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裏切りの翼  作者: 冬野 暉
本編
12/30

終幕 永久の真実

 深い木立に囲まれた墓所は、時が止まったような静寂に満ちていた。

 昼間でも足元に落ちる影は色濃く、黒い木々の向こうの青空が幻に見える。まるで世界から切り離されたように寂しい場所だ。だがその寂しさこそ、死者の眠りが安らかな何よりの証なのかもしれない。

 木立の最も奥まったところに墓所の主はあった。淡い木漏れ日を浴びて仄白く輝く墓標には、王家の紋章と墓の下で眠る者の名、いつ生まれていつ死んだのかということだけが刻まれている。国母とさえ呼ばれた存在の墓とは思えぬ、小さなものだった。

「……本当は、もっと大きな廟を造るつもりだったんだ」

 墓所に入ってから無言だった黒猫が、ひっそりと口を開いた。

 彼は略式の礼服に身を包んでいた。夜の闇で染めたような深い黒。

 普段から黒を基調とした装いが多い黒猫だが、今日のそれは喪服だった。隣に並んだわたし自身、装飾を抑えた黒いドレスを纏っている。

 膝を折った黒猫は、腕に抱えていた花束を墓前に供えた。

「だけど、そんな仰々しいものなんていらないって一蹴された。墓に金をかけるくらいなら戦で疲弊した民のために使えって」

 やわらかな苦笑に、わたしも小さく笑い返した。

「彼女らしいわ」

「俺もそう思う。あのひとはいつだって、だれより国のことを考えてた」

 墓標を見つめる金緑色の瞳には、懐かしさと慕わしさ――母親へ向けるような想いが滲んでいた。

 それはわたしの胸にあるものと同じだった。

 今は亡き彼女の名はセヴィエラ。わたしの乳母であり、そして黒猫の母親代わりだったひと。

 黒猫は先王唯一の世継ぎでありながら、平民を母に持つ庶子だった。彼は十一歳まで市井で育ち、王子であることが知れて城へ召し上げられたのだという。

 たったひとりの家族である母と引き離され、次代の王となることを強いられた少年は、父王を憎み、理不尽な大人たちへ徹底的に抗った。それは更なる周囲との軋轢を生み、孤独の悪循環は幼い心をいっそう荒ませた。

 そんな王子を救ったのが、情勢悪化により故国へ呼び戻された先々代国王の妹だった。

「はじめて会ったとき、お茶をぶっかけたんだ。『だれが来ようと無駄だ、俺は王になんかなるつもりはない。だからとっとと帰れ』って」

「それで、彼女はどうしたの?」

「どうしたと思う?」

 いたずらっぽく見上げられ、わたしは首を傾げた。

「……同じように、お茶を浴びせ返したのかしら」

「正解」

 黒猫は声を立てて笑った。

「無表情のままさ、勢いよくばしゃっと。何が起きたのかわからなくて茫然としてたら、『ご丁寧なご挨拶には、相応の礼儀を以て報いなくてはなりません』って平然と言われた」

 ずぶ濡れになりながら眉ひとつ動かさない乳母の姿が脳裏に浮かんだ。

「すぐにこのひとには敵わないって直感した。しぶとくいろんないたずらをしかけてみたけど、顔色ひとつ変わらなくてさ。それが悔しくて、勉強して見返してやろうと思ったんだ」

 それから反発をくり返すばかりだった王子は変わった。勉学や武芸の鍛練に寝る間も惜しんで取り組み、真綿が水を吸いこむように多くのことを吸収していった。王族としての教養や行儀作法、そして王にとって最も重要な帝王学も乳母から学んだという。

