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裏切りの翼  作者: 冬野 暉
本編
2/30

第一幕 黒猫と小鳥

 その猫は、闇から溶け出したような漆黒だった。

 癖の強い黒髪、しなやかな痩身を包む黒装束。顎の尖った細い顔だけが白く浮かび上がっていた。

 天井の暗がりから音もなく降ってきた黒猫に、わたしは寝台の上で体を起こしかけた姿勢のまま凍りついた。黒猫は双眸を金緑に輝かせ、値踏みするようなまなざしを向けてくる。

 とうに灯りは消しており、牢の中を照らすのは鉄格子の嵌まった窓から射す月光だけだ。ぼんやりとした薄闇に黒猫の輪郭が滲んでしまいそうだった。

 どれほど見つめ合っていただろう。時が止まったような感覚が過ぎ去り、ひゅっと喉が鳴った。唇を割って悲鳴が迸る――寸前、大きな掌がわたしの口を塞いだ。

「静かに」

 耳朶をくすぐったのは、思っていたよりも高い男の声だった。青年のように映ったが、わたしとそう変わらぬ年頃かもしれない。

 黒猫はぴったりと背後に張りつき、もう一方の手を首にかけていた。骨張った指の長い手は、痩せ細ったわたしの首を簡単に握り潰してしまいそうだった。

「騒がなければ危害は加えない。おとなしく俺の質問に答えるんだ」

 嘘だ、と叫びたかったが、わたしに選択肢はなかった。横目に視線を返しながら、何度も大きく頷く。

「あんたはここに囚われてるのか?」

 もう一度頷く。黒猫は目を細めた。

「じゃあ、あんたが〈鳥籠姫〉か」

 ――〈鳥籠姫〉?

 はじめて聞く言葉に思わず眉根が寄る。

「違うのか?」

 首を傾げると、口を覆っていた手が外れた。首元の手はそのままだ。

「……わからない。はじめて聞いたわ」

「十六年前、姦通の罪で処刑された前王妃の娘だ。姿どころか名前すら明かされず、まるで籠の鳥のようだと」

 ゆえに、〈鳥籠姫〉。

 皮肉といえば皮肉な呼び名だ。鳥を籠に入れるのは、その存在を愛でるため。この身はだれからも疎まれているというのに。

「確かに――それはわたしよ」

 自嘲とともにため息がこみ上げてくる。ついに来てしまった、このときが。

「ここへ来たのは陛下のご命令?」

「何?」

「それとも他のだれか? どちらにしても結局は同じことだけれど」

 わたしは首をひねって黒猫に向き直った。彼は怪訝そうに眉をひそめている。

「わたしを殺しに来たんでしょう?」

 笑ってみせると、黒猫は虚を衝かれたように目を瞠った。その表情はどこか幼く、わたしはようやく彼が少年なのだと実感した。

「……なんだと?」

「あなた、わたしを殺すために送られてきた刺客なんでしょう?」

 音を立てない身軽な動き。夜に溶けこむ黒装束。何より、わたしが目的であることにそう思わずにはいられない。

 いつかこの日がやってくるだろうと考えていた。王の娘かもしれぬというあえかな命綱が切れて、死神が枕辺に降り立つ日が。

 ――新しい王妃が身籠ったと聞いたのは、一年近く前のこと。

 世話役である女官が、これみがよしに悪意を含んだ声で笑っていた。無事に御子がお産まれになれば、もはやあなた様をこの世に留めておく必要はないでしょう、と。

 これまで王はなかなか子どもに恵まれなかった。だからこそ余計にわたしを殺すわけにはいかなかったのだ。しかし、れっきとした王の子が産まれてしまえば、わたしは邪魔者でしかない。

 格子窓の向こうに月が満ちては欠けるのを九つ数えた頃、元気な男児が産まれたと聞かされた。その晩、わたしは声を殺してひっそりと泣いた。

 それからずっと、この日の訪れをおそれていた。待っていた。

「その手でわたしの首を折る? それとも刃で胸を突く? ああ、もしかして毒を飲まされるのかしら。でも安心して、手を煩わせたりしないから」

 覚悟はできている。わたしの忌まわしさを、だれよりもわたしが知っている。

 わたしの名は罪。わたしの名は裏切り。

「さあ、どうぞ」

 顎を反らして喉を晒してみせると、黒猫は大きく顔をしかめた。

「あいにく」

 するりと拘束が解かれる。

「俺は暗殺が生業じゃないんでね。あんたは殺せない」

 離れていく黒猫を、わたしは茫然と視線で追いかけた。

「……どういうこと?」

「俺はあんたが考えてるようなモンじゃないってことさ」

 わずかに距離を取った黒猫が薄く笑う。それは思いがけず優しいものだった。

「それじゃあなたは……」

「おっと。それ以上聞いていいのか?」

 ひらりと翻された掌に、ハッと口をつぐむ。余計な詮索は命取りになるということか。

「言っただろ。『騒がなければ危害は加えない』って」

「……わたしが城の者に言ったらどうするの?」

「言うのか?」

 即座に切り返され、答えに詰まる。黒猫はにやりと口端を吊り上げた。

「俺が外れっていうことは、まだ『猶予』が残ってるんだろ。最後まで大事にするんだな」

 見透かされていると気づいた途端、体が思い出したように震えた。恐怖と安堵が綯い交ぜになってこみ上げてくる。

 ……生きている。

 わたしはまだ生きている。死なずともよいのだ。

 また生き延びてしまったと嘆くか、それともいたずらに死を遠ざけた黒猫を残酷だと詰るべきか。しかし胸を満たすのは、まぎれもなく安堵だった。

 へたりこんだわたしに苦笑し、黒猫はふわりと寝台から降りた。

「さてと。そろそろお暇させてもらうよ。あんたといろいろ話していきたいとこだが――あっという間に夜が明けちまいそうだ」

 緑がかった金という珍しい色合いの瞳を細め、彼はわざとらしく言った。

「そうだ。噂の〈鳥籠姫〉に会えたんだ、せっかくだからその名前をいただいてこうか?」

 ゆるんでいた心が再び強張った。

 沈黙するしかないわたしに、黒猫は「ん?」と首を傾げる。束の間の喜びを、仄暗い感情がじわじわと塗り潰していく。

「……さあ」

 わたしは引きつったような笑みを返した。

「知らないわ。呼ばれたことなんてないから」

 途端に黒猫の顔から表情が抜け落ちる。案外わかりやすいのだなと、他人事のように思った。

「それとも、わたしの名前は『裏切り』かしら。あるいは『罪』?」

「……それはだれが言ったんだ?」

「みんなよ」

 だれが、などと尋ねるまでもない。

 黒猫は一瞬険しい色を覗かせ、そしてひょいっと肩を竦めた。

「名前を知らないんじゃ呼びようがない。そうだな……『小鳥』とでも呼ぼうか」

「は?」

 いきなりの言動に面食らっていると、ぽんぽんと軽く頭を叩かれた。

「ちびなあんたにお似合いだろ?」

「なっ……」

 からかわれたのだと気づいてカッと顔が熱くなる。黒猫はにやりと腹立たしい笑みを見せると、羽のようなステップを踏んで背後の闇に紛れこんだ。

「ちょ……!」

「またな――小鳥さん」

 闇の向こうから不思議に響く声が返ってくる。それっきり、静寂が波寄せてきた。

「……またな、って」

 いったい、どういうこと?

 まるで夢を見ていたかのような出来事。けれど敷布に残る微かなぬくもりが、そこに黒猫がいたことを教えてくれた。

 ――のちに、わたしは知ることとなる。

 彼こそが、新たなわたしの運命だと。

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