舞台裏 風の芽吹くとき(八)
黒猫が現れたのは、それからすぐのことだった。
彼は木陰に腰を下ろしたままのわたしを見つけると、安堵と怒りが綯い交ぜになったような顔をした。ぐしゃぐしゃと前髪を掻き回し、足早に近寄ってくるとどっかりと隣に胡坐をかいた。
「…………ここに来る途中、あのガキとすれ違った」
カロンのことだろう。わたしは汚れた手巾を指先で撫でながら答えた。
「あの子と話をしていたの。わたしの財布を盗んだこと、謝ってくれたのよ」
黒猫はちらりとわたしの手元を一瞥した。
「なんで黙っていなくなったんだよ」
「……わたしは、あそこにいないほうがいいのかと思って」
ざざ、と頭上の葉群が大きく揺れる。忙しなく模様を変える木漏れ日に金緑色の眸が鋭く光った。
「そんなわけ、あるはずないだろ」
押し殺したような口ぶりに、彼はどれほど怒っているのか――悲しんでいるのか伝わってきた。思わず力がこもり、手巾に皺が寄る。
「ごめんなさい」
瞼の裏に、黒猫を抱き寄せるサリージェ様の腕が、黒猫の肩に触れたフェンリック王の手が、それを受け容れる黒猫の姿がよぎった。わたしは産みの母の抱擁を知らない。実の父の掌の温度もわからない。永遠に手に入らない、肉親の情。
「――あなたが、羨ましかったの」
黒猫がひゅっと息を呑んだ。困らせてしまうと思い、わたしは情けない笑みを浮かべた。
「血のつながったお母様とお父様に愛されているあなたが……当たり前のように言葉を交わして、触れ合えるあなたが、とても羨ましくなったの。わたしにだってセヴィエラ様がいた。今はイーグ様が本当の父君のように接してくださるわ。でも――」
告白は最後まで続かなかった。黒猫の腕が伸びて、苦しいほどに強く抱き締められた。
落葉色の髪が頬をくすぐる。この世で最もよく知る匂いとぬくもりに、わたしは目を閉じた。
「……ごめん」
ささやく声は掠れていた。
「どうしてあなたが謝るの?」
「小鳥が寂しがり屋だって、忘れてた」
わたしは小さく笑った。
「そうね、自分でも忘れていたわ。当たり前のように毎日が幸せすぎて。あんなにも寂しくて心細かった頃が嘘のように」
魂まで凍るような孤独に震えながら、それでも死を選べず、わたしは鳥籠の中から空を見上げることしか知らなかった。優しい母と偉大な父、厳しくも尊敬すべき乳母がずっとそばにいてくれる――そんな幻想を幼い枕辺で何度も何度も夢見ては、心の奥底に沈めてきた。
きっとこの切なさは、わたしが殺しきれなかった憧憬の破片なのだ。
「あなたが、いてくれるから」
手探りに頬へ掌を這わせると、黒猫がこつりと額を重ねた。黒い睫毛の下で頼りなげに瞳をたゆたわせ、もどかしそうに薄い唇を開く。
「頼むから、我慢なんてしないでくれ。無理に強がらなくていい」
「強がっているつもりはないのだけれど」
「じゃあ、もっと甘えてくれ。もっとわがままを言ってくれ」
哀願するような声だった。困ってしまった。なぜなら、わたしはこの上ないわがままをすでに叶えてしまっているのだから。
すり、と黒猫が掌に頬を寄せてくる。本当に猫のようだ。子どもの頃の彼は、路地裏の仔猫のような少年だったのだろうか。
「あなたの小さい頃の思い出を聞かせて」
予想どおり、黒猫はしかめっ面で応えた。出会った頃よりも青年らしさを増した輪郭をなぞりながら、わたしは上目遣いに微笑んだ。
「わがままを聞いてくれるんでしょう?」
「……小鳥は本当に策士だな」
悔しそうに呟き、わたしの片手を捕らえる。十六歳のわたしよりもやわらかく肉づき、滑らかな手の甲の感触を確かめるように指先でいじっている。
「――おふくろのことを、ずっと恨んでた。だから、ガキの頃のことを話したくなかったんだ」
落葉色の髪が風に揺れる。黒猫は孤児院の建物に視線を遣り、目を細めた。
