舞台裏 風の芽吹くとき(四)
トゥスタの先の王は、正しくはその御名をフェンリックという。トゥスタのフェンリック、と。
〈雷帝〉と呼ばれた先々代の大業を引き継ぎ、父王にも勝るとも劣らぬ才覚を以て嵐のごとき大改革のひずみを正し、新たな国の礎を整え――しかし、わずか十数年の治世に呆気なく幕を下ろした〈風雲王〉。その退位の理由は明らかにされず、けれども彼が幼少のみぎりより慕い続けた先々代の王妹の死が遠からず関わっているのだろうと城内では暗黙の了解となっている。
王位を息子に譲ったのち、フェンリック王は辺境の離宮に身を隠したという。黒猫からも「世捨て人のように隠居した」としか聞いていない。母君のこと然り、なかなか実の両親との事情に踏めこめずにいたわたしは、もどかしい焦燥を抱きつつも黒猫自身の決断を待つしかなかったのだ。
「……まさか上王陛下が城下に『隠居』されていらっしゃるなんて、だれも考えつかないわよね」
ぼそりと呟くと、隣を歩く黒猫の横顔があからさまに強張った。あとで『とっちめてやる』と心に決め、わたしは向かう先に見えてきた建物に意識を戻した。
フェンリック王の現在の御座所は、二の廓の外れに位置していた。青々とした生垣の奥には、民家というには大きな二階建ての古い煉瓦造りの家屋。広い庭では何人もの子どもたちが賑やかに走り回っている。そのなかのひとりが、わたしたちに気づいた様子で「あっ!」と声を上げた。
「フェンのおじちゃんだー!」
「ほんとだ! せんせぇ、フェンのおじちゃんが帰ってきたよー!」
「カロンもいっしょだー! あと知らないおにいちゃんとおねえちゃんもー」
「あれ、アレク兄ちゃんだよ。前に遊びに来てくれたことがあるもん」
「アレクにーちゃーん!」
どうやら『アレク』はここでも人気者らしい。苦笑を浮かべた黒猫は、門をくぐるなりわっと駆け寄ってきた子どもたちの小さな頭をくしゃくしゃと撫で回した。
「元気にしてたか、ちびすけども」
「もうちびじゃないよ! 背だって伸びたもん!」
「おれも!」
「あたしもー!」
「あーわかったわかった。あとで好きなだけ話聞いてやるし遊んでやるから、とりあえず院長先生呼んできてくれ」
子どもたちは声を揃えて「はーい」と返事をすると、今度は建物のほうに向かって走り出した。すっかりふてくされているカロンを片腕で抱えたフェンリック王が、しみじみと感嘆する。
「おまえはあいかわらず子どもの扱いがうまいな」
「……あんた、一応ここの住みこみの世話係なんじゃないのか?」
「正しくは用心棒だ。ついでに副院長でもある」
呆れる息子に、フェンリック王は真面目な顔で訂正した。現在の彼は、このべテル孤児院の用心棒兼副院長を務める『フェンリー=べテル』であるらしい。
――ここは黒猫の母君が切り盛りする孤児院であり、そして彼が十一歳まで育った生家だった。
カロンはつい最近、べテル孤児院に引き取られた浮浪児なのだという。身寄りを亡くし、掏摸や窃盗をくり返して路上生活を送っていたが、今日のように盗みに失敗して警邏に捕まった末に黒猫の母君が身許を引き受けたそうだ。
しかし、カロンは頑なに孤児院での生活を拒み、両手の指では数え余るほどに脱走騒ぎを重ねていた。
「まったく、ここまで手のかかる糞餓鬼はおまえがはじめてだ」
深々とため息とついたフェンリック王に、抱き上げられたカロンはくしゃりと表情を歪ませた。
「だったら放っとけよ。だれも面倒見ろなんて頼んでねーだろ!」
「そういうわけにはいかぬ。何しろおまえの名はすでにカロン=べテルだ。つまり、サリージェと私の息子で、ついでにアレクの弟ということになっている」
さらりと言ってのけた『父親』に、カロンは虚を衝かれたように口をつぐみ、黒猫はなんとも言いがたい顔になった。
「……ばっかじゃねぇの」
小さな、本当に小さな声で、カロンが言った。フェンリック王は素知らぬ顔で『息子』を抱え直した。
やがて、子どもたちとともにひとりの女性が建物から現れた。それを認めたフェンリック王がゆったりとした足取りで歩き出す。
わずかに間を空け、わたしの手をきつく握った黒猫が続く。わたしは黙って恋人に寄り添った。
「カロン! フェンリー!」
おそらく彼女が『サリージェ』――黒猫の母君なのだろう。フェンリック王よりもいくつか年下だが、まるで娘のように溌剌とした活気に満ちた女性だった。鮮やかな赤褐色の髪をきりりと束ね、ふくよかな身に下町の夫人らしいエプロンドレスを纏っている。
ぱっちりとした巴旦杏型の金緑色の双眸が、そっくりな瞳を持つ息子を驚きとともに映した。
「アレク? なんであんたまで」
「……そいつが俺の連れの財布を掏ったんだよ。で、親父に出くわした」
「なんですって!? カロン、あんたって子はまったくもう!」
母君は眦を吊り上げると、カロンをきつく睨み据えた。びくりと肩を震わせたカロンの背を軽く叩き、フェンリック王が静かに「サリージェ」と呼んだ。
「カロンを叱るのはあとにしてやってくれ。客人を待たせている」
「客人?」
訝しげな視線がわたしを捉える。わたしは姿勢を正し、深く一礼した。
「アレクの嫁だ」
「……はぁ?」
「叔父上からの便りに書いてあっただろう。叔母上の『忘れ形見』で、叔父上の養女になり、そしてアレクの求婚を受けられた姫君だ、と」
再び猫目石の瞳が驚愕に見開かれる。母君はわたしを見、隣の黒猫を見た。黒猫は目を逸らしながら答えた。
「……正式に話が決まったら、一緒に顔を出すつもりだった。今日はこんなところまで来る予定じゃなかったんだ」
母君はきゅっと眉根を寄せた。怒ればいいのか笑えばいいのか、迷った末に微笑んだような顔でわたしに向き直った。
「そうだったの。ごめんなさいね、うちの子がご迷惑をかけて」
「いいえ……」
「紹介が遅れたわね。わたしはサリージェ=べテル。アレクの母親で、一応この馬鹿亭主の妻よ」
「――ユーリ、と申します」
一瞬、なんと名乗るべきか迷った。だが黒猫がただのアレクとして在るこの場では、彼の傍らにいるのはただのユーリがふさわしい気がした。
まっすぐ母君を見つめ返す。すると彼女は――サリージェ様は、どこか懐かしそうにもう一度笑った。
「よろしくね、ユーリ。どうぞいらっしゃい」