第十幕 炎に眠る
「アレクシオ陛下、火の手がこの棟にも及んでおります。お早く!」
切羽詰まった伝令の声に静寂が打ち破られた。ざわめき出す兵士たちに、黒猫は冷静に指示を出す。
「まだ息のある者は外へ運べ。捕虜として丁重に扱うのだ」
「まずは御身が優先です!」
「私には、まだやらねばならぬことがある」
「陛下!?」
兵士たちが悲鳴じみた声を上げる。黒猫は目を細め、惚れ惚れするほど不敵に笑ってみせた。
「案ずるな。レイシア国王と心中するつもりはない。だれよりも、おまえたちがこのアレクシオを知っているだろう?」
悔しさすら滲む沈黙が落ちた。黒猫は性悪な君主らしい。
「私よりも、先に姫をお連れしろ」
黒猫が促すように背中を押した。わたしは慌てて振り返った。
「ちょ――ちょっと待って!」
「なんだ」
「あなたを残していくなんて冗談じゃないわ。わたしも残る!」
「……あのなぁ」
あからさまな呆れ顔に、まなざしを据える。
「わたしには、だれより権利と義務があるはずよ。……このひとの最期を見届ける」
視線で王を指し示すと、黒猫はすっと表情を引き締めた。わたしの覚悟を推し量るような王者の顔。
炎にきらめく金緑色の瞳と睨み合うことしばし、黒猫の唇から深いため息が洩れた。
「……わかった」
「ありがとう」
素直に感謝を述べると、彼はなんとも言えぬ苦い顔をした。
「あの、陛下」
戸惑いがちに声をかけてきた兵士に、黒猫はひらひらと手を振った。
「そういうことだ。姫は私がお連れする。おまえたちは捕虜の安全に努めよ」
「――はっ!」
トゥスタの主従は確かな信頼で結ばれているのだろう。兵士たちは迷いのない動作で敬礼した。
彼らが去ってから、わたしは口を開いた。
「いい臣下ね」
「俺にはもったいないくらいだ」
苦笑する黒猫の声は、優しく誇らしげで、だからこそやるせない痛みを帯びていた。
ここに至るまで、どれほどの兵士が戦場で命を散らしたのだろう。王として、国のために死ねと命じたのは黒猫だ。そしてわたしの考えた戦術は、その犠牲の上に成り立っている。
それこそが黒猫の、王の罪。そしてわたしの罪でもある。
背負うと決めたものの大きさに、わたしはぐっと拳を握った。心を奮い立たせんと腹に力をこめる。
「だったら、彼らのためにも生きて帰らなければ。すべてを――終わりにして」
わたしは床にくずおれた王を見た。すでに虫の息になりつつある男は、よく見慣れた皮肉げな笑みを覗かせた。
「余を弑するか……稀代の反逆者よ」
ごぽ、と浅く皺が浮いた口端に血色の泡が滲む。震える長い指がそれを拭い取った。
「そなたが望んだとおり、罪と裏切りによってその名が歴史に刻まれよう。滅びの娘、傾国の悪女と呼ぶ声が聞こえるようだ……」
どこか遠い目をした王の呟きに、黒猫が険しく眉をひそめた。長剣の柄を握り直す気配を感じて、わたしは膝を折って王の視線を捉えた。
「覚悟はできております。後悔はありません」
「裸足で茨を踏むような苦難が待っていてもか」
「それでも」
どんな言葉を受けても、想いは揺らがなかった。
死こそ、唯一にして絶対なる終焉と解放。それを受け容れられぬ自分の弱さが、何より憎かった。けれど今は、苦しくとも生きることをあきらめられなかったわたしを誇りたい。
なぜか泣きたいような心地で、わたしは笑った。
「それでも、生きていきます」
見つめてくる王のまなざしは、穏やかですらあった。彼は数多の感情を呑みこむように目を閉じた。
「……そうか」
