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裏切りの翼  作者: 冬野 暉
本編
3/30

第二幕 君、愛を望む勿れ

 愛とはなんだろうか。

 伝え聞くそれは、この世でもっとも尊く、美しく、熱く、得がたいものだという。そしてさまざまな形があるのだと。たとえば母が子に注ぐような、若い男女が心を寄り添わせるような、親しい友と肩を組むような。数えきれぬほどの愛がこの世には溢れている。

 わたしは愛を知らない。

 知っているとすれば、母が騎士へ向けた身を焦がさんばかりの熱情だけ。だがあまりに罪深いその想いを、はたして愛と呼んでいいのだろうか。愛とは、人を幸せにするものではないのだろうか。

 愛を与えられるなどと思ってはなりません。それが乳母の口癖だった。

 十の歳になるまで、わたしは彼女に育てられた。とても厳格な、他人にも自分にも甘えを許さぬ老婦人だった。白い髪をきっちりと結い上げ、深い色のドレスに包まれた背をまっすぐ伸ばした後ろ姿を今でも憶えている。白百合のようであっただろう美しさを忍ばせる顔に浮かんだ笑みを、わたしは片手で足りるほどしか見たことがない。

 乳母は長らく敵対関係にある国の出身で、人質として王城に留め置かれていた。わたしに叩きこんだ行儀作法や教養は王の娘にふさわしいものであったから、王族か、それに準じる位を持つ方だったのかもしれない。

 強くあるのです、と乳母は何度もくり返した。

(たとえ真実がどこにあろうと、この国の人々にとってあなたは罪人の娘でしかない。愛を与えられるなどと思ってはなりません。強くあるのです。どんなに罵られ嘲笑されようと屈せず、顔を上げて立ちなさい。孤独を友に、凍てつく風が吹き荒れる荒野を裸足で歩くような人生でも、涙を見せずに生きていきなさい……)

 わたしを『姫』と呼んでくれた唯一のひとだった。

 冷戦状態が続いていた敵国との緊張が弾け、ついに戦がはじまると、乳母は故国へ呼び戻された。別れを惜しむことも許されず、わたしは彼女が帰国の途についたことだけを知らされた。生きて無事に故郷の土を踏んだのだと、そう思いたい。

 乳母を失って、わたしははじめて自分がひとりぼっちなのだと理解した。悲しみとも寂しさともつかぬ空虚を抱え、幼いわたしは茫然とするしかなかった。

 もしももう一度彼女に会えるなら、溢れるほどの感謝を伝えたい。そしてたったひとつだけ、教えてほしい。

 叶うはずもない、愚かな想い。

 あなたは、わたしを愛してくれていましたか――と。




 次の夜も黒猫はやって来た。

 いったいどこから忍びこんでくるのだろう。わたしが幽閉されている牢は、城の中でもいっとう高い〈浄罪の塔〉にあるというのに。

 試しに訊いてみると、彼はこともなげに答えた。

「そりゃ普通によじ上って」

「よじ……」

「木登り得意なんだ、俺」

 へらりと笑う黒猫は、やはりただ者ではない。わたしは賢く沈黙を選んだ。

「それにしても〈浄罪の塔〉――ねぇ。また嫌みったらしい名前だな」

「もともと、罪を犯した王族のための牢獄なの。天に祈ることで悔い改め、少しでも罪を雪ぐように高く築かれたのよ」

「へっ、なんとも信心深い謂れで」

 黒猫は鼻を鳴らすと、話を切り替えるように懐から何かを取り出した。世話役の女官に気づかれぬよう小さく灯した蝋燭の火に照らし出されたのは、布に包まれた掌大のもの。

「なぁにそれ」

「あんたに土産。こんなところじゃろくなモンも食えないと思ってな」

 金緑色の瞳がちらりと寝間着の袖から伸びたわたしの腕を見る。まるで枯れ枝のような、かさついた皮膚に骨が浮いた腕。

 その視線が恥ずかしくなって、わたしは思わず肩から掛布にくるまった。

「お、みやげ?」

「ああ。女は甘いモンが好きだろ?」

 包みを開くと甘いバターの匂いが立ち上った。きれいな狐色をした、硬貨コインのような形の焼き菓子。

 記憶を疼かせる懐かしさに、わたしは目を瞠った。

「これ……」

「ガキの頃、世話してくれたひとがよく作ってくれてさ。すっかり作り方覚えちまった」

 彼は淡く笑うと、クッキーをひとつ手に取った。

「あなたが作ったの?」

「言っとくけど、あんたよりよっぽど料理上手だと思うぜ。自分でいろいろしなきゃならなかった生まれなんでな」

 ぱくりとかじりつき、「ん、うまい」と当然のように頷いてみせた。

「あんたも食べろよ。せっかく作ってきてやったんだからさ」

 口元に食べ滓をつけた黒猫にすすめられ、のろのろと手を伸ばす。ひとかけら口に含むと、さっくりとしているのにやわらかく、素朴で濃厚な甘さがじんわりと広がった。

 ――同じだ。

 ずっと昔、乳母が手ずから焼いてくれた味。滅多に褒めてくれなかった彼女が「ご褒美です」と言って不器用に示してくれた優しさ。

 淡雪のように仄かな微笑とともに眠る思い出。

 ひと口ふた口と食べるうちに、視界が熱を帯びて歪んでいく。寝台に腰かけた黒猫の姿が滲む頃、膨れ上がった熱はとうとうこぼれ落ちた。

「――小鳥?」

 覗きこんでくる猫目石のような瞳がゆらゆらと揺れる。頬を伝い落ちるうちに冷たくなった涙が寝間着の膝に滴った。

 わたしはクッキーを口に押しこむと、溢れそうな嗚咽を必死に呑み下した。苦しさのあまり俯くと、ふわりと頭を撫でられる。

「大丈夫か?」

 どうして黒猫はこんなにも優しいのだろう。もしかしたらクッキーに毒を仕込み、わたしを殺すための演技かもしれないのに。そんな猜疑心すら掻き消えてしまうほど、深く深く染み入ってくる。

 こんなにも、わたしは飢え渇いていたのだと思い知った。

 愛を与えられるなどと思ってはいけない。それでも、だれかに愛してほしかった。

 たったひとりでいい。わたしにも愛を教えてほしい。本当は、ずっと、ずっとそう願っていた。

 叶うならば、母を知らぬわたしが唯一『母』と呼べるあのひとに。

 体の底から震えが湧き上がってくる。黒猫は何も言わず、労るように頭を撫で続けてくれた。

 その双眸がじっと見つめてきていたことに、わたしは気づかなかった。

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