「十一までここで育った。おふくろはまだ院長じゃなくて、世話係のひとりだった。だけど言葉どおり分け隔てなく育てられたよ。いたずらして叱られたときも、内緒で拾ってきた仔犬が死んじまって泣いたときも、冬の夜に一枚の毛布にくるまってくっつき合って眠ったときも、みんな一緒だった。あいつらと一緒にここで大人になっていくんだって、疑いもしなかった」
葉擦れの音に紛れて、遠くから少年の声が聞こえてくる。父君譲りの黒髪の、明るい眸をくるめかせ、ともに育ったきょうだいたちとともに駆けていく、小さな男の子の幻が見えた。
でも、と続く言葉にあっけなく霧散する。
「ある日、大勢の騎士や兵士を連れたじいさんがやって来た。おふくろはそのひとに会った瞬間、声を上げて泣き崩れた。じいさん……大叔父様は、俺をひと目見て、『アレクシオ殿下ですね』って言った。おふくろは何度も、何度も、頷いた」
わたしは触れ合う手に力をこめた。黒猫のまなざしが閉ざされ、彼は俯いた。
「会ったこともない父親が国王で、俺が世継ぎの王子だなんて、ぜんぜん信じられなかった。俺はただのアレクだって何度も言った。だけど――おふくろは――首を横に振った。違うって、俺の本当の名前はアレクシオで…………そして……」
――『お預かりしていたものをお返し致します』。
がんぜない少年の心に、たったひとりの母の言葉はどれほど残酷に響いただろう。サリージェ様はどんな悲痛な覚悟で、息子の前で口にしたのだろう。今度はわたしが黒猫を抱き締める番だった。
「ごめんなさい、つらいことを聞いてしまって」
「いいんだ。いつかは話さなきゃと思ってた」
黒猫は微かに笑い、「なぁ小鳥」と言った。
「恨んで恨んで、憎みに憎みきって、それでも、切り捨てられないんだ」
「……ええ」
「おふくろのことも、親父のことも、いっそ忘れてやろうかと思った。俺の母上は大叔母様で、俺の父上は大叔父様で、それでいいんだって納得しようとした」
「ええ」
「――馬鹿だなぁ、俺」
少年の腕がきつく背中に回される。わたしの肩口に顔を伏せ、黒猫は体を震わせた。
「守られてたなんて、知らなかった。知ろうともしなかった。ほんとうに、馬鹿だ」
それは懺悔であり、慟哭だった。かつて炎のなかで、わたしの名を教えてくれたあのひとを、救えなかったわたしの叫びだった。
どんなに歪み、苦痛と嘆きしか生まぬ鉄の茨であっても、それは確かに愛だった。わたしたちのために、わたしたちだけに差し出された、狂おしいほどの愛だった。
わたしたちは愛されていた。そのことを知ってしまったから、確執も憎悪も消せぬまま、わたしたちもまた彼らを愛さずにはいられないのだ。
何もかもただ懐かしいと、いつか穏やかに想える日が来るのだろうか。
わからない。けれど。
「なら、わたしたちが守っていきましょう。今度は、ふたりで」
ささやくと、黒猫がのろのろと面を上げた。白い頬にはうっすらと光る痕があった。そこへ唇で触れ、濡れた目元までたどり、わたしは微笑んだ。
「あなたが守ると約束したのなら、わたしにも力を尽くさせてほしい。だってわたしとあなたは、家族になるんでしょう?」
救うことも、守ることもできなかったひとがいる。報いることができたのかわからぬひとがいる。だからどうか、この両手に残されたものを、あのひとたちの記憶とともに抱き締めて、今度こそ守り抜きたいと思う。
「あなたが守りたいと願うものを、わたしも守りたい。守らせてほしい。あなたがわたしの幸福を守ると誓ってくれたように、わたしもあなたの大切なものを――あなたを、守りたいの」
「こ、とり」
「ええ、黒猫」
わたしは小鳥、そしてレイシアのユリエル。あなたは黒猫、そしてトゥスタのアレクシオ。
幾度でも謳おう。決して変わらぬ真実を。
わたしたちが選んだ罪と罰、そして惜しみない愛と祝福を。
「あなたを、愛しているわ」
体重がかかり、どさりと地面に倒れこむ。草と土の匂いがした。堰を切ったような口づけが、火傷しそうなほどの熱が降り注ぐ。
――ああ、気が狂ってしまいそう。
彼のくちびるの温度を、わたしは瞼を下ろして享受した。