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裏切りの翼  作者: 冬野 暉
外伝
21/30

舞台裏 風の芽吹くとき(五)

 べテル孤児院では、二十人ほどの子どもたちを院長夫妻や数人の世話係で養育している。世話係は通いや住みこみなどさまざまだが、いずれもこの孤児院で育ち、巣立っていったかつての孤児なのだという。

「実はわたしもそうなんだけどね」

 なんてことのないように、サリージェ様はからりと笑った。

 カロンを他の世話係に任せ、院長夫妻はわたしたちを食堂に誘った。子どもたちに合わせた低い食卓や小さな椅子が並んだ室内を、黒猫は目を細めて見回していた。午後の明るい陽が射しこむ窓際の席につき、サリージェ様が手ずから用意してくださったのは人肌にあたためられた山羊の乳だった。

「ごめんなさいね、こんなものしかなくて」

「いいえ、ありがとうございます」

 育ち盛りの子どもたちばかりがいる孤児院に、上流階級で嗜まれる紅茶や珈琲があるはずもない。きっとこれも、本来ならば子どもたちのためのものなのだ。わたしは心から礼を述べ、木の碗に口をつけた。癖の強い匂いを嫌がる者もいるが、わたしにとっては乳母の思い出につながるもののひとつだった。

 しかし黒猫は違うらしく、眉間に皺を寄せながら飲んでいる。サリージェ様は呆れ顔になった。

「あんた、まだ山羊の乳が苦手なの? だから成長期に入っても背が伸びなかったんじゃない?」

「しょうがないだろ、苦手なモンは苦手なんだから! だいたい俺の背丈は明らかに親父からの遺伝のせいだろ!?」

「私とて好きで小柄なわけではない。おそらく、母の血筋なのだろう。母はとても小柄で華奢な方だったそうだからな」

「あー……確かに、セヴィエラ先生はすらっとした長身だったもんねぇ。女のわたしから見ても惚れ惚れするくらいカッコよかったわ」

「わたしもそう思います」

 力強く同意すると、先代と当代のトゥスタ国王は複雑そのものの表情を浮かべた。

 トゥスタのご婦人方から熱烈な支持を受けている王族は、凛々しい偉丈夫だった先々代でも、浮名の絶えない貴公子だった先代でも、若葉のように清々しい少年の当代でもなく、冬の湖畔に気高く咲く一輪の白水仙のごとき先々代の妹君である。彼女の絵姿は娘時代のものから晩年のものまで問わず人気が高く、資料の少ない未婚の王女の頃のものはなかなか手に入れるのに苦労した。

「大叔母様に関する城内の女性陣の結束力はおかしい」

 黒猫の呟きに、敢えてわたしは聞こえないふりをした。百戦錬磨の女官や女性騎士たちの間では、今上陛下はもっぱら『おかわいらしい』と評判なのだという事実は黙っておいたほうがよさそうだ。

「サリージェ様は、セヴィエラ様をよくご存じなのですか?」

 それよりも、サリージェ様の口にした呼び名が気になった。サリージェ様は小さく苦笑した。

「そうね、よく知ってるわ。――王妾として城に上がったわたしの後見人を引き受けてくださっただけでなく、淑女に求められるふるまいや行儀作法をご教授くださった恩師なのですよ」

 がらりと変わる口調。訛りひとつない美しい発音の公用語は、彼女の師を務めたという乳母を忍ばせる響きだった。

 王妾とは、妃の称号を持たない王の愛人を指す。時代によってその地位や意味合いは変わってきたが、後宮が解体され、王妃どころか妾妃すらいなかったフェンリック王の御代では、おそらく公的な王の伴侶として目されたに違いない。

