舞台裏 風の芽吹くとき(二)
当然のように黒猫は反対した。
曰く、「小鳥を城下にひとりで放り出すなんざ飢えた狼の群によちよち歩きの仔羊を投げこむよりも始末が悪すぎる!」。確かに『箱入り』であることは認めよう、だがいささか失礼ではないだろうか。
わたしだって王都の物価ぐらい知っているし、庶民の売買の作法も理解しているし、店主が年配の男性だったら小首を傾げつつ上目遣いで「おじさん、もうちょっとまけてくれない?」と微笑む値切りの交渉術だって側つきの女官たちから合格点を貰っている。なので反論したところ、「うちの女官は真面目に仕事しろ!」と明後日の方角へ叫んでいた。女官たちにもたいへん失礼である。
というわけで揉めに揉めた末、養父のとりなしで黒猫の同伴という条件がついた。それこそ国王は真面目に政務に取り組むべきではないかと言ったが、見たこともないおそろしい顔で睨まれたのでそれ以上は控えることにした。沈黙は黄金なり。
しかし考えを翻せば、これほど心強いつき添いもいないのだった。黒猫は十一まで市井で育ち、王城に上がってからもたびたび忍んで城下に足を運んでいた。
王子になって間もない頃、何度も脱走を試みては連れ戻されていたらしい。あるとき、彼の大叔母から「必ず帰ってくると約束するのなら、好きなところへ行きなさい」と言われたのだという。黒猫によれば、「大叔母様の『おかえりなさい』に敵わなかった」そうだ。彼女がいなくなった今でも、黒猫はきちんと約束を守り続けている。
王都の隅から隅まで知り尽くし、名うての剣士でもある黒猫は、わたしの護衛兼案内人としてこの上なき適役だったというわけだ。何より彼自身、自分の手でわたしを守れることに安堵しているようだった。
……本当はわたしが一番浮かれているのだが、素直に口にするのはなんだか腹立たしいのでしばらくの秘密である。
「ユーリ、王都の地理は頭に入ってるか?」
「ええ、だいたいは」
裏門の手前に至り、おさらいのように黒猫が尋ねてきた。わたしは今日まで何度も目に焼きつけた王都の地図を脳裏に広げる。
トゥスタ王都は、王城を中心に五つの城廓に取り囲まれた要塞都市だ。いくつもの小国が生まれては滅んだ乱世の名残であり、百年近くに及ぶレイシアとの戦火の歴史の証でもある。
歴代のトゥスタの王たちが最も心血を注いだ事業こそ、城郭の建造だった。煉瓦で築かれた堅牢な城郭は幾度となく王都を敵軍の侵攻から守り、〈武王〉と呼ばれた最後のレイシア国王ですらついぞ陥落せしめることが叶わなかった。
「王城のある一の廓までが『城内』。二の廓が旧市街でもある城下町で、最も大きな三の廓が平民の居住区。四の廓、五の廓に貴族や官吏の邸宅、王領などがあるのよね?」
「そう。俺たちが今いるのは、一の廓の一番外側」
貴族の居住区が外郭にある、というのはとても不思議だ。生まれ育ったレイシアでは、王城にまとわりつくようにして貴族の邸宅がひしめき合い、更にその足元に平民が暮らす下町が広がっていた。……先の戦では、外側にあった市街ほど被害が大きかったそうだ。
トゥスタ王都はまったく逆に、有事には民を守れるように外郭に諸侯を配置している。トゥスタ貴族の多くは乱世の頃に王家に下った豪族たちの子孫であり、彼らの居住区を新たに設けるには外に向かって城郭を増やすしかなかったからだとも黒猫は言っていた。おそらく、当時の国王は巧妙にそれを利用して王都の守備をいっそう図ったに違いない。
「そしてこれから行くのは二の廓だ。『おつかい』の内容はなんだっけ?」
「『ラロフの書肆で『トゥスタ近代史』の新版、『王都月報』の先月刊と今月刊を買って、イネスの店で揚げ菓子を三つ買ってくるように』……だったかしら」
黒猫はどちらの店も知っているようで「ああ」と頷いた。
「確かに二の廓でならラロフじいさんの書肆が一番品揃えがいいし、イネスのおかみさんの揚げ菓子はとびっきりうまい。若い女官や騎士見習いのやつらが、休みになるとよく買いに行ってる」
「あなたも?」
半眼で見遣ると、黒猫はわざとらしく肩を竦めた。