ならば、と凪いだ声が続く。
「去れ。アニエスタであることを拒んだそなたは、もういらぬ」
小さく爪を立てられるような痛みを胸の奥に覚え、わたしは唇を噛んだ。
それまで黙り続けていた黒猫が口火を切った。
「本当に、性根の腐った男だな」
君主としての口調ではなく、ひとりの少年である地の口調。薄く開いた王の瞳が、面白がるように黒猫を見た。
「吐き気がする。こいつが今までどんな思いをしてきたのか、少しでも考えたことがあるのかよ?」
怒りと嫌悪を隠しもしない若者に、老いた男は小さく笑った。
「……若いな」
「は?」
「貴殿は、これに惚れておるのか」
これ、と目を向けられたわたしは硬直した。
だれが、だれに。
「惚れ……?」
反射的に黒猫を見ると、……彼は炎の色よりも鮮やかに顔を染めていた。
一瞬言葉を詰まらせ、しかしすぐにキッと王を睨み返す。
「だったら、どうした」
否定ではない答えに、今度はわたしの頭が沸騰する。耳が焼け落ちそうだ。
王はいっそう笑い声を立てた。
「何も。貴殿も余と同じ穴の狢というだけだ」
「なんだと!?」
「憎しみも覚えたが、余はまぎれもなくアニエスタに恋い焦がれた」
空色の瞳に光が灯る。それははじめて見る、力強い表情だった。
「余とは違うというならば、恋情に狂うことなく、この娘の幸福を守り抜いてみせよ」
黒猫の目が見開かれ、わたしは喉を詰まらせた。
どんな思いも言葉にならなかった。
「せいぜい足掻くがいい。余は地獄の底で、盗人が落ちてくることを待とう」
「……ぬかせ」
台詞とは裏腹なまなざしを、黒猫はまっすぐ受け止めた。
「言われなくても、最初からそのつもりだ」
満足そうに王は双眸を細めた。かろうじて起き上がっていた体がどさりと床に伏す。
「陛下」
「もう行け……じきにここも炎に包まれよう」
とうとう窓ガラスが甲高い悲鳴を上げて砕け散った。黒猫に抱き寄せられ、その身に庇われる。激しい熱風が火の粉とともに吹きこんできた。
「……っ」
滲む汗さえ瞬く間に蒸発してしまう熱気に、わたしはめまいを覚えた。炎の狂乱はすぐそこまで迫り、黒猫の表情が厳しくなった。
「行け」
もう一度王がくり返した。一気に体力を消耗したように、その呼吸はか細かった。
「今更情けなど無用。勝者は、ただ敗者に背を向ければよい」
彼の目がわたしを見る。そこにあったのは、祈りにも似た祝福だった。
「前だけを見据えて、行け。――ユリエル」
「……え」
今。
王は、だれを呼んだのか。
「余だけが知る……そなたの名だ」
確かなぬくもりを持つ微笑みが答えだった。
「そう名づけるつもりだった。ユリエル、罪人にすら救済をもたらすという慈悲深き天使」
王の瞼がゆるりと閉ざされる。彼は最後の吐息を押し出すように、告げた。
「そなたが余の娘であればと……願ったことは、嘘ではない」
「――ッ!」
とっさに駆け寄りかけた体を抱き竦められた。赤い絨毯から炎が噴き上がり、滑るように広がっていく。
「行くんだ、小鳥!」
黒猫の怒声が鼓膜を殴った。顔を上げると、悲痛に歪む金緑色の瞳と目が合った。
この手で掴んだ、かけがえのない真実。
わたしは沸き立つ感情を振り切って、彼の首にかじりついた。
そのまま勢いよく抱き上げられる。駆け出す黒猫の向こう、炎のなかに沈む王の姿が見えた。
眠っているかのような横顔は、安らかだった。
貪欲な業火はすべてを呑みこんでいく。狂気も因果も、愛も憎しみも。
――お父様。
一度として口にできなかった想いも、葬送の煉獄に消えた。