舞台裏 風の芽吹くとき(七)
べテル孤児院の敷地はなかなか広い。
二階建ての建物の裏手は前庭ほどではないものの、余地をうまく利用して家庭菜園を設けているらしい。野菜畑と思しき等間隔に並んだ畝や、奥には果樹の木立が見える。他の子どもたちにカロンの行方を尋ねてみたところ、「畑のほうに走っていったよ」という目撃情報を得た。
はたして、豊かに葉を茂らせた一本の果樹の木陰にうずくまる少年がいた。
「……カロン?」
そろそろと近づいて声をかけると、カロンは野兎の仔のように飛び上がった。そのまま逃げようとする体を、わたしは慌てて抱き留めた。
「放せよ!」
「待って、落ち着いてちょうだい。――さっき、静養室の前にいたでしょう?」
腕の中の体から力が抜けた。いつの間に帽子を脱いだのか、カロンは瑞々しい橙を思わせるきれいな色の髪をしていた。その小さなつむりが深く項垂れる。
「……おれのせい?」
「え?」
一瞬、なんと言われたのかわからなかった。カロンがぎゅうっとわたしの腕に爪を立てる。
「院長先生が倒れたの……おれのせい?」
わたしは息を呑んだ。
カロンはぽつぽつと、涙の粒をこぼすように続けた。
「おれ、知ってる。赤ちゃんのいるお母さんって、具合が悪くなったりすると、赤ちゃんと一緒に死んじゃうこともあるんだろ? おれの母さんがそうだった。父さんが戦争に行ったまま帰って来なくて、だんだん具合が悪くなって……ある日、お腹が痛いってすごく苦しそうだったんだ。おれ、急いで産婆のばあちゃん呼んできたんだけど……間に合わなかった……」
「カロン――あなたの、お父様は……」
喉が焼けたようにひりひりと疼く。耳の奥で破鐘にも似た何かが咆哮している。のろのろと顔を上げたカロンの、どこか虚ろな目がわたしを射抜いた。
「……父さんは兵士だった。『ゆうかんにたたかいぬいた、ごりっぱなさいごでした』って、同じ部隊だったっていうおっさんが母さんに言ってた」
わたしは、目には見えぬ巨人の拳に叩き潰された。
カロンは戦災孤児だ。トゥスタとレイシアの戦争の、わたしと黒猫が作り上げた戦場で死を遂げたトゥスタ兵の遺児なのだ。
罪を負って生きると誓った。贖いきれぬかもしれなくとも、地獄に続く道だとしても、わたしはわたしであることを選んだ。
それでも。
わたしは――この両手からこぼれ落ちるものがあることを、思い知らされた。
後悔はしない。なぜなら、わたしが自分の選択を過ちだったとすれば、それは切り捨て、取りこぼしてしまったすべての命を踏みにじることに他ならない。
わたしは、カロンに許しを求めてはならない。許されたいと望んではいけない。この首は、この子ひとりのためでなく、この国のすべてに捧げるべきものだからだ。
ああ……それでも。
震える両手で、わたしはカロンを抱き締めた。カロンは戸惑うように身をよじった。橙色のやわらかな髪からは、懐かしく胸を締めつけるようなひなたの匂いがした。
「――あなたのせいじゃないわ」
カロンが小さく喉を鳴らした。わたしの掌にすらすっぽり収まるような頭を撫でさすり、わたしは強く強く言った。
「あなたのせいじゃない。サリージェ様はね、少しお加減が悪かっただけ。お医者様にきちんと診ていただいて、もう大丈夫と言ってもらえたわ。さっき目を覚まされて、元気に笑っていらっしゃったもの」
「……赤ちゃんは?」
どこか恐怖を孕んだ声で、カロンは問うた。わたしはいっそう深く少年を抱き寄せ、ささやいた。
「お腹のお子様も、大丈夫よ。ちゃんと、無事に産まれてきてくれるわ」
なぜか泣きそうになりながら、わたしはくり返した。大丈夫、絶対に大丈夫と。カロンは黙ってそれを聞いていた。
さわさわと木陰が揺れる。どれほどそうしていただろうか、カロンがもぞもぞと身じろいだ。
「……くるしい」
「ご、ごめんなさい」
体格差を考えずに力をこめてしまっていたらしい。ぷは、とわたしの肩口に頭を乗せたカロンは、不思議なものを見るようなまなざしをじっと向けてきた。
「ねえちゃん、変わってる」
「え?」
「院長先生とかフェンのおっさんも変わってるけど、ねえちゃんはもっと変わってる。どっかのお姫さまみてーな顔してるくせに、臭くて汚れてるガキを力いっぱい抱き締めたりしてさ……ほんとに変なの」
確かに、カロンのまろい頬は泥とも煤ともつかないもので汚れていた。わたしが手巾を取り出して拭ってやると、難しそうに眉をひそめ、そして笑った。