 季節がめぐり、年月が流れ、やがて黒猫は父王を補佐するまでになった。彼が成長した分だけ、乳母の時間も過ぎ去った。

「十五のとき、大叔母様が倒れた。歳が歳なだけに治る見こみがなくて……そのまま一年後、俺の即位を見届けて亡くなった」

「お父君はまだご健在なのでしょう?」

「弱っていく大叔母様の姿に耐えられなかったんだと思う。王位を譲ったあと、世捨て人みたいに隠居したよ。父上にとって、あのひとは母親以上の存在だったから」

 黒猫は目を伏せて首を振った。それ以上何も訊けず、わたしは白い墓標に視線を戻した。

 あれからひと月。

 レイシア王国は崩壊し、その領土はトゥスタ王国に併合された。最後のレイシア国王ヴランヒルトは焼け落ちた王城と運命をともにし、主だった王族の男子も戦死した。生き残ったわずかな王家の女と子どもたちは、捕虜としてトゥスタ王都に留め置かれている。彼女たちの今後の処遇については、まだ決定していない。

 戦火に襲われたレイシア王都は、その三分の一近くが焼失した。命を失った者、焼け出されて路頭に迷った者は数えきれない。戦後処理のために残留しているトゥスタ国軍の一部が、その復興と民の救済に当たっている。

 わたしはトゥスタ国王預りの身となり、黒猫の許で新しい日々を過ごしている。はじめは他のレイシア王族と同様に虜囚として遇されるのかと思っていたが、国母セヴィエラの遺言と国王アレクシオの『軍師』という触れこみがそれを許さなかったらしい。最後まで王女として認知されることがなかったという理由で、処断されるべき王族から除外された。

 トゥスタの人々は、突如現れたわたしをどう扱うべきか決めあぐねているようだった。わたしを見る彼らの目には困惑ばかりが浮かぶ。なかには猜疑心や、出生に対する憐れみを向けてくる者もいた。

 当然だと思う。どんなに黒猫や乳母がわたしを評価してくれていても、彼らにとってわたしは得体の知れぬ人間だ。今のわたしに求められているのは、境遇に憤ることでも嘆くことでもなく、彼らの理解と信頼を得るための努力だ。

 そうでなくて、なぜ黒猫の隣にいられよう。

 どれほど罪を犯そうと生きると決めた覚悟に見合う存在にならなければ、今ここにいるわたしに意味などない。

 黒猫にその思いを打ち明けると、彼はひとりの人物に引き合わせてくれた。

 先々代、先代と二代に渡ってトゥスタ国王の治世を支えた名宰相。官位を返上した今でも若き君主の相談役として国を支え続けているその方は、乳母の夫君だった。

 朗らかで穏やかな、だが亡き妻と同じ厳格な強さを持つ古老は、わたしの師となることを引き受けてくれた。わたしは彼から、王を補佐する者としての在り方を学んでいる。

 目まぐるしく月日が流れ、ようやく日常としての形になりはじめた頃、わたしは黒猫に乳母の墓参りがしたいと頼んだ。

 互いに忙しい合間を縫い、やっとこうして訪れることができた。

「……あんたのことをはじめて聞かされたのは、大叔母様が病床に伏すようになってからだった」

 しばらく続いた沈黙を破ったのは、やはり黒猫だった。

「別れを告げることもできなくて、ずっと心残りだったって。あのひとには子どもがいなかったから、赤ん坊の頃から面倒を見てきたあんたは本当に娘みたいだったんだよ」

「――厳しいひとだったわ」

 溢れそうな感情に胸が詰まる。それを少しでも吐き出したかった。

「厳しくて、強いひとだった。だれひとり味方がいない敵陣で、十年間、まっすぐ顔を上げ続けた」

 誇り高い背中が甦る。

 耳に残る、戒めのような、祈りのような言葉。

「愛されずとも強くなれと教えられた。だれもが疎んだわたしに、生きろと言ってくれた」

 黒猫が立ち上がった。その双眸を、わたしは見つめる。

「……愛していたわ」

 声が震えた。

「わたしにとって、あのひとこそ母だった。愛していた。今でも、愛している」

「大叔母様は、最後まで悔やんでたよ」

 黒猫の掌がそっと頬に添えられた。わたしはその上から手を重ねた。

 あたたかかった。

「あんたに一番大切なことを伝えなかった。……『愛してる』って」

 堪えきれずに俯くと、優しく抱き寄せられた。わたしは黒猫の肩に顔を埋め、彼の外套をきつく握り締めた。

 どんな慟哭も届かない。それでも、わたしの心は喉を嗄らさんばかりに叫び続けた。

 愛しています、愛しています。

 お母様!

