第一幕 黒猫と小鳥
その猫は、闇から溶け出したような漆黒だった。
癖の強い黒髪、しなやかな痩身を包む黒装束。顎の尖った細い顔だけが白く浮かび上がっていた。
天井の暗がりから音もなく降ってきた黒猫に、わたしは寝台の上で体を起こしかけた姿勢のまま凍りついた。黒猫は双眸を金緑に輝かせ、値踏みするようなまなざしを向けてくる。
とうに灯りは消しており、牢の中を照らすのは鉄格子の嵌まった窓から射す月光だけだ。ぼんやりとした薄闇に黒猫の輪郭が滲んでしまいそうだった。
どれほど見つめ合っていただろう。時が止まったような感覚が過ぎ去り、ひゅっと喉が鳴った。唇を割って悲鳴が迸る――寸前、大きな掌がわたしの口を塞いだ。
「静かに」
耳朶をくすぐったのは、思っていたよりも高い男の声だった。青年のように映ったが、わたしとそう変わらぬ年頃かもしれない。
黒猫はぴったりと背後に張りつき、もう一方の手を首にかけていた。骨張った指の長い手は、痩せ細ったわたしの首を簡単に握り潰してしまいそうだった。
「騒がなければ危害は加えない。おとなしく俺の質問に答えるんだ」
嘘だ、と叫びたかったが、わたしに選択肢はなかった。横目に視線を返しながら、何度も大きく頷く。
「あんたはここに囚われてるのか?」
もう一度頷く。黒猫は目を細めた。
「じゃあ、あんたが〈鳥籠姫〉か」
――〈鳥籠姫〉?
はじめて聞く言葉に思わず眉根が寄る。
「違うのか?」
首を傾げると、口を覆っていた手が外れた。首元の手はそのままだ。
「……わからない。はじめて聞いたわ」
「十六年前、姦通の罪で処刑された前王妃の娘だ。姿どころか名前すら明かされず、まるで籠の鳥のようだと」
ゆえに、〈鳥籠姫〉。
皮肉といえば皮肉な呼び名だ。鳥を籠に入れるのは、その存在を愛でるため。この身はだれからも疎まれているというのに。
「確かに――それはわたしよ」
自嘲とともにため息がこみ上げてくる。ついに来てしまった、このときが。
「ここへ来たのは陛下のご命令?」
「何?」
「それとも他のだれか? どちらにしても結局は同じことだけれど」
わたしは首をひねって黒猫に向き直った。彼は怪訝そうに眉をひそめている。
「わたしを殺しに来たんでしょう?」
笑ってみせると、黒猫は虚を衝かれたように目を瞠った。その表情はどこか幼く、わたしはようやく彼が少年なのだと実感した。
「……なんだと?」
「あなた、わたしを殺すために送られてきた刺客なんでしょう?」
音を立てない身軽な動き。夜に溶けこむ黒装束。何より、わたしが目的であることにそう思わずにはいられない。
いつかこの日がやってくるだろうと考えていた。王の娘かもしれぬというあえかな命綱が切れて、死神が枕辺に降り立つ日が。
――新しい王妃が身籠ったと聞いたのは、一年近く前のこと。
世話役である女官が、これみがよしに悪意を含んだ声で笑っていた。無事に御子がお産まれになれば、もはやあなた様をこの世に留めておく必要はないでしょう、と。
これまで王はなかなか子どもに恵まれなかった。だからこそ余計にわたしを殺すわけにはいかなかったのだ。しかし、れっきとした王の子が産まれてしまえば、わたしは邪魔者でしかない。
格子窓の向こうに月が満ちては欠けるのを九つ数えた頃、元気な男児が産まれたと聞かされた。その晩、わたしは声を殺してひっそりと泣いた。
それからずっと、この日の訪れをおそれていた。待っていた。
「その手でわたしの首を折る? それとも刃で胸を突く? ああ、もしかして毒を飲まされるのかしら。でも安心して、手を煩わせたりしないから」
覚悟はできている。わたしの忌まわしさを、だれよりもわたしが知っている。
わたしの名は罪。わたしの名は裏切り。
「さあ、どうぞ」
顎を反らして喉を晒してみせると、黒猫は大きく顔をしかめた。
「あいにく」
するりと拘束が解かれる。
「俺は暗殺が生業じゃないんでね。あんたは殺せない」
離れていく黒猫を、わたしは茫然と視線で追いかけた。
「……どういうこと?」
「俺はあんたが考えてるような者じゃないってことさ」
わずかに距離を取った黒猫が薄く笑う。それは思いがけず優しいものだった。
「それじゃあなたは……」
「おっと。それ以上聞いていいのか?」
ひらりと翻された掌に、ハッと口をつぐむ。余計な詮索は命取りになるということか。
「言っただろ。『騒がなければ危害は加えない』って」
「……わたしが城の者に言ったらどうするの?」
「言うのか?」
即座に切り返され、答えに詰まる。黒猫はにやりと口端を吊り上げた。
「俺が外れっていうことは、まだ『猶予』が残ってるんだろ。最後まで大事にするんだな」
見透かされていると気づいた途端、体が思い出したように震えた。恐怖と安堵が綯い交ぜになってこみ上げてくる。
……生きている。
わたしはまだ生きている。死なずともよいのだ。
また生き延びてしまったと嘆くか、それともいたずらに死を遠ざけた黒猫を残酷だと詰るべきか。しかし胸を満たすのは、まぎれもなく安堵だった。
へたりこんだわたしに苦笑し、黒猫はふわりと寝台から降りた。
「さてと。そろそろお暇させてもらうよ。あんたといろいろ話していきたいとこだが――あっという間に夜が明けちまいそうだ」
緑がかった金という珍しい色合いの瞳を細め、彼はわざとらしく言った。
「そうだ。噂の〈鳥籠姫〉に会えたんだ、せっかくだからその名前をいただいてこうか?」
ゆるんでいた心が再び強張った。
沈黙するしかないわたしに、黒猫は「ん?」と首を傾げる。束の間の喜びを、仄暗い感情がじわじわと塗り潰していく。
「……さあ」
わたしは引きつったような笑みを返した。
「知らないわ。呼ばれたことなんてないから」
途端に黒猫の顔から表情が抜け落ちる。案外わかりやすいのだなと、他人事のように思った。
「それとも、わたしの名前は『裏切り』かしら。あるいは『罪』?」
「……それはだれが言ったんだ?」
「みんなよ」
だれが、などと尋ねるまでもない。
黒猫は一瞬険しい色を覗かせ、そしてひょいっと肩を竦めた。
「名前を知らないんじゃ呼びようがない。そうだな……『小鳥』とでも呼ぼうか」
「は?」
いきなりの言動に面食らっていると、ぽんぽんと軽く頭を叩かれた。
「ちびなあんたにお似合いだろ?」
「なっ……」
からかわれたのだと気づいてカッと顔が熱くなる。黒猫はにやりと腹立たしい笑みを見せると、羽のようなステップを踏んで背後の闇に紛れこんだ。
「ちょ……!」
「またな――小鳥さん」
闇の向こうから不思議に響く声が返ってくる。それっきり、静寂が波寄せてきた。
「……またな、って」
いったい、どういうこと?
まるで夢を見ていたかのような出来事。けれど敷布に残る微かなぬくもりが、そこに黒猫がいたことを教えてくれた。
――のちに、わたしは知ることとなる。
彼こそが、新たなわたしの運命だと。