」

 分をわきまえたつもりが、逆に黒猫の機嫌を損ねてしまった。わたしはどうすればいいのかわからなくなった。

「だって……だって、わたしは女よ」

「は?」

「女は――殿方に逆らうべきではないわ」

 沈黙が落ちる。呼吸をくり返すような間を置いて、呆れたような声がぽつりと呟いた。

「……馬鹿じゃないのか」

 その、瞬間。

 体の奥で、何かが爆発した。

 沸き立つ感情に頭まで呑まれ、わたしは弾かれたように顔を上げた。

「あなたに――何がわかるのよ!」

 視界が赤く染まるほど頭が熱い。激情に血流が燃え上がる。

 ぽかんと呆ける黒猫に、わたしは拳を握った。

「男のあなたに、何がわかるの。わたしの母は王に背いたから殺された。娘のわたしは、ずっと蔑まれてきた」

 声が震える。体が震える。ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 悔しかった。

 憎かった。

 悲しかった。

「それなのに、馬鹿だなんて……」

 罪に狂った母を、裏切られて死をばら撒いた王を、犠牲となった民を。

 ――そのすべてを背負わされたわたしを。

「そんな言葉で片づけないで!」

「小鳥……」

 黒猫が目を瞠る。喉の奥からせり上がってきた嗚咽に唇を引き結び、わたしは寝台に崩れ落ちた。

 涙が止まらない。拭っても拭っても頬を濡らす感触に、もう二度も彼の前で泣いたのだと気づいた。

 わたしはこんなに泣き虫だっただろうか。どんなに苦しくても、感情を押し殺すことには慣れているはずなのに。

「なぁ……なぁ、小鳥。頼むから泣くなよ」

 困ったような顔で黒猫が頭を撫でてくる。精いっぱい睨んでやると、ぐっと声を詰まらせた。

「……俺が悪かった。別にあんたを軽んじたわけじゃないんだ。ただ、女だからとか男だからとか、そんな理由で勝負を投げ出されたのが、いやだったんだ」

 今度はわたしが瞳を見開く番だった。

「強いあんたと戦ってるのが楽しかったから、その気持ちが踏みにじられたような気がしたんだ」

 黒猫は苦笑した。

「俺さ、あんたみたいに頭がよくて、血統だけが取り柄のやつらなんかより何倍も優秀なひとを知ってる。彼女がよく言ってた。本当にだれかの役に立つ人間は、性別や身分なんかじゃ決められないって」

「わたしは優秀なんかじゃ……」

「優秀だよ。何しろ、この俺を負かしたんだからな」

 にっと黒猫は口端を持ち上げた。ひとつ瞬きをし、わたしは力が抜けるようにつられて笑った。

「あんたの母親が犯した罪は、一国の王妃として許されるものじゃない。だけど、娘のあんたにすべてを押しつけるなんておかしいって、俺は思う」

 たったひとりの擁護で真実が消えるわけではない。それでも、わたしは生涯その言葉を忘れぬだろう。

「俺にとって、あんたは他のだれでもない。――この世でただひとりの小鳥あんただ」

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