舞台裏 風の芽吹くとき(六)
結果をいえば、サリージェ様もお腹の御子も大事には至らなかった。
「疲労が溜まっていたところに心因的なものが加わったんでしょう。お元気な方だからご本人も周囲もうっかり忘れているようですが、身重ということをきちんと理解してくださいね。ただでさえ高齢出産は危険なんですから」
黒猫に呼ばれて駆けつけてくれた女性医師は、眼鏡の奥の眸を険しく細めてフェンリック王に忠告した。かつてこの国で最も高貴な存在だった男性は深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ない」
「迷惑ではありませんが余計な心配の種を作らないでもらえると助かります。しっかりしてくださいね、フェンリー殿。アレクだってそんなにちょくちょく様子を見に来られないでしょうし」
医師は黒猫とも面識があるらしい。フェンリック王の横で黙りこんでいる彼に、目元をいくばくか和らげた。
「アレクが診療所に駆けこんできたときは驚きましたよ。すっかり立派になられましたね。……お隣のお嬢さんは?」
「ユーリと申します。アレクの――許嫁です。わたしからも、心からお礼を申し上げます」
フェンリック王に倣ったわたしに、医師は目を丸くし、思いがけず少女めいた笑みを浮かべた。
「そうですか。……はじめまして、べテル孤児院のかかりつけ医を任されているエフィーリア=ラッセンといいます。べテル夫妻とは長いおつき合いで、そのご縁であなたの婚約者殿を取り上げたのはわたくしなんですよ」
「エフィ先生!」
なぜか顔を赤くして黒猫が怒鳴る。エフィーリア医師は意地悪く笑みを深めた。
「何を恥ずかしがっているんですか、アレク坊や。薬が苦いから飲みたくないと言って泣き喚いたり、得体の知れない野草やら木の実やらを食べてはお腹を下したり、そのたびにわたくしやサリージェ殿に叱られていたのはだれでしたっけ?」
「いったいいつの話だよ!」
どうやら彼にとって、エフィーリア医師も頭の上がらぬ女性のひとりであるらしい。フェンリック王は同情をこめたまなざしを息子に向けていた。
「まあそんなわけで、もしもおめでたい話題ができたらぜひご一報を。わたくしでよければ喜んでお力になりますよ」
今度はわたしが赤面する番だった。エフィーリア医師は声を立てて笑い、また近々往診に来る旨を言い残して帰っていった。
意識を失ったサリージェ様が運びこまれたのは、流行り風邪などにかかった子どもたちを一時的に隔離するために使われているという静養室だった。簡素な寝台とちょっとした箪笥があるだけの小部屋だが、ゆっくり休むには充分だ。
寝台で眠るサリージェ様の髪を優しく梳き、フェンリック王は琥珀色の瞳をようやくゆるめていた。
「ふたりにも礼を言わせてくれ。本当に、助かった」
「いいえ、サリージェ様も御子もご無事で何よりです」
安堵をこめて微笑み返す。そう、それ以上に大切なことは何もないのだ。
――だが、黒猫の胸の内は少し違うのかもしれない。
「……お腹の子の、父親は」
低く唸るような声で、彼は問うた。フェンリック王は目を伏せ、「私だ」と端的に答えた。
「間違いなく?」
「当たり前だ。この子は間違いなく、私とサリージェの子どもだ。そして、おまえのきょうだいだ」
「…………いい歳こいて何してるんだよ!」
激しく壁を殴りつけ、黒猫は声を張り上げた。その目には、父から王位を譲り受けた者としての批難があった。
「あんたもおふくろも、自分の立場がわかってないのか? 確かにあんたは王族の籍を抜けてただの『フェンリー=べテル』になった。おふくろも今はただの『サリージェ=べテル』だ。でもな、あんたたちが国王や王妾だった事実は消せない! 俺の在位が続く限り、あんたたちは王の父母で、おふくろの胎ン中の子は俺に次ぐ王位継承者として見なされるんだぞ!?」
現在、この国で正式な王族とされているのは、わずか二名。国王アレクシオ、先々代の王妹セヴィエラの夫だったロナキア大公イーグ。そして血縁上では、王家の末裔は黒猫だけだ。
黒猫の曾祖父の御代、後宮で次期国王をめぐる激しい権力闘争が起こった。当時、王の子女は非公式を含めて数十人いたとされるが――黒猫の祖父とその異母妹を除き、全員が死亡した。王族同士の醜悪極まる争いは政を歪め、国を大きく傾けた。即位した先々代が真っ先に後宮を解体し、腐敗に寄生していた悪臣の静粛を行ったのは当然といえる。
しかし、翻ってそれは王族の減少を招いた。先々代の子はフェンリック王のみ。王妹は一度降嫁したものの……子を産めぬ体であることを理由に離縁されている。のちにロナキア公と再婚したが、やはり彼女は生涯実子を持たなかった。