 だからこそ王の母親代わりたる乳母が後見人として立ち、あらゆる面でサリージェ様や、引いては彼女を望んだフェンリック王を守ろうとしたのではないか。

「とても厳しくて、だけど優しい方だった。わたしの出自じゃなく、わたしの心を見てくれた。最後までわたしたちのことを心配して、力を尽くしてくださった」

 サリージェ様はそっと睫毛を伏せた。フェンリック王がその肩をやわらかく抱き寄せる。

「……先の冷戦時、叔母上が自ら人質に志願されたことは?」

「存じています」

 疑問に思いながらも頷くと、フェンリック王はなぜか息子を見た。

「アレクシオ」

 ぴんと場の空気が張り詰める。正しく名を呼ばれた黒猫は、眉をひそめつつ「はい」と応えた。

「私はまだ、おまえに話していないことがある。本来ならば、叔母上の喪が明けたときに打ち上げるべきだったが……ずるずると逃げ続け、ここまで来てしまった」

 フェンリック王は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「だがユリエル姫とおまえが連れ立って私たちの許へ訪れたのは、『いい加減に腹を括れ』という叔母上の脅しなのだろう。ユリエル姫にもまた、真実を知る権利が充分あるのだから」

 わたしは黒猫と顔を見合わせた。彼もまた困惑を滲ませていたが、わたしが頷いて見せると唇を引き結んで父君に向き直った。

「――お聞きします」

 ほんの刹那瞑目し、フェンリック王は語り出した。

「話はふたつ。ひとつ目は、かつて私たちがおまえについた嘘のことだ」

「嘘?」

「そうだ。サリージェが王妾を退き、城下に戻った理由について」

 サリージェ様が王城から去ったのは、生来の身分に周囲から強い反発があったためだと聞いた。そのときにはすでに黒猫を身籠っていたが、彼女はだれにも知らせずに息子を産んだ。しかし妃を迎えぬフェンリック王に世継ぎの問題が浮上し、かつての王妾の近辺を密偵が探ったところ、王子の存在が明らかとなった――と。

 他ならぬ、黒猫自身が教えてくれたのだ。

「どういうことですか」

「わたしの妊娠が発覚したのは、冷戦の真っ只中だった」

 ぽつりと、サリージェ様が口を開いた。喉に詰まった何かを押し出すように彼女は続けた。

「レイシアから求められていた人質はね、王妃か、あるいはそれに値するような立場にある女性だったの。当時の王家で当てはまるのはセヴィエラ先生とわたしだけ。……絶対に、お腹の中の子どもの存在をレイシアに知られるわけにはいかなかった」

 わたしの背筋を冷たい電流が走り抜けた。

 ガタンッと隣の椅子が音を立てた。立ち上がった黒猫の顔は、硬く青ざめていた。

「まさか……」

「叔母上がサリージェの後見から身を引くと仰ったのは、間もなくのことだ。サリージェの出自に対する反発が燻り続けていたのは事実だった。サリージェが、私の手が届かぬ場所でひとり苦しみながら戦っていたことも。互いを憂慮し、ゆえに王家の女主人としてサリージェを王妾とは認められぬと、そう宣言された」

 サリージェ様が堪えきれなくなったように両手で顔を覆った。黒猫はその様子にグッと眉間を引き絞り、椅子に座り直した。

「……けれど大叔母様の真意は、もっと違うところにあった。そうですね?」

「ああ」

 押し殺すような黒猫の問いかけに、フェンリック王は肯定を返した。

 わたしは膝の上できつく両手を握りこんだ。乳母は己の身を盾として甥の愛する妻と子を、その先にある故国の未来を守ることを選んだのだ。

 なんと深く、峻烈で、壮絶な愛情だろう。あの細く孤独な背中に、彼女はどれほどの命を背負っていたのだろう。

「では、俺が王子として城に召し上げられたのも……冷戦が終わり、大叔母様がトゥスタに戻られたからですか?」

「そうだ。サリージェと約束していた。おまえの身の安全が確保された時点で、『アレク』は『アレクシオ』となると」

 アレク=べテルは単なる偽名ではなく、黒猫の幼名であり、平凡な下町の少年の本当の名だったのだ。赤く染まった黒猫の髪とサリージェ様の赤褐色の髪に、わたしは言葉にできぬ痛みを覚えた。

