舞台裏 風の芽吹くとき(序)
冒険とは、おそろしくもなんとも心躍るものだ。
「いいか? 門をくぐったら俺は城仕えの従騎士の『アレク=べテル』で、あんたは見習い女官の『ユーリ=べテル』。ふたりは従兄妹同士で……」
「許嫁の間柄、でしょう? わたしは花嫁修業と行儀見習いを兼ねて王城に上がるために田舎から出てきたばかりで、優しいあなたがはじめての休暇に町へ連れ出してくれた――のよね」
口が酸っぱくなるほどくり返し確認してくる黒猫に、わたしはすっかりうんざりしながら答えた。せっかくの盛り上がった気分が何もはじまらぬうちから醒めてしまうようなことはやめてほしい。しかし、それだけわたしを心配してくれているのだと思うと、文句はため息と一緒に呑みこむしかなかった。
無理もない。わたし自身、黒猫としっかり手をつないでいてもまだ不安がどこかにこびりついている。塔の上の狭い牢の中で十六年を過ごし、このトゥスタにやってきてからも王城の外に出ることのなかったわたしが、はじめて市井に下りるのだから。
今日のために気の利く女官たちが用意してくれたのは、洗いざらしのブラウスとエプロンドレス、靴底がやわらかくて動きやすい半長靴。髪を編みこんでその上からスカーフを巻けば、城下ではありふれた町娘のできあがりだ。
対する黒猫も、着古したシャツにベスト、ぴったりとしたズボンに編み上げ靴という出立ちだ。ただし、腰に佩いた武骨な長剣がただの庶民の若者ではないという身分を示していた。
何よりいつもと違うのは、今の彼は見慣れた黒髪ではなく茶色がかった赤毛だった。聞けば、『アレク=べテル』に扮する際にはこうして染め粉で髪の色を変えているのだという。落葉色の髪を無造作に項で括った黒猫を前にすると、妙に胸がどきどきした。
「何度も言わなくてもわかっているわ。大丈夫よ、『アレク』」
落ち着かない自分をなだめる意味もこめて、息を吸ってにっこりと笑ってみせる。黒猫は困ったように頭を掻き、小さなため息をついた。
「……どんなことでも、何かあったらすぐに言えよ。『ユーリ』」
「ええ、約束するわ」
お互い、つないだ手にぎゅっと力をこめる。すっかりなじんだ黒猫の体温を感じると、息苦しいほどだった緊張が和らぎ、思わず口元がゆるんでしまった。
トゥスタというこの国は、彼の生まれ育ったこの王都は、いったいどんなところなのだろうか。彼はいったいどんな景色を教えてくれるのだろうか。それをともに目にできることが本当に嬉しい。
下官や使用人が使う裏門をくぐれば、そこはもう城下町だ。
こうして、わたしのはじめての冒険は幕を開けた。