第三幕 赤い部屋
月に一度、牢から出される日がある。
見張りの兵士につき添われて塔を下り、そこから向かうのは、城の中でも許された者しか足を踏み入れぬ後宮――更にその最奥部。俗に『奥殿』と呼ばれる棟の入り口で、待ちかまえていた女官たちに引き渡される。
奥殿に入ると、真っ先に湯浴みをさせられる。まるで人形のような女官たちに衣を脱がされ、執念深いほど丹念に全身を清められる。この時間が、何よりおそろしくてたまらない。
高貴な者が使用人に身の回りの世話をさせるのは当たり前のことだが、なぜ赤の他人にたやすく身を任せられるのか理解できない。肌に触れる手がどんな感情を秘めているのか、だれにもわからぬのに。
湯浴みのあとは、いつもの形が嘘のように飾り立てられる。腰を締めつける豪奢なドレス。香油を塗って梳いた髪は複雑に結い上げられ、花を模した簪に彩られている。薄く化粧を施されて姿見の前に立てば、鏡のなかには痩せっぽっちの体を美しい衣裳で包んだ奇妙な娘がいた。
なんと滑稽な姿だろう。喜劇の舞台を転げ回る道化のほうがまだましだ。きらびやかな装いのなかに浮かぶ自分の醜さに、わたしは目を伏せた。
「陛下がお待ちでございます」
淡々と告げる女官の声に、わたしはドレスの裾を捌いて了解を示した。言葉を交わすことを禁じられているわけではないが、彼女たちがそれを望んでいないことなど、首を絞める沈黙で充分理解できた。
女官たちに囲まれて廊下を進む。たどり着いたのは、なんの変哲もない扉の前だった。
しかし、この向こうにいるのは王国で最も貴い位にある者であり、それを物語るように女官たちは恭しく頭を垂れた。
「ご到着されました」
静かに扉が開かれる。わたしは乾いた唇を舐めてると、一歩部屋の中に踏み出した。
血のように赤い絨毯が敷き詰められた室内は薄暗かった。窓には覆いが掛けられ、明るい陽射しを遮っている。白地に深紅の蔓薔薇が渦を描くように咲き乱れる壁紙を照らすのは、部屋の中央に置かれた円卓の上の灯りだった。
「――座るがいい」
扉を閉めた王は掠れ声で呟くと、自身も円卓と揃いの椅子に腰を下ろした。燕脂色の卓上には、栓が抜かれた葡萄酒の瓶と暗紅色の液体が注がれた玻璃の杯があった。
「そなたも飲むか?」
杯を傾けながら王が問うてくる。どこか疲れたような、気だるさの滲む笑みに戸惑っていると、彼は「冗談だ」と続けた。
「あいにくひとり分しか杯を用意しておらぬ。そなたはこの芳香でも楽しめばよい」
「……もったいのうございます」
わたしは伏し目がちに応えると、緊張に軋む体を椅子の上に落ち着けた。円卓を挟んだ向かいには頬杖をついた王がいる。
「ひと月ぶりだな」
「はい」
「……痩せたか」
「少し、背が伸びたようでございます。そのせいではないかと」
震えを殺してささやくように答えると、王の青い双眸がすっと細まった。思わず息が詰まる。
「ますます似てきたな」
だれに、などと訊くまでもない。
わたしは王にも、処断された騎士にも似ていない。ゆるく波打つ栗色の髪も、焦茶色の瞳もその顔立ちも、何もかも母に瓜ふたつなのだという。はじめてこの部屋を訪れたとき、まるで呪いのようだと呟いた王の言葉を憶えている。
王は、若りし頃はさぞ凛々しい偉丈夫だったのだろうと思わせる、丈高い男だった。麦穂のような色の髪には白いものが混じり、厳しい印象の面にも薄い皺とともに老いが刻まれつつある。ゆったりとした袖から覗く手はごつごつと骨張っていて、杯の足を持つ指は長い。
かつては勇猛な剣士として名を馳せたそうだが、王の愛剣が鞘に納められてから幾久しい。最後にその刃が振るわれたのは十六年前のことだ。
「こうしていると、まるであれが余の前におるようだ。もっとも、あれにそなたのような殊勝さなど微塵もなかったがな」
「忌まわしきこの身はお目を汚すばかり。どうぞ退出をお許しくださいませ」
身を縮めて訴えると、王は笑みの色を深くした。
「姿かたちは鏡に映したようだというのに、中身はまるで似ておらぬ。なんとも皮肉なことだ」
ひとつ杯を煽り、ため息のような声音で言う。
「もしもそなたが余に似ていれば……余は何も失わずに済んだのであろうな」
わたしは何も言えず、深く俯いた。注がれるまなざしは、憤怒も憎悪も過ぎ去ったように乾いていた。
「あれは最期まで赦しを乞うことなぞしなかった。そなたこそ真の愛の証だと、狂ったように笑っておった」
一瞬、脳裏に歪んだ笑みを張りつけた女の首が浮かんだ。血溜まりに転がるその唇は、罪を愛だと嗤い続ける。――わたしの顔で。
吐き気がした。
母にとって、わたしは王に対する復讐の道具でしかなかったのだ。最初から、わたしの掌に愛などなかった。
いったいわたしはなんのために生まれてきたのだろう。
なぜ生きているのだろう。こんなにも惨めで汚らわしい命にしがみついているのだろう。
いっそ殺してくれと王に懇願できたら、どんなに楽か。
「……顔色が悪いな」
ことりと杯が置かれ、王は退出を命じた。
「今日はこれくらいにしておこう。塔に戻って休むがよい」
「申し訳ございません……」
わたしはどうにか一礼すると、ふらつきそうな足取りで扉へ向かった。くすんだ金の把手を掴んだとき、背中に王の声が当たった。
「この部屋がもともとだれのものだったか、そなたは知っているか?」
のろのろと振り返ると、濃淡さまざまな赤い色彩のなかで薄い笑みを見せる王と目が合った。男の王には似合わぬ、女性らしい内装の部屋。
ここへ通うようになってずいぶん立つが、部屋の主について聞いたことは一度もなかった。
「……いいえ」
小さく首を振ってみせると、王はいっそ優しいほど冷たく微笑んで教えてくれた。
「この部屋は、そなたの母――余が殺した女のものだ」