 すとんと黒猫の顔から表情が抜け落ちた。やがて滲むように、乾いた笑いを洩らす。

「ああ、だから……あのとき、おふくろは『お預かりしていたものをお返し致します』って……そう言ったのか」

 黒猫の目は遠い記憶を覗きこんでいた。今にも吸いこまれてしまいそうな危うさに、わたしは思わず彼の手を掴んだ。

「黒猫」

 アレクではなく、黒猫と。いつもどおりの、わたしだけに許された名を必死に口にしていた。傍からすれば奇妙な呼称にべテル夫妻が驚いている。黒猫はゆっくり瞬き、わたしを見て微笑んだ。

「――大丈夫だ、小鳥」

 わたしの手を握り返し、黒猫は表情を引き締めた。挑むようにフェンリック王を見据える。

「真実を話していただいてありがとうございます。……でも、俺は、あんたたちの選択に心から感謝することはできない」

「わかっている」

 フェンリック王はどこか淋しげに笑った。サリージェ様は小さく震えている。

「おまえにこそ知っておいてほしかった私たちのわがままだ。許せと、理解してくれというわけではない。おまえからすれば本当に今更だろう?」

 黒猫は何も答えなかった。だが翳りの差した金緑色の瞳の奥には、幼いカロンのまなざしによく似た傷痕が見えた気がした。

「……では、もうひとつのお話とは?」

 ごまかすように黒猫が口調を切り替えると、フェンリック王はぎくりと肩を強張らせた。

「う、うむ」

 先ほどとは違う、妙に落ち着きのない緊張感を漂わせ、わざとらしい咳払いをくり返す。たちまち黒猫は不審者と遭遇したような顔つきになった。

「父上?」

「ああ、いや、うん……その、な……」

 静かな威厳はどこへ行ったのか、フェンリック王の言葉は歯切れが悪い。傍らのサリージェ様も黙りこみ、ぐったりと――血の気の引いた顔で俯いている。

「サリージェ様!?」

 派手に椅子を蹴倒したわたしに、父子がぎょっと目を剥いた。だがサリージェ様の様子に気づくな否や、激しく動揺した。

「おい、おふくろ!」

「しっかりしろ、サリージェ!」

 夫と息子の呼びかけにも、サリージェ様は微かな呻きをこぼすだけだった。節くれ立った、労働を知る女性らしい手がふっくらとした腹部の上をさまよっている。……まるで、大事なものを撫であやすように。

 そのときわたしの脳裏に閃いたのは、いわゆる『女の勘』と呼ばれるものだったに違いない。

「黒猫、すぐにお医者様をお呼びして! フェンリック様、サリージェ様は今何ヶ月でいらっしゃるのですか!?」

「う、産み月はまだだいぶ先のはずだが……」

 しどろもどろに答えるフェンリック王に、わたしは唇を噛み締めた。

 レイシアで乳母から、トゥスタで年長の女官や専属の女性教師ガヴァネスから教えられた知識を必死に思い出す。安定期に入ってからも、些細なきっかけで胎児が流れてしまうことは珍しくない。流れるまではいかなくとも、緊急的な早産になってしまう危険性すらあるのだ。

 わたしは硬直している黒猫を、声の限り怒鳴りつけた。

「しっかりなさい、トゥスタのアレクシオ! あなたの母君とごきょうだいの御身を守りたくば、全力で走りなさい!」

 黒猫がバッと身を翻した。叩きつけるように開かれた扉が悲鳴を上げ、廊下を駆けていく足音が遠ざかっていく。

 わたしは細く息を吐き出した。胸の内側から激しく打ちつけてくる心臓をなんとか宥めながら、サリージェ様を安静に休ませられる部屋はないかフェンリック王に尋ねた。

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