舞台裏 風の芽吹くとき(三)
わたしの心臓は壊れたように高鳴りっ放しだった。
何しろ目にするすべてがはじめて体感するものばかりなのだ。知識では知っていても、あれは何、それは何、と黒猫の腕を掴んで放さず質問責めにしてしまった。おかげで何度も彼の苦笑を誘い、最終的には「ちょっと落ち着け」と幼子を宥めるように頭を叩かれた。
ラロフというご老人が店主を務める書肆では、頼まれたおつかいの品以外に、黒猫が『ちゃきちゃきの王都っ子が選ぶ食べ歩き百選』という大衆向けの王都の地図を買ってくれた。『ユーリ=べテル』のような王都にやって来たばかりの『おのぼりさん』にたいへん好評であるらしい。他にも、かわいらしい小花模様をあしらった筆や揃いの柄の筆記帳まで。筆も筆記帳も養父が用意してくれたものがあると断ろうとしたら、「俺があんたに買ってやりたいんだよ」とふてくされた顔で睨まれた。ご店主はにこにこしながら、城仕えの若い男女の間では交換日記なるものが流行しているのだと教えてくれた。
「つまり、手紙のやりとりのようにお互いに宛ててその日の出来事を綴るのね?」
書肆をあとにし、わたしはやはり黒猫に尋ねた。
「ああ」
「……トゥスタでは恋人同士でやるものなの?」
「女官たちはどうだか知らないけど、騎士や侍従のなかに男同士でやってるやつは聞いたことがないな」
肩を竦める黒猫に、わたしは小首を傾げた。
「子どもの頃、文字の練習を兼ねてお義母様と同じものをやっていたのだけれど……あれは交換日記とはいわないのかしら?」
「……実は俺もやらされた」
黒猫は金緑色の瞳を眇め、ちろりと舌を見せた。わたしは小さく噴き出した。
しばらく一緒に笑い転げ、結局、小花模様の筆記帳は懐かしい『交換日記』に使うことに決まった。きっと養父に報告したら、彼もおかしそうに声を上げるだろう。あるいは、若かりし頃の似たような思い出を教えてくれるかもしれない。
揚げ菓子が評判のおかみの店へまでの道すがら、黒猫は約束どおり他の商店をいくつも紹介してくれた。果物屋ならあそこ、あの小間物屋ならたいていの品が揃うけど店主のばあさんが気難しい、あの鍛冶屋の若旦那は店を継いだばかりだけどなかなかの腕前だ。顔なじみも多いようで、なかにはわざわざ店から出てきて「アレク!」と呼び止めるご店主もいるほどだった。
陽気なパン屋の主人からぜひ感想を聞かせてくれと手渡された『新作商品』に、わたしは思わず胡乱な目を向けた。
「あなた、城下でいったい何をしているの?」
「前に来たとき、パン屋のおやじにいくつか忠告しただけだよ」
黒猫は空とぼけた顔で、干した果実とカスタードを練りこんだというパンを齧っている。行儀が悪いと注意すれば、「ユーリはますます大叔母様に似てきたなぁ」となぜか笑われた。
彼がぺろりとパンを平らげた頃、なんとも甘く香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。見ると、前方のこぢんまりとした商店の前に人だかりができている。その多くはわたしたちと同じ年頃の若者だったり、もっと幼い子どもたちだ。
「今日は混んでるなぁ」
どうやらあそこが目的の店らしい。これはかなり時間がかかるかもしれないと困惑していると、思いがけない衝撃に後ろから襲われた。
「きゃっ……」
「ごめんよ、急いでんだ!」
わたしにぶつかったらしい人物が俯きがちに怒鳴り、そのまま走り去ろうとした。わたしよりもだいぶ小柄な少年だ。目深に被った帽子に隠れて、顔がよくわからない。
ぽかんとするしかないわたしの目の前で、だが彼よりも素早く黒猫が動いた。しなやかな腕が伸び、まるで仔猫をつまみ上げるように少年の襟首を捕まえる。
「ぐぇっ」
「ちょ――何をするの、アレク!」
悲鳴を上げたわたしに、黒猫は冷ややかな一瞥を返した。「掏摸だ」と、おそろしく淡々と告げる。
「……え?」
「ユーリ、財布があるかどうか確認するんだ」
有無をいわさぬ力強さに、わたしは慌てて肩から下げた小さな鞄の中を探る。そして愕然とした。
