舞台裏 風の芽吹くとき(九)
黒猫に手を引かれて静養室に戻ると、なぜかとてもにこやかなべテル夫妻と不機嫌な顔のカロンに出迎えられた。
「思ったより早かったわねぇ。もっとゆっくりしてきてよかったのに」
背中の下に枕を重ねて体を起こしたサリージェ様が、にやにやと笑いながら言った。その隣でフェンリック王が深く頷く。
「既成事実は早いほうがいいぞ、アレク」
「息子に何をすすめてんだよ!?」
「何とは――」
「子どもの前だろうがッ!」
賑やかなやりとりをカロンは白い目で眺めていた。わたしは彼に微笑んでから、サリージェ様に声をかけた。
「お加減のほうはもうよろしいのですか?」
「ええ、もう大丈夫よ」
ちょいちょいと手招きされたので近づくと、ふわりとあたたかな掌が頬に触れた。きらきらと光る双眸が笑いながらわたしを見つめる。
「ありがとう、ユーリ。あなたがこいつらに活を入れてエフィを呼んでくれたんですって? まったく、うちの男どもったら情けないんだから」
「いいえ、そんな……。エフィーリア様の許まで走ってくれたのはアレクですし、ここまでサリージェ様を運んでくださったのはフェンリー様です。わたしは、何も」
「まるで昔日の叔母上のようだった」
ハッとするような声で、フェンリック王が言った。彼は尊い記憶を惜しむように微笑んだ。
「一瞬、叔母上に叱咤されたのかと思ってしまったよ。声も、まなざしも、とてもよく似ておられる。あなたは確かに、叔母上の娘御でいらっしゃるのだな」
そこにこめられた感情は、とてもひと言では推し量れぬものだった。深く、激しく、だか今はどこまでも優しい響きだった。サリージェ様はどこか切なくフェンリック王を見つめ、「そうね」と呟いた。
「顔かたちは似てないのに、どうしてかしら、向かい合った瞬間にはじめてセヴィエラ先生にお会いしたときのことを思い出したわ」
わたしはなんと応えればいいのかわからず、俯いた。面映ゆいような、泣きたくなるような、熱い波濤が胸の内に押し寄せてくる。
「やっぱり、男の子は父親に似るものなのね」
いたずらっぽく目を細める細君に、フェンリック王が大袈裟な咳払いをした。黒猫は思いきり顔をしかめている。
「ユーリ。このろくでなしの初恋はね、セヴィエラ先生なのよ」
「え」
「しかも大真面目に告白して大真面目にふられて、盛大に落ちこんだ挙句ふてくされて家出するっていう始末なんだから」
「サリージェっ」
慌てふためくフェンリック王を、サリージェ様はひと睨みで黙らせる。いつの間にかわたしの横にやって来たカロンが呆れ顔で言った。
「おっさん、昔からどうしようもねーやつだったんだな」
「言ってやんなさい、カロン。あんたはこんな男になっちゃだめよ」
「大丈夫だよ、院長先生。俺だったら後悔するほどイイオトコになって、逆にメロメロにさせてやるから。そーゆーのリャクダツアイっていうんだろ?」
情熱的な少年の言葉に、サリージェ様はおかしそうに声を上げ、なぜか黒猫は舌打ちした。カロンの手がわたしの衣の裾をツンと引っ張った。
「ねえちゃん、いつにいちゃんと結婚すんの?」
「ええっと……まだ決まっていないわ」
何しろ、まだ内々の段階なのだ。国王自らの求婚であり、王家の長老の許しを得ているとはいえ、貴族議会への通達から正式な宣旨に至るまですぐにとは行かない。そこから更に婚姻を結び、王妃として立后するとなると、どんなに急いでも一年以上はかかってしまうだろう。
王族の――国王の結婚ともなれば、まさに国の一大事なのだ。しかも二世代ぶりに『王妃』が立つのである。改めて担う重責の重みに、わたしは思わず顔を引き締めた。
「ふーん」
カロンは小さく鼻を鳴らすと、にやっと笑ってみせた。
「じゃあさ、あんまりにいちゃんがもたもたしすぎて嫌気が差したら、俺が代わりにねえちゃんを貰ってやるよ。そんときまでには、ねえちゃんひとりくらい食わせてやれるようなオトコになってるから」
「おい」
おそろしくどすの利いた声がした。黒猫が腕を組み、今にも剣を抜きそうな目つきでカロンを睨めつけていた。
「そこまでにしとけよ、クソガキ」
「にいちゃんも大人げねーなぁ。やっぱフェンのおっさんの子どもなんだな」
