舞台裏 風の芽吹くとき(一)
「ユーリ、少しばかりおつかいを頼まれてくれないかね」
そう言ったのは、わたしの養父であり勉学の師でもあるロナキア公だった。
いつもどおりの講義のあと、「今日は仕事がないから一緒にお茶でも飲まないかな」と嬉しいお誘いを受けた。とうに隠居した身だとぼやいているが、有能極まりない養父は未だにあちこちから引っ張りだこだ。そしてその半分は、養父の姪孫に当たる若き国王からの依頼だったりする。おかげでお茶を飲むどころか、同じ食卓につくこともなかなか難しい。
なので、講義以外で養父と過ごせる機会はとても珍しく、わたしの心はそわそわと落ち着きなく弾んでいた。手ずから紅茶を淹れ、国王が『ストレス発散』とやらの名目で大量に焼いたという旬の果実を豪勢に飾ったパイを切り分けてくれる。上品な紅茶の香りと酸味の強い果実の甘い匂いがふんわりと混ざり合い、いっそう気分が浮き立ってしょうがない。
黒猫との秘めやかな茶会とは少し違う、どこか懐かしいぬくもりを感じる時間だった。
師として向き合うときの養父は、穏やかだが一切の容赦なく手厳しい。正直、思わず涙ぐんでしまったことも一度や二度ではない。だが、彼の期待どおりの答えを導き出せたときの微笑みは、この上なく優しいのだ。
わたしはそのたびに、養父の亡き細君を思い出す。冷たく薄暗い牢の内側に仄かに浮かんだ陽だまりのような、不器用な『母』の情愛を。
――あなたはもういない。けれど、確かに残してくれたものがある。
切ない幸福に浸っていると、ふと養父が先ほどの話を切り出したのだった。
「おつかい……ですか?」
耳慣れない言葉に首を傾げると、養父は榛色の瞳を細めて頷いた。
ところどころ鳶色が残る白髪を撫でつけ、丸眼鏡をかけた好々爺そのものの容貌は、近隣諸国にも辣腕と知られた名宰相というよりも一介の老学者めいた印象だ。かなりの猫背だからか、やわらかな布張りの椅子に腰かけた姿は『ちょこん』と形容したくなる。
先代の国王から王家の貴人たる『大公』の称号を贈られ、ゆえに殿下と称すべきお方だが、本人の強い希望で太師閣下、あるいは領地にちなんでロナキア公と呼ばれている。ロナキアのイーグの娘、ユリエル。それがわたしの現在の名であり身分だ。
「きみがトゥスタに来てどれくらいになるかな?」
「ええっと……そろそろ一年、でしょうか」
「そうだね。しかし、この一年の間にきみは王城の外へ出たかい?」
「……いいえ」
養父の問いに、わたしは頭を振った。戦後しばらくは国王預かりの身、養父に引き取られてからは彼の邸宅に居を移したが、それも王城の一画である。諸侯や官吏との面通しもすべて城内で行われ、わたしはトゥスタにありながら一度としてその土を踏んでいなかった。
「お義父様、けれどそれは……」
「うん、今までアレクが許さなかったからね。対外的にはレイシア王家の生き残りだからという理由だろうけれど、本音ではきみを手の届くうちに囲っておきたかったんだろうねぇ」
のんびりとした鋭い指摘に、思わず耳まで熱くなる。きっと黒猫がこの場にいたら、決まりの悪い顔でそっぽを向いているに違いない。
「でもね、ユーリ。きみはもう前レイシア王妃の庶子ではなく、僕の娘で、アレクの――我がトゥスタの王の求婚を受けた身だ。正式な宣旨はまだ下りてないけれど、いずれ立后するだろう」
養父の口調がわずかに色合いを変えた。わたしは姿勢を正し、「はい」と頷いた。
妃になってほしいと望んだ黒猫に、わたしは是と答えた。母を苦しめ、死に追いやった道を、自分で選んだのだ。
黒猫とともに真っ先に報告したとき、養父はほんの少し困ったように微笑んだ。喜びと悲しみを少しずつ混ぜ合わせたような表情だった。
だからわたしは、かつて今はもういないあのひとに語ったように、後悔などしないと言った。後悔しないために選択したのだと。
人生の最後に、たとえば毒の杯を飲み干して、たとえば心臓に刃を突き立てて、たとえば処刑台の階を上りきって、わたしは幸福に包まれて目を瞑るだろう。もしもこの命を絶つ手が黒猫のものだとしても、わたしの心はどこまでも満たされているに違いない。