だからこそ黒猫が王子だと明らかになったとき、人々は諸手を上げて喜んだのだ。――これで直系王族の断絶を免れると。
「たとえ俺に子どもができたとしても、それは変わらない。平民の母親から産まれたなんて言い訳は通用しない。何しろ、あんたや俺っていう前例があるんだからな」
黒猫の怒気が、ふと色合いを変える。まるで泣き崩れるように顔を歪めた。
「あんたたちはまた、自分にはどうしようもない生まれで子どもを苦しめるのか。一生外れない鎖でこの子の首を絞めるのか……?」
「アレクシオ……」
フェンリック王は息子に向かって手を伸ばし、だが何かに気づいたようにきつく指先を握り締めた。
そこへ、やんわりと触れる別の手があった。
「サリージェ――」
「……あれだけ枕元で大騒ぎされたら、おちおち寝てもいられないわよ」
薄く目を開けたサリージェ様は、覗きこんでくる夫君に笑みを見せた。そして立ち尽くす黒猫を、この上なく穏やかな声音で呼んだ。
「おいで、アレク」
ほんの一瞬、肩を震わせた黒猫は、よろよろと寝台に近づいた。いっぱいに伸ばされたサリージェ様の両手が少年の白い頬を包みこむ。
「あんたは、昔っから器用なんだか不器用なんだかわからない子よね。セヴィエラ先生にお世話になってから拍車がかかった気がするわ」
その言葉に、場違いにもわたしは噴き出してしまった。途端に恨めしそうに睨まれる。サリージェ様も小さく笑い声を立て、ふっと目を細めた。
「不器用なりに、この子のことを心配してくれてるのよね?」
「……だって、俺は兄貴なんだろ」
黒猫は優しい少年だ。
彼がわたしに注ぐ情愛のどこかには、妹を案じる兄のような慈しみがある。時と場所を違えど、同じひとを母と慕った者の奇妙な親近感ゆえだろうか。だが出会ったばかりの頃から、黒猫は名もない囚人だったわたしに飾り気のない優しさを差し出してくれた。
あんなにも愛情深い彼が、血のつながった弟妹を厭うはずがない。
「俺はこの子の兄貴で、だけど王だ。そう生きると俺が決めた。なら、いつか――俺は王としてこの子に残酷なことを命じなくちゃならないかもしれない。どんなつらい目に遭うか知っていて、それでも、俺は……必ず命じる」
「そうね」
サリージェ様は静かに頷いた。
「それがあんたの選んだ道だから。だからこの子にも、選ばせてあげてくれないかしら」
「……どういう意味だよ」
「あんたが普通のがきんちょみたいに走り回って、セヴィエラ先生にいたずらしかけは返り討ちに遭ってた頃みたいに、そういう時間をこの子にちょうだい」
いっそ傲慢ですらある懇願だった。
「猶予期間ってことか?」
「そう。わたしはあんたも他の子たちもおんなじように育てたつもりよ。この子もそう。負けず嫌いで意地汚い、あんたみたいな子になるわ」
サリージェ様は、まるで未来を物語るように言いきった。その確信は母性の成せる予感ゆえか、あるいは王として凛と立つ息子への信頼に裏打ちされたものなのだろうか。
「わからないだろ、先のことなんて何も」
「そうね。だからどうなってもいいようにあんたが守ってあげてちょうだい。何しろ、この国で一番偉いんだから」
奔放すぎる母君に、黒猫は笑うしかないようだった。だが彼の表情からは、痛々しい強張りは抜け落ちていた。
「おふくろも親父も、本当に勝手だな」
どうしようもない諦観と、哀切と、だが確かな慕情を秘めた声だった。愛し、愛されていること知っているからこその応えだった。
サリージェ様は腕を伸ばし、落葉色の頭をきつく抱き寄せた。わずかに声を詰まらせ、我が子を呼ぶ。
「アレク」
「謝るなよ。礼もいらない。ただ、俺がそうしたいからするだけだ。だからおふくろは、ちゃんとエフィ先生の言いつけ守って、元気な赤ん坊を産んでくれ。親父は今度こそおふくろのそばにいてやれ。ちびすけどもの面倒もちゃんと見るんだぞ」
「……ああ」
沈黙を守り続けていたフェンリック王の目元は、仄かに赤らんでいた。ためらうようにさまよわせた掌を、そっと黒猫の肩に乗せた。
その感触にきゅっと眉間を引き絞り、彼は母君の肩に顔を伏せた。
――わたしは、ここにいないほうがいいのかもしれない。
黒猫を想えばこその喜びが不意に翳り、取り残されたような寂しさがこみ上げてきた。気づかれぬように席を外そうかと考えたとき、カタンと小さな物音が部屋の外から聞こえた。
薄く扉を開けると、怯えたような飴色の瞳と目が合った。パタパタと子どもの足音が走り去っていく。
カロン、とわたしは声に出さず子どもの名を呼んだ。
出会ったときのまなざしが小さな棘のように心のどこかに刺さっている。わずかに開いたままの扉の隙間にためらい、わたしは爪先を廊下に向けた。