「……最初は、あのひとへの恩返しのつもりだったんだ」

 静かな声で、黒猫が告白した。

「思わず嫉妬するぐらい、大叔母様はあんたのことをいとおしそうに話してくれた。だから今際に約束したんだ。あのひとの許にあんたを取り戻すって」

 顔を上げると、彼は苦笑するように微笑んだ。

「本当に、それだけのはずだった。だけどはじめて会ったあんたは……とても痛々しかった」

 黒猫の指先が涙を拭う。それはほっそりしているようで、剣を扱う武骨さも持ち合わせていた。

「大叔母様に愛されているくせに、なんでそんな顔するんだって思った。もしかしたら大叔母様を忘れてるんじゃないかって、腹立たしいくらいだった」

 思わず顔を歪めたわたしに、黒猫はわかっていると言うように頷いた。

「そんなこと、ありえなかったってすぐにわかった。だったら、俺があんたを笑わせなくちゃって思った。外の世界を知らないあんたにいろんなことを教えるのが楽しくて、兄貴でもなったような優越感に浸ってた」

 でも、と黒猫の顔からふと、笑みが引いた。

「あのとき怒ったあんたを見て……あんたは本当に寂しかったんだって思い知った」

 変わりに浮かんだのは、狂おしさに耐えるような表情。瞳の奥に火が点いたように、黒猫のまなざしが熱を帯びた。

 その熱を、わたしは知っている。

「大叔母様の想いが届かないくらい、あんたは寂しかったんだって。それが歯痒くて、俺が、その寂しさを埋めてやりたいって思った」

 わたしと黒猫、いったいどちらからはじまったのか。きっと王ならば、そんなことはどうでもいいと言うだろう。

 ときに人を狂わす想いこそがすべてだと。

「はじめは、そばにいてやりたいって思った。だけど今は、そばにいてほしいとも思う。弱くて、それでも逃げずに前を向いてる強いあんたが、俺は……好きだ」

 心臓が震えた。結ばれた視線から注がれる熱が骨の髄まで呑みこみ、染みこんでいく。

 満ち満ちる、幸福。

「だけど、俺はあんたの父親かもしれないひとを殺した。あんたの故郷を滅ぼした。国のために……あんたを騙した」

 黒猫の顔に痛みのような色が広がった。

「きっとこれからもそうだ。それでも――あんたはここに、いてくれるか?」

 どこかおそれを含んだ問いに、わたしは彼の手に頬を寄せた。答えなど最初から決まっている。

「あなたは王だもの。ならばわたしは、そんなあなたを信じる」

「……小鳥」

「そして、あなたは黒猫」

 もう一度、今度は縋りつくような強さで抱き締められた。わたしは黒猫の背に腕を回した。

「トゥスタのアレクシオ、そして黒猫。それがわたしの選んだ、たったひとつの真実よ」

 永遠の在処を問われたら、わたしはきっと自分の左胸を指し示す。

 わたしの運命、わたしの真実。揺るぎない確信を持って不変と言おう。

 信じるべきものは、ここにある。




 わたしの名は罪。

 わたしの名は裏切り。

 あるいはユリエル、あるいは小鳥。女神とも天使とも、ときに魔女と蔑まれることもある。

 そのどれもが真実であり、わたし自身。数多の名が意味する者はただひとり。

 自分が何者か、わたしこそが知っている。

 わたしは飛び立つ。

 わたしという人生の、大空へ。

Image song 鬼束ちひろ『Cage』『流星群』

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