もはや憐れんですらいるようなカロンの口ぶりに、わたしもサリージェ様も耐えきれずに噴き出した。フェンリック王は心底居心地が悪そうに視線を泳がせている。
苦虫を十匹は噛み潰したような顔をするしかない許嫁がだんだんかわいそうになってきたので、わたしはカロンに答えた。
「ありがとう、カロン。でもね、こんなどうしようもないひとだからやっぱりわたしがついていてあげなくちゃいけないと思うの」
「……『ほれたよわみ』ってやつ?」
唇を尖らせるカロンの頭を撫で、にっこりと微笑む。
「手のかかる殿方ほどかわいいものなのよ」
サリージェ様はもはや声すら上げられないようでぶるぶると震えている。黒猫は片手で顔を覆い、項垂れた。
「……ユーリ」
「あら、だって本当のことだもの」
肩を竦めてみせると、苦しそうに涙を滲ませたサリージェ様が頷いてくれた。
「あーもー、うちの息子は本当にできたお嫁さんを見つけてくれたわね。すごく気が合いそうだわ」
「不束者ですが、末永くよろしくお願い致します」
「こちらこそ、父親に似て馬鹿でどうしようもない息子だけどよろしくね」
くすくすと笑い合っていると、今度は両手で頬を包みこまれた。
「カロンのことも、ありがとう」
ささやかれた感謝に、わたしはふるりと首を横に振った。カロンは淡く頬を染めてそっぽを向いている。
「いいえ。どうか、カロンの勇気と優しさを褒めてあげてください。サリージェ様のことを、とても心配していましたから」
ぱちりと猫目石の瞳が瞬き、少年を見つめる。泣き笑うように、彼の母親は笑み崩れた。
「カロン」
わたしがそっと肩を抱き寄せると、カロンはそろそろとサリージェ様へ振り向いた。いんちょうせんせい、と唇を震わせ、くしゃくしゃと顔を歪めた。
「よかった」
それは、小さな男の子の心からの言葉だった。サリージェ様の眦から、先ほどとは違う涙がこぼれ落ちる。彼女はカロンと、わたしを力いっぱい抱き締めた。
声を上げて泣きたくなるほど、懐かしい匂いがした。
「ありがとう、この子を守ってくれて。あんたたちの、きょうだいを」
カロンが泣きじゃくりながらサリージェ様にしがみつく。その声を聞きながら、ああそうか、とわたしは熱を帯びた瞼を閉じた。
――まだ見ぬ小さな小さな命は、わたしの『きょうだい』なのだ。
わたしにとってそう呼べるのは、意地悪だけれど頼り甲斐のある兄のような黒猫と……血がつながっているのかどうかもわからない、一度しか会わぬまま別れた弟だけだった。父と呼べなかったあのひとの、正しく血を引いた、継ぐべき玉座も国もわたしが奪った、わたしの弟。
戦後、レイシア王家の生き残りの処断について激しく紛糾したそうだ。禍根の芽は絶つべきだと主張する者もいれば、いくら直系の王太子とはいえ罪なき赤子を殺めるのはあまりに無慈悲ではないかと言う者もいた。すべてはわたしの手の届かぬ場所で決まり、彼らは裁かれた。
のちに、ひっそりと黒猫が教えてくれた。――弟は生きていると。母君とともに、遠い地で生涯を虜囚として終えることになった。まだ言葉も話せぬ幼さであり、そんな彼を惨たらしく処刑すれば亡きレイシアの民の嘆きと怨恨をいっそう深めると、そう判断されたらしい。
わたしはただ、黒猫と神に感謝した。
きっと二度と会うことはないだろう。姉弟と名乗ることも許されぬだろう。それでも、それでも、あの子に生きていてほしいと望む。
カロンのように、罪にまみれたこの手で掬い上げることなどできなかった。だが今度こそわたしの弟たちを守れるのならば、わたしは喜んで両手を更なる深紅に染め上げよう。
わたしは、王妃になる。この身と名を贄として、守りたいものをすべて守ってみせる。
振り向かず、ただ前を見据えて生きていけと言った、あのひとの祝福のままに。
「……おかあさま」
ぽろりとこぼれた呼びかけは、自分でも驚くほど幼かった。荒れた、けれどあたたかな指先が髪を梳き、目尻を撫でる。わたしはようやく己が泣いていることに気づいた。
泣いてもいいのだと、わかった。
だからわたしは、生まれる前から知っていたような『母』の抱擁のなかで嗚咽を洩らした。
血の海の底から罪と愛を抱いて産声を上げた、あの日のように。