「俺だって、たまには作るばかりじゃなく買い食いしたくなるんだよ」
「……陛下つきの女官や騎士が、陛下が執務室に監禁されるたびに城下に走らされる理由がようやくわかったわ」
さしずめ『アレク=ベテル』が城下に現れるときは、その密命を帯びた役どころなのだろう。『アレクシオ国王陛下』は、本日も執務室で書類の山と格闘されているはずだ。
「じゃあ先に書肆へ回って、それから揚げ菓子を買いに行こう。イネスのおかみさんの店まで結構歩くから、ついでに他の店もひやかしてさ」
黒猫は機嫌よく笑い、つないだ手を優しく引いた。わたしは慌てて彼のあとを追いかける。
裏門は、『裏門』といっても荷馬車が互い違いに通ってもまだまだ余裕がある大きなものだ。樫の丸太をつなぎ合わせた扉は高く持ち上がり、巨大な獣が顎を開いたように尖った先端を見せつけている。その威容に思わず唾を飲み下した。
「よぉアレク、女の子連れとは珍しいなぁ!」
通門証を確かめていた中年の兵士が親しげに黒猫の肩を叩いた。
「ああ、従妹だよ。俺を頼って城に行儀見習いとして上がったばっかりなんだ」
「こ……こんにちわ」
まじまじと凝視してくる兵士に、なんとか愛想笑いを返す。さりげなく黒猫が肩を抱き寄せ、ぶしつけな視線から庇ってくれた。
「おい、あんまりじろじろ見るなよ」
「いやぁ、大した別嬪さんだと思ってなぁ。すまねぇなぁ嬢ちゃん、怖がらせちまって」
「い、いえ」
兵士はからりと笑い、すぐに離れていった。黒猫はわたしの肩を抱いたまま、足早に門を通り抜けた。
「……悪いやつじゃないんだ。あんまり気にしないでやってくれ」
苦笑混じりのささやきに、強張っていた頬がホッとゆるんだ。
「大丈夫よ、ちょっとびっくりしただけ。……別嬪さんだなんて褒められたのは、はじめてだわ」
「本当のことだから喜んでいいと思うぞ。ただ、まあ、愛想はそんなに売らなくていい」
「あら、どうして?」
肩に回していた手を外し、わたしの手を握り直しながら、黒猫はちょっと顔をしかめた。
「わかってるのに訊くな」
わたしは笑い声を洩らした。そして、それはすぐに驚嘆の声に変わった。
門の影の下から出ると、『街』が広がっていた。
そう、街だ。迷宮のように張り巡らされた赤褐色の城壁の中に、数多の、無数の、数えきれぬほどの屋根が隣り合い、濃淡さまざまな煉瓦色のモザイク画を描いている。ところどころに木立の緑が鮮やかに映え、遥か彼方の四の廓、五の廓の街並は淡い山吹色に霞んでいた。
やはり煉瓦で舗装された道は緩やかな下り坂になり、眼下の通りへとまっすぐ伸びていた。家々の軒先には色とりどりの絵や文字が刻まれた看板が吊るされ、開け放たれた戸口から客引きの声が響いている。ひらひらと風に踊る洗濯物、窓辺に飾られた鉢植えの花。男がいる。女がいる。まろびそうに杖を突いている老人の横を、小さな子どもたちが仔犬を追いかけて走っていく。笑い声、話し声、どこかで怒鳴り合う声もする。重い荷物を積んだ馬車を引く牛馬のいななきや轍の音。喧騒。
――ああ、これが、人々の営みのかたちなのだ。
「ユーリ」
気づけば立ち尽くしていたわたしを、黒猫の静かな声が呼んだ。わたしはきつく目を瞑り、ゆっくりと瞼を押し上げた。
幻ではない。夢ではない。目まぐるしく、力強く、熱と音と色に満ちた世界がわたしを待っていた。風が頬に落ちた後れ毛を揺らし、埃っぽいような甘いような辛いような匂いを運んでくる。鼓動が痛い。涙が滲む。わたしは、泣き笑いたくなるような心地で傍らの少年に応えた。
「アレク」
「ああ」
「きれいね、とても。あなたの国は、とても、とても、きれいね」
ぎゅうっと彼の手に力がこもる。「そうか」という呟きに、わたしは何度も頷いた。
「……あんたの国だ、ユーリ。もうここは、あんたの故郷なんだ」
黒猫の声も、震えるように掠れていた。わたしは同じ強さをこめて彼の手を握り返した。
知っている。ここがわたしが生きて、いつか彼の隣で眠る場所。わたしが選び、わたしが手に入れた、わたしのふるさと。
「行こう、ユーリ」
光射す向こうへ黒猫が誘う。わたしは心から微笑んで、一歩を踏み出した。