ぎこちなく、だが子どもらしいやわらかな笑顔だった。
「ねえちゃん、あのにいちゃんのコイビトなんだろ?」
「正しくは許嫁かしら。一応、結婚の約束をしているから」
いつの間にか膝の上に乗るような姿勢になったカロンは、そっと体重を預けてきた。とても軽く、けれど重い、あたたかな感覚だった。
せっかくなので、わたしは目立つ汚れをすべて落としてやることにした。手巾で拭える程度など知れているが、それでも少しはましになるだろう。
カロンはおとなしくされるがままだった。
「にいちゃんとねえちゃんは、お城で働いてんの?」
「そう、ね。わたしはまだ王都に来たばかりで、アレクがいろいろ面倒を見てくれているの。今日ははじめて城下を案内してもらっていたのよ」
「……ふーん」
カロンの気配が固くなった。そういえば、彼はわたしの財布を盗もうとしたのだった。
わたしはすっかり黒くなった手巾を握り締めた。
「カロン、訊いてもいい?」
「なんだよ」
「……どうして、わたしの財布を盗ろうとしたの?」
ぴくりと細い首筋が震える。カロンは振り向かず、頑なな声音で言った。
「生きるためだよ」
若葉の甘い匂いを含んだ風が吹き抜けた。子どもたちの笑い声が、ひどく遠い。
「母さんが死んで、父さんが帰って来なくて、どうしようもなかった。一度、母さんの知り合いだっていう鍛冶屋のおっさんのとこに行ったんだけど……殴られたり、蹴られたり、罰だって言って飯を抜かれたりするのがいやでいやでしょうがなくて逃げた。それからはずっと路地裏にいた。最初は残飯とか漁ってたんだけど、おれ、ちびで力もないから他のやつらに負けっ放しでさ。でも駆け足には自信があったから……一度うまくいってからは、ずっと」
盗み続けた、と最後の言葉は風の音に紛れた。
「ここの生活は、嫌い?」
重ねた質問に、彼は少しだけわたしを見た。どんな風に答えれば正解か、選びあぐねているような表情で。
「……いやじゃない」
「じゃあ……まだ、信じられない?」
ゆっくり首を傾げてみせると、つぶらな飴色の眸が揺れた。わたしは心をこめてやわらかく微笑んだ。
「信じることは怖いわよね。選ぶことも同じだわ。わたしもそうだった。アレクを信じて、彼を選ぶのが怖かった」
カロンの体がこちらに向き直る。わたしは少年の肩に手を添えた。
「でもね、きっと信じず、選ばなかったら、悔い続けると思ったの。本当は信じたいのに怖がってばかりで、それでもあきらめたくない自分を、好きになんてなれないと思ったの」
「……ねえちゃんは、にいちゃんを信じてるの?」
ええ、とわたしは大きく頷いた。
「信じているわ。あのひとと一緒に生きていきたいから、隣を歩いていきたいから、たとえどんなことがあってもわたしは後悔しない。胸を張って、顔を上げて、自分の罪と向き合い続けていきたいの」
「ねえちゃんも――悪いこと、したの?」
カロンは自分の罪を知っている。だからこそもがき苦しみ、それでも差しのべられた手をおそれている。本当に信じてもいいのかと、迷い続けている。
わたしにこの子を救えるはずがない。そんな大役が許されるわけもない。ただ、ほんのわずかでもいい、その握り締めた稚い掌を解きほぐせないだろうか。
「ええ。きっと、一生許されないことを」
カロンが微かに体を強張らせた。わたしは目を伏せ、それでも、と続けた。
「それでも生きていくわ。生きたいと、望んだから」
名を知り、罪を知り、そして羽ばたけることを知った。わたしの翼は血と炎の色に爛れている。それでも飛びたかった。だれのものでもない、わたしの翼で翔んでいきたかった。
「――風が出てきたわね。そろそろ、戻りましょうか」
カロンはこくりと頷いた。膝から下りた少年は、まっすぐわたしを見つめた。
「ねえちゃん」
「なぁに?」
「財布、盗って……ごめん」
とてもつない勇気を振り絞った末の言葉だとわかった。体の真ん中に縮こまるように立ち竦んでいるカロンは、決して目を逸らさなかった。だからわたしはもう一度、彼を抱き締めた。
「ありがとう。もう、苦しまなくていいのよ」
カロンの背中がわななく。ぎゅっとしがみいてきたかと思うと、飛び退くように離れて走り出した。
きっと、一番の心配をかけたと知っている『両親』の許へ向かったに違いない。
わたしはその後ろ姿を見送った。
たったひと粒、少年が落とした涙は、風にさらわれて消えていた。