ひとつため息を洩らし、黒猫は少年の上着の内側に手を突っこんだ。途端に甲高い罵倒が上がるが、あっという間に見慣れた財布を探り当てられると、ぴたりとおとなしくなった。
「悪かったな、俺もちゃんと注意しておけばよかった」
「う、ううん。ねぇアレク、その子……」
渡された財布を胸元で握り締め、わたしはおそるおそる黒猫を窺った。彼は軽く眉をひそめた。
「とりあえず、警邏に任せよう」
「――ッ、放せよ! 放せってば!」
弾かれたように少年が暴れ出す。帽子のつば先が上を向き、あらわになった顔はまだ十にもならぬあどけないもの。大きな飴色の瞳が手負いの獣のように荒々しくわたしを睨んだ。
「アレク……」
わたしは縋るように黒猫の腕に手を添えた。だが猫目石のまなざしは揺らがない。
少年を見逃すことが本当に正しいのかと問われているようだった。わたしは答えられずに俯き、しかし添えた手を外すこともできなかった。
周囲のざわめきが聞こえる。こちらに駆けてくる足音。騒ぎを見ていた通行人のだれがが警邏の兵を呼んでしまったのだろうか……。
黒猫が大きく息を呑んだ。
「すまないが、その子を放してもらえないか」
サッと緊張を孕んだ気配に驚いて視線を上げると、ひとりの男性が立っていた。暴れていた少年が助けを求めるように叫ぶ。
「フェンのおっさん!」
「おっさんではない。そして今の私はフェンリーだ、フェンではない」
「どっちでもいいよ! 早く助けろよ!」
「まったくおまえは図々しい糞餓鬼だな、カロン。勝手に脱走して勝手に巾着切りに失敗した挙句に捕まるとは。図々しい上に世話が焼けるが、おまえを無事に連れて帰らねば私がサリージェにどやされるのだから仕方がない」
「……なんであんたがここにいるんだ」
黒猫が苦々しく呟く。
「父上」
そこではじめて気づいたというように男性が瞬いた。赤みの強い琥珀色の双眸がこちらを見る。
「だれかと思えば、……アレクではないか」
若くはなく、だが中年というには齢が足らぬ年の頃。長身ではないが、くたびれたシャツとズボンに包まれた体躯は引き締まった武人のものだ。項でゆるく結わえた豊かな黒髪は、うねりながら背の半ばまで落ちている。
いささか無精な口髭が目立つ容貌は、甘やかでありながら男らしい精悍さを併せ持ち、寄せられる秋波に事欠かぬに違いない。そして、黒猫が相応に年月を重ねれば彼のようになるのだろうという面影を感じさせた。
急展開も甚だしい成り行きに、カロンと呼ばれた少年が目を丸くしている。
「おっさん、こいつらと知り合いなのかよ!?」
「私の息子だ。隣の娘御ははじめてお会いするが……アレク、おまえもやはり私や愚父の血筋ということか。いったいいつから市井の女子に手を出すようになった?」
「あらぬ誤解を招くような言いがかりをつけるな! こいつは俺の許嫁だ!」
黒猫の反論にどこからか口笛が鳴る。気づけば、おそろしいほどの野次馬に囲まれていた。わたしは今すぐこの場から逃げ出したい羞恥と更なる混乱に陥った。
「許嫁? ――ああ、では、そうか……あなたが、叔母上の……」
夕焼け空を思わせる瞳がわずかに揺れる。そして、ほろりと彼は笑った。
それはとても見慣れた表情だった。黒猫が、養父が、わたしを見つめ、わたしの向こうにもういない彼女を見つけたときの微笑みだった。
「そうか、そうか……おまえの嫁になる娘御か。それは失礼した。ならば尚更、このような場では具合が悪い。カロンの無礼を詫びるだけでなく、サリージェにも会わせてやらねば」
黒猫とカロンが揃えたように顔をしかめた。そんなふたりを気にも留めず、城下ではフェンリーと名乗っているらしい先代トゥスタ国王陛下は、恭しくわたしの手を取った。
「というわけですまないがお嬢さん、狭苦しい我が家なれど愚息ともどもお越しいただけないだろうか」
「……はぁ」
いつになく間の抜けた返答しかできなかったわたしを、いったいだれが責められるだろうか。盛大な舌打ちののち、黒猫が父親の手をはたき落したのは言うまでもない。