彼と生きて、彼と彼の国のために死ねることを、なぜ誇らずにいられようか。
「僕はね、王妃の役目は次代の王の母となることだけではないと思うんだ。王母というだけなら王妃でなくともなれる。……先々代や先代の伴侶のようにね」
養父が二代に渡って仕えた国王たちは、いずれも正式な妃を娶らなかった。
破壊的な改革によってトゥスタ中興の祖となった黒猫の祖父は、国庫を食い荒らすだけの豚と化した後宮制度を廃止した。彼は晩年にようやくひとりの女性にめぐり逢うが、なんと彼女は最下層の娼婦だったという。いったいどんな運命があったのか想像もつかないが、はたしてふたりは結ばれ、息子をもうけた。
長じた黒猫の父親が愛したのもまた、市井の娘だった。黒猫によると、一度は王妾として城に上がったが、数年後に先代の許を去ったらしい。現在は城下でひっそりと暮らしているそうだ。
両親について、黒猫は多くを語ろうとはしない。養父やその細君との思い出ならいくらでも聞かせてくれるのに、実の母君のことを尋ねたときには苦い顔で黙りこんでしまった。
……わたしにとって産みの母がそうであるように、彼にとってもまた、母親というひとは痛みを伴う存在なのだろうか。
「たとえばきみを迎えるだけなら、先代のように王妾とすればいい。でもきみたちが望んだのは、王であるアレクの隣に王妃としてきみが立つ未来だ。単なる妻ではなく、ともに国を治め、常に第一の臣たるべき王佐として」
養父は茶器を置き、果実の乗ったパイに専用のフォークを入れた。
「王が国の父ならば、王妃は国の母だ。我が子のように国を愛し、民を慈しみ、末永く豊かに育むことこそ、王妃の責務ではないかな」
「……はい」
在りし日、敬愛をこめてトゥスタの国母と称されたのはわたしの乳母だった。愛するひととの別れを強いられた王たちを支え、ときに厳しく叱咤し、黒猫を戴冠まで導いた偉大な女性。彼女がいたからこそ、二代に及ぶ王妃の不在にもトゥスタ王家は揺らがなかった。
そして黒猫の治世を迎え、トゥスタの民は新たな国母を求めている。変革と波乱の時代にあって輝かしい未来を約束してくれる、正しく優しく美しい、そんな自分たちの母親を。
わたしは乳母にはなれない。なろうとも思わない。けれど、彼女の『娘』として恥じぬ、そして誇ってもらえるような人間になりたい。叶うのならば、選んだ道の先で。
決意をこめて見据えると、養父はふわりと口元をゆるめた。フォークで掬い取った切れ端をひょいとこちらに向ける。
「まあ要するに何が言いたいのかというと――僕はきみに、トゥスタを好きになってもらいたいんだ」
困惑を返すと、促すように深まる笑み。わたしは声にならない声で呻いてから、おそるおそる口を開いた。
途端に甘酸っぱい果汁が弾けた。濃厚なクリームがそこに加わり、滑らかで上品な味わいに仕上がっている。つくづく黒猫の天職は国王ではなく料理人ではないのかと考えてしまう。
「どうだい? アレクは最近で一番の出来だと言っていたが」
「……悔しいほどおいしいです」
「それはよかった」
養父は楽しそうに声を立てて笑った。皺に埋もれた双眸が穏やかにわたしを映す。
「僕は義務感ではなく、きみに心からこの国をいとおしみ、力を尽くしてほしい。そのためには、きみ自身がこの国を感じ、知り、理解していく必要があると思うんだ。長所も短所も、美しさも醜さも、きみの目や耳で確かめ、認めてほしい」
ずっと昔、鉄格子の向こうに見上げた空が甦る。幼いわたしは、恋しい乳母の故国へと何度も思いを馳せた。故郷や家族のことを決して口にしなかった彼女が、たった一度だけ呟いた、まばゆいばかりの春の情景を。
空は澄んだ水のように碧く清く、木々は若葉を光にさんざめかせ、そよぐ風が鳥の歌声を運んでくる。こぼれ落ちるように花が咲き乱れる野で、人々は裸足になって無邪気に笑い踊るのだと。
ようやく見せてあげられる。懐かしい声がささやいたような気がした。
「わたしも、好きになりたいです。……おかあさまが愛された、この国を」
気づけば、視界も声も潤んでいた。養父は何も言わず、いっそう微笑んだ。
そして後日、わたしは人生で生まれてはじめて『おつかい』